駆け引きトライアングル
「本当に、何故あんなに意固地になっているか分からないんです」
フリーランスのウェブデザイナーをしている彼の事務所に向かえば、約束の時間より早く会議室に通してくれた彼が困惑の表情で言った。長谷幹矢氏。長谷実果子の別居中の旦那さんだ。
「離婚はしたくないですが、どうしてもと言うなら仕方ないと思っています。でも慰謝料一億なんて馬鹿げているとしか思えないでしょう?」
弁護士と一緒に関係者に会いに行くとき、事務員はただの記録係に徹する。完全に中立で余計な口も挟まない。そう決めている富田でさえ頷きたくなってしまう言葉だった。ソファーの隣にいる大岡も、穏やかに頷き返している。
「失礼ですが、十年前に浮気騒動があったとか」
大岡が問えば「他人にそんなことまで話したんですか」と、幹矢氏が苦々しい顔を見せた。
「浮気なんかではなかったんです。まだ会社勤めだった頃、若い後輩に好意を持たれまして、何度かメールを貰った。ただそれだけのことでした。でも実果子が大騒ぎをして、友人知人を巻き込んでしまって、後に引けなくなったんでしょね。浮気をしていました。申し訳ありませんでしたと謝ればこの騒ぎは終わりにすると言われて、仕方なく謝ったんです。そのあとは約束通り静かになって、実果子がこの十年話を蒸し返すようなこともなかったんです」
「なるほど。それがいきなり半年程前から奥様の言動がおかしくなった、と」
「ええ。些細なことで怒って物を投げて壊したり、大きな声を上げてみたり。一度知り合いの医者に診せたりもしたんですけど、身体には異常がなくて、そうこうしているうちに離婚したいと言い出したという訳です」
「半年前に何か奥様に特別なことはありませんでしたか?」
そう聞いた大岡の合図で、富田がタブレット端末を操作して目的のページだしたものを幹矢氏に差し出す。
「奥様の日記です。半年前から書き始めたもので、離婚交渉で有利に働く筈だからと、彼女の方から提供してくれました。これはデータにしたものなのですが」
こういう紙の証拠品を預かったとき、大抵原本の方は相手に見せない。逆上した相手に破かれでもすれば、大切な証拠品を破損してしまうことになるからだ。
「酷い書かれようですね。夫婦なら誰もが経験しそうなことに思えますけど」
彼の言う通り、実果子の日記に書かれた不満は些細なことが多かった。
『今日は九時には帰ると言ったのに、帰ってきたのは十時だった。私に嘘を吐いた』
『カレーを作ったら、○○屋のカレーがおいしいから今度食べに行こうと言われた。暗に私の料理が気に入らないと言いたかったらしい』
『仕事が上手くいって幸せだと聞こえよがしに言われた。生活が幸せでないから仕事だけが幸せだと言いたいのだろうか』
どれもほとんど言い掛かりだ。最後のものに関して言えば、仕事は実果子だって上手くいっているのだ。
「私は実果子さんの弁護士ですが、もちろん法外な慰謝料を要求するようなことはしません。そもそもできる筈もありませんしね」
実果子の異常さに絶望的になりかけた空気を払うように、大岡がきっぱりとした口調で言った。
「離婚は避けられないかもしれませんが、できる限り実果子さんの気持ちが済ませて、その後長谷さんに迷惑を掛けない形で決着させたいと思っています。そのために、些細なことでも彼女について気になることがあれば教えてください」
「こちらがお願いしたいくらいです。思い出したことがあれば連絡します。どうか妻をよろしくお願いします」
そう言って頭を下げたところで幹矢氏との面談は終了した。
「いい旦那さんでしたね」
デザイン関係の事務所ばかり集まったビルということで、外観もお洒落で壁の色は水色というビルを振り返って言えば、隣を歩く大岡も頷いた。
「離婚も甘んじて受け入れるという感じだし、お金が欲しいというならある程度出してもいいという感じもする。彼女も一億なんて馬鹿げていると分かっている筈なのに、どうしてムキになっているんだろう」
しばらく考えながら歩いていた彼が、途中でふと気づいたように身体に纏う空気を変える。
「ごめん。移動中まで仕事の話に付き合わせちゃ申し訳ないね。予定外で外出までしてもらったのに」
「それは別に構いませんけど」
今日の大岡は外での仕事が続いていて、これから一社中間決算の打ち合わせに行って、そのあと幹矢氏との面談の報告で実果子のところに向かう予定になっている。決算の会社ではその会社のパソコンを使うことになっているから、富田がタブレット端末と幹矢氏に会うために準備していた資料を持ち帰ることになっていた。
「旦那さんのところでこれといった成果がなかったなんて報告したら、実果子さんがまた怒りそうですね」
「うん。書類の受け渡しだけでも、事務員を向かわせると怒るしね。私を馬鹿にしているのかって。聡太のことは気に入っているみたいだけど、それでも話したいなら弁護士が来い。弁護士と事務員二人で来るなら許してやるって感じなんだよね」
「譲れないポリシーなんでしょうね」
フリーランスのウェブデザイナーをしている彼の事務所に向かえば、約束の時間より早く会議室に通してくれた彼が困惑の表情で言った。長谷幹矢氏。長谷実果子の別居中の旦那さんだ。
「離婚はしたくないですが、どうしてもと言うなら仕方ないと思っています。でも慰謝料一億なんて馬鹿げているとしか思えないでしょう?」
弁護士と一緒に関係者に会いに行くとき、事務員はただの記録係に徹する。完全に中立で余計な口も挟まない。そう決めている富田でさえ頷きたくなってしまう言葉だった。ソファーの隣にいる大岡も、穏やかに頷き返している。
「失礼ですが、十年前に浮気騒動があったとか」
大岡が問えば「他人にそんなことまで話したんですか」と、幹矢氏が苦々しい顔を見せた。
「浮気なんかではなかったんです。まだ会社勤めだった頃、若い後輩に好意を持たれまして、何度かメールを貰った。ただそれだけのことでした。でも実果子が大騒ぎをして、友人知人を巻き込んでしまって、後に引けなくなったんでしょね。浮気をしていました。申し訳ありませんでしたと謝ればこの騒ぎは終わりにすると言われて、仕方なく謝ったんです。そのあとは約束通り静かになって、実果子がこの十年話を蒸し返すようなこともなかったんです」
「なるほど。それがいきなり半年程前から奥様の言動がおかしくなった、と」
「ええ。些細なことで怒って物を投げて壊したり、大きな声を上げてみたり。一度知り合いの医者に診せたりもしたんですけど、身体には異常がなくて、そうこうしているうちに離婚したいと言い出したという訳です」
「半年前に何か奥様に特別なことはありませんでしたか?」
そう聞いた大岡の合図で、富田がタブレット端末を操作して目的のページだしたものを幹矢氏に差し出す。
「奥様の日記です。半年前から書き始めたもので、離婚交渉で有利に働く筈だからと、彼女の方から提供してくれました。これはデータにしたものなのですが」
こういう紙の証拠品を預かったとき、大抵原本の方は相手に見せない。逆上した相手に破かれでもすれば、大切な証拠品を破損してしまうことになるからだ。
「酷い書かれようですね。夫婦なら誰もが経験しそうなことに思えますけど」
彼の言う通り、実果子の日記に書かれた不満は些細なことが多かった。
『今日は九時には帰ると言ったのに、帰ってきたのは十時だった。私に嘘を吐いた』
『カレーを作ったら、○○屋のカレーがおいしいから今度食べに行こうと言われた。暗に私の料理が気に入らないと言いたかったらしい』
『仕事が上手くいって幸せだと聞こえよがしに言われた。生活が幸せでないから仕事だけが幸せだと言いたいのだろうか』
どれもほとんど言い掛かりだ。最後のものに関して言えば、仕事は実果子だって上手くいっているのだ。
「私は実果子さんの弁護士ですが、もちろん法外な慰謝料を要求するようなことはしません。そもそもできる筈もありませんしね」
実果子の異常さに絶望的になりかけた空気を払うように、大岡がきっぱりとした口調で言った。
「離婚は避けられないかもしれませんが、できる限り実果子さんの気持ちが済ませて、その後長谷さんに迷惑を掛けない形で決着させたいと思っています。そのために、些細なことでも彼女について気になることがあれば教えてください」
「こちらがお願いしたいくらいです。思い出したことがあれば連絡します。どうか妻をよろしくお願いします」
そう言って頭を下げたところで幹矢氏との面談は終了した。
「いい旦那さんでしたね」
デザイン関係の事務所ばかり集まったビルということで、外観もお洒落で壁の色は水色というビルを振り返って言えば、隣を歩く大岡も頷いた。
「離婚も甘んじて受け入れるという感じだし、お金が欲しいというならある程度出してもいいという感じもする。彼女も一億なんて馬鹿げていると分かっている筈なのに、どうしてムキになっているんだろう」
しばらく考えながら歩いていた彼が、途中でふと気づいたように身体に纏う空気を変える。
「ごめん。移動中まで仕事の話に付き合わせちゃ申し訳ないね。予定外で外出までしてもらったのに」
「それは別に構いませんけど」
今日の大岡は外での仕事が続いていて、これから一社中間決算の打ち合わせに行って、そのあと幹矢氏との面談の報告で実果子のところに向かう予定になっている。決算の会社ではその会社のパソコンを使うことになっているから、富田がタブレット端末と幹矢氏に会うために準備していた資料を持ち帰ることになっていた。
「旦那さんのところでこれといった成果がなかったなんて報告したら、実果子さんがまた怒りそうですね」
「うん。書類の受け渡しだけでも、事務員を向かわせると怒るしね。私を馬鹿にしているのかって。聡太のことは気に入っているみたいだけど、それでも話したいなら弁護士が来い。弁護士と事務員二人で来るなら許してやるって感じなんだよね」
「譲れないポリシーなんでしょうね」