駆け引きトライアングル
そう言われて断る理由などなかった。女性上司とのやりとりで疲れている自分に就職活動などできるだろうか。だが働かなければ貯えは減っていく。そう不安に思っていた富田を彼が救ってくれた。これで次の仕事に困らない。それよりも、この幻みたいにいい男と働けることが嬉しかった。
それから二年、懸命に働いてきたつもりだ。だが実際、自分はどれほど役に立てていたのだろう。彼を知れば知るほど能力の高さを知って、その差を思い知る羽目になる。うかうかするうちに女性と過ごす夜のセッティングをする羽目になった。想いが成就する可能性などゼロどころかマイナスなのだ。
「……聡太?」
「……っ」
起きないと思っていた彼が起き出して、ばっと音がする勢いで身体を起こした。
「勇人さん、起きないかと思っていました」
だからといって許される体勢ではない。
「ぐっすり眠っていたんだけど、途中で聡太と戸倉くんが二人でどこかに行ってしまう夢を見たから」
富田が胸の上にいたことには特に何も言わず、彼はそんなことを言う。
「戸倉さんじゃなく戸倉くんの方なんですね」
「幸子さんの方なら心配はないでしょう?」
煌なら心配があるのだろうか。嫉妬かもしれないと都合よく考えてしまうから、惑わすようなことを言わないでほしい。
「仕事は全部片付いたんですよね?」
話を変えるために聞いた。
「うん。全部終わらせて、聡太たちの仕事も片付けた」
「ありがとうございます。流石ですね」
「聡太に褒められたかったから」
いつもきっちり上げている前髪が乱れて、その間から彼の特徴的な雌雄眼が富田に向く。軽い調子の台詞と裏腹に、その瞳が別のことを告げるように鋭くて、どう返していいか分からなくなった。落ち着け。平静を保て。ここで気持ちがバレれば更に状況は悪くなる。そう思って必死に暴れようとする胸を鎮めようとしていたところで、コンコンと面談室のドアがノックされる。
「俺、もう今日は上がっていいですか?」
ドアから顔を覗かせた煌が、二人の状況に何か言うこともなく平然と聞いてきた。
「うん、いいよ。色々とおかしな指示を出してごめんね」
平然としたままなのは大岡も同じで、動揺している自分がおかしいのかと錯覚しそうになってしまう。
「入口に置いてあったDM便は宅配センターに持っていっておきますよ。ここにドライバーさんが来たら気まずいでしょうから」
「そう? ありがとう。気が利くね」
煌の際どい台詞にも大岡が動じる様子はない。とりあえず富田の体勢はおかしいだろうと、立ち上がってソファーから離れてみる。
「あ、そうだ」
閉じかけたドアをもう一度開けて、煌がもう一度部屋の中に顔を向けた。その顔が、嫌な予感しか生まない怪しげな笑みを見せる。
「今日は二人で過ごせてよかったですね、富田さん。土曜のランチも楽しかったし、また二人で出掛けましょうね」
「ちょっと!」
「じゃあ、また明日」
声を上げる富田ではなく、大岡に微笑んで彼は帰っていった。余計なことを言う男だ。それもまるで休日に待ち合せて出掛けたような話の盛り方をする。
「戸倉くんと付き合っているの?」
「まさか!」
ストレートに聞かれて、また必要以上に声を上げてしまった。
「土曜に会ったのは事実なんでしょう?」
「戸倉さんのお見舞いに行って偶然会っただけです。戸倉さんが甥とお茶でもしてほしいって言うから仕方なく」
「そっか」
それまで寝起きモードでソファーに身体を預けていた彼が、いつもの彼に戻って立ち上がる。さっき富田がポールラックに掛けたベストを見つけて、『弁護士事務所のボス』の武装に戻ってしまう。
「戸倉さんの甥だし、事務所の新しい仲間と仲よくするのはいいことだけど、惚れた腫れたは彼のバイト期間が終わってからにしてほしいな。やっぱり同じ事務所内は気まずいから」
なんだそれ、と柄にもなくムッとした。何故煌とくっつくのが決まっているような言い方をするのだ。それより、彼とくっついても別に構わないというニュアンスにぐさりと胸をやられる。
「勇人さんに言われる筋合いはありません」
彼が驚いたように片眉を上げるのに気づきながら、一度箍が外れてしまった言葉を制御できなかった。
「女性との夜遊びを隠しもしないで、俺にお店まで選ばせているじゃないですか。それに比べたら、戸倉くんと付き合うことのどこがいけないのか分かりません」
「彼が好きなの?」
「いえ。でも先のことは分かりません。付き合ってほしいと言ってくれましたから」
しまった、そこまで言う必要はなかった。そう気づいたが、もう後には引けなかった。
「帰ります」
「聡太」
今日はもう離れてしまおう。立ち去ろうとしたのを、腕を引いて止められる。
「ごめん」
謝られてしまえば、こちらも怒り続ける意味がなくなった。
「いえ。俺の方こそ」
そう言ってやんわりと彼の手を外す。戦闘モード後の彼を更に疲れさせるようなことをしてどうするのだ。これじゃ頼れる部下失格だと、ため息の一つも吐きたくなる。
「仕事が一段落したなら、今夜は女の人と遊んだらどうです?」
大岡を癒せるものは何かと考えて、結局出てきたのはそれだった。悔しいが、自分では極限状態を乗り越えた彼を癒してあげられない。
「ルームサービスが人気のホテルでも予約しましょうか?」
「いらない」
いい考えだと思ったのに、思いがけず強い調子で拒否されてしまった。
「……そう、ですよね。疲れているから早く帰りたいですよね」
「そうじゃなくて、もうレストランとホテルのセッティングはいらない」
また彼の視線が鋭くなって、まるで隠しごとを探られているかのように落ち着かなかった。
「どうしてですか? 前に俺が選んだ場所が気に入らなかったとか?」
「ううん。一つ分かったから」
「何を」
そこで、いらないものを脱ぎ捨てるように彼の表情が変わった。ごく簡単なことに気づいたとでもいうように、すっきりとした顔になる。
「欲しい人ができた。だからもう余所では遊ばない」
「え……」
あっさりとどん底に突き落とされた。今までは遊びだった。遊び相手すら見つからない彼に呼び出される。そんな時間が好きだった。だがもうそんな夜は来ない。特殊業務は廃業だ。大岡なら狙った相手を落とすことなど簡単だろう。恋人ができれば、彼のプライベートに関わることはなくなる。彼の部屋で掃除や裁縫をするのは恋人の役目になる。それが普通のボスと事務員の関係だと分かっていて、胸の中の動揺が収まってくれない。
「どうかした?」
「……いえ。じゃあ、これからは先生が本命と上手くいくように協力します」
混乱のせいで普段二人でいるときには使わない先生なんて呼び方をしてしまうが、今更訂正もないだろう。
「では今度こそ、お先に失礼します」
馬鹿みたいに丁寧に挨拶をして、ばたばたと支度をして事務所を出る。
大岡に好きな人ができる。いつかその日が来ることは覚悟していたから、シミュレーションを重ねてきた。よかった、これで俺も面倒事から解放される。そう言える筈だったのに、上手くいかなかったのは何故だろう。そうだ、不意討ちだったからだ。その前に煌がランチに行ったなどと、おかしなことを言ったから。そう彼のせいにしたくなる自分が嫌になる。
本当は分かっている。些細なきっかけで崩れてしまうほど、富田の気持ちを隠すシールドは薄くてペラペラだった。ひょんなことから気持ちが伝わって、二人の関係が進むことがあるのではないかという期待を隠していたから。だがそんな自分が恥ずかしくなった。彼はあっさりと本命を見つけた。富田が煌と付き合っても別に哀しくはない。困るとしたら業務に支障が出ることだけ。分かっていたのに、想像よりずっと胸が痛い。富田の本音は大岡が好きだから。人間としてではなく恋愛対象として。
一階に下りて建物を出たところで二階の窓を見上げてみるが、ブラインドカーテンのせいで暗いのか明るいのかさえ分からなかった。それが腹立たしくて、大通りに向かって早足で帰っていく。
「自滅してどうするんだ」
横断歩道前の雑踏に紛れたところで零れた。何が協力だ。何故失恋の傷を抉るようなことをしなければならないのだ。さっき咄嗟に出てきた自身の言葉が腹立たしい。
大岡と戸倉と富田で心地いい空間を護ってきた。それがずっと続けばいいと思うのは、いけないことだったのだろうか。
考えても分からなくて、気づいたときには一度青になった信号が点滅して、また赤に変わっていた。
それから二年、懸命に働いてきたつもりだ。だが実際、自分はどれほど役に立てていたのだろう。彼を知れば知るほど能力の高さを知って、その差を思い知る羽目になる。うかうかするうちに女性と過ごす夜のセッティングをする羽目になった。想いが成就する可能性などゼロどころかマイナスなのだ。
「……聡太?」
「……っ」
起きないと思っていた彼が起き出して、ばっと音がする勢いで身体を起こした。
「勇人さん、起きないかと思っていました」
だからといって許される体勢ではない。
「ぐっすり眠っていたんだけど、途中で聡太と戸倉くんが二人でどこかに行ってしまう夢を見たから」
富田が胸の上にいたことには特に何も言わず、彼はそんなことを言う。
「戸倉さんじゃなく戸倉くんの方なんですね」
「幸子さんの方なら心配はないでしょう?」
煌なら心配があるのだろうか。嫉妬かもしれないと都合よく考えてしまうから、惑わすようなことを言わないでほしい。
「仕事は全部片付いたんですよね?」
話を変えるために聞いた。
「うん。全部終わらせて、聡太たちの仕事も片付けた」
「ありがとうございます。流石ですね」
「聡太に褒められたかったから」
いつもきっちり上げている前髪が乱れて、その間から彼の特徴的な雌雄眼が富田に向く。軽い調子の台詞と裏腹に、その瞳が別のことを告げるように鋭くて、どう返していいか分からなくなった。落ち着け。平静を保て。ここで気持ちがバレれば更に状況は悪くなる。そう思って必死に暴れようとする胸を鎮めようとしていたところで、コンコンと面談室のドアがノックされる。
「俺、もう今日は上がっていいですか?」
ドアから顔を覗かせた煌が、二人の状況に何か言うこともなく平然と聞いてきた。
「うん、いいよ。色々とおかしな指示を出してごめんね」
平然としたままなのは大岡も同じで、動揺している自分がおかしいのかと錯覚しそうになってしまう。
「入口に置いてあったDM便は宅配センターに持っていっておきますよ。ここにドライバーさんが来たら気まずいでしょうから」
「そう? ありがとう。気が利くね」
煌の際どい台詞にも大岡が動じる様子はない。とりあえず富田の体勢はおかしいだろうと、立ち上がってソファーから離れてみる。
「あ、そうだ」
閉じかけたドアをもう一度開けて、煌がもう一度部屋の中に顔を向けた。その顔が、嫌な予感しか生まない怪しげな笑みを見せる。
「今日は二人で過ごせてよかったですね、富田さん。土曜のランチも楽しかったし、また二人で出掛けましょうね」
「ちょっと!」
「じゃあ、また明日」
声を上げる富田ではなく、大岡に微笑んで彼は帰っていった。余計なことを言う男だ。それもまるで休日に待ち合せて出掛けたような話の盛り方をする。
「戸倉くんと付き合っているの?」
「まさか!」
ストレートに聞かれて、また必要以上に声を上げてしまった。
「土曜に会ったのは事実なんでしょう?」
「戸倉さんのお見舞いに行って偶然会っただけです。戸倉さんが甥とお茶でもしてほしいって言うから仕方なく」
「そっか」
それまで寝起きモードでソファーに身体を預けていた彼が、いつもの彼に戻って立ち上がる。さっき富田がポールラックに掛けたベストを見つけて、『弁護士事務所のボス』の武装に戻ってしまう。
「戸倉さんの甥だし、事務所の新しい仲間と仲よくするのはいいことだけど、惚れた腫れたは彼のバイト期間が終わってからにしてほしいな。やっぱり同じ事務所内は気まずいから」
なんだそれ、と柄にもなくムッとした。何故煌とくっつくのが決まっているような言い方をするのだ。それより、彼とくっついても別に構わないというニュアンスにぐさりと胸をやられる。
「勇人さんに言われる筋合いはありません」
彼が驚いたように片眉を上げるのに気づきながら、一度箍が外れてしまった言葉を制御できなかった。
「女性との夜遊びを隠しもしないで、俺にお店まで選ばせているじゃないですか。それに比べたら、戸倉くんと付き合うことのどこがいけないのか分かりません」
「彼が好きなの?」
「いえ。でも先のことは分かりません。付き合ってほしいと言ってくれましたから」
しまった、そこまで言う必要はなかった。そう気づいたが、もう後には引けなかった。
「帰ります」
「聡太」
今日はもう離れてしまおう。立ち去ろうとしたのを、腕を引いて止められる。
「ごめん」
謝られてしまえば、こちらも怒り続ける意味がなくなった。
「いえ。俺の方こそ」
そう言ってやんわりと彼の手を外す。戦闘モード後の彼を更に疲れさせるようなことをしてどうするのだ。これじゃ頼れる部下失格だと、ため息の一つも吐きたくなる。
「仕事が一段落したなら、今夜は女の人と遊んだらどうです?」
大岡を癒せるものは何かと考えて、結局出てきたのはそれだった。悔しいが、自分では極限状態を乗り越えた彼を癒してあげられない。
「ルームサービスが人気のホテルでも予約しましょうか?」
「いらない」
いい考えだと思ったのに、思いがけず強い調子で拒否されてしまった。
「……そう、ですよね。疲れているから早く帰りたいですよね」
「そうじゃなくて、もうレストランとホテルのセッティングはいらない」
また彼の視線が鋭くなって、まるで隠しごとを探られているかのように落ち着かなかった。
「どうしてですか? 前に俺が選んだ場所が気に入らなかったとか?」
「ううん。一つ分かったから」
「何を」
そこで、いらないものを脱ぎ捨てるように彼の表情が変わった。ごく簡単なことに気づいたとでもいうように、すっきりとした顔になる。
「欲しい人ができた。だからもう余所では遊ばない」
「え……」
あっさりとどん底に突き落とされた。今までは遊びだった。遊び相手すら見つからない彼に呼び出される。そんな時間が好きだった。だがもうそんな夜は来ない。特殊業務は廃業だ。大岡なら狙った相手を落とすことなど簡単だろう。恋人ができれば、彼のプライベートに関わることはなくなる。彼の部屋で掃除や裁縫をするのは恋人の役目になる。それが普通のボスと事務員の関係だと分かっていて、胸の中の動揺が収まってくれない。
「どうかした?」
「……いえ。じゃあ、これからは先生が本命と上手くいくように協力します」
混乱のせいで普段二人でいるときには使わない先生なんて呼び方をしてしまうが、今更訂正もないだろう。
「では今度こそ、お先に失礼します」
馬鹿みたいに丁寧に挨拶をして、ばたばたと支度をして事務所を出る。
大岡に好きな人ができる。いつかその日が来ることは覚悟していたから、シミュレーションを重ねてきた。よかった、これで俺も面倒事から解放される。そう言える筈だったのに、上手くいかなかったのは何故だろう。そうだ、不意討ちだったからだ。その前に煌がランチに行ったなどと、おかしなことを言ったから。そう彼のせいにしたくなる自分が嫌になる。
本当は分かっている。些細なきっかけで崩れてしまうほど、富田の気持ちを隠すシールドは薄くてペラペラだった。ひょんなことから気持ちが伝わって、二人の関係が進むことがあるのではないかという期待を隠していたから。だがそんな自分が恥ずかしくなった。彼はあっさりと本命を見つけた。富田が煌と付き合っても別に哀しくはない。困るとしたら業務に支障が出ることだけ。分かっていたのに、想像よりずっと胸が痛い。富田の本音は大岡が好きだから。人間としてではなく恋愛対象として。
一階に下りて建物を出たところで二階の窓を見上げてみるが、ブラインドカーテンのせいで暗いのか明るいのかさえ分からなかった。それが腹立たしくて、大通りに向かって早足で帰っていく。
「自滅してどうするんだ」
横断歩道前の雑踏に紛れたところで零れた。何が協力だ。何故失恋の傷を抉るようなことをしなければならないのだ。さっき咄嗟に出てきた自身の言葉が腹立たしい。
大岡と戸倉と富田で心地いい空間を護ってきた。それがずっと続けばいいと思うのは、いけないことだったのだろうか。
考えても分からなくて、気づいたときには一度青になった信号が点滅して、また赤に変わっていた。