駆け引きトライアングル
商品も凄いが、一瞬で富田が欲しいと言ったものを選び出す彼女が凄いと思う。
「試飲してみる?」
「いえ。これ買います」
「そう。五個入りと十個入りがあるけど、どっちにする?」
「とりあえず五個で」
そこは慎重に応えれば、冒険のできない性格ねと笑われてしまう。だが既に彼女に対してきついとか激しい女性だと思うことはなくなっていた。はっきり言いたいことを言う女性だ。そんな女性が何故たかが離婚で神経を擦り減らしているのだろう。そう思うが、それを聞くのは大岡の仕事だから、余計な言葉は呑み込んでしまう。
「ディクサムのミルクティーのときも思ったけど、あなた悪い人間じゃないわね」
「光栄です」
彼女にとっては上位の褒め言葉なのだろう。
「お店のライングループがあるけど友達登録する?」
「はい、是非」
彼女の方から距離を縮められて断る筈がなかった。仲よくなっておけば、万が一大岡が困ったときに役立つかもしれない。彼の姿を思い浮かべた瞬間、彼用にも何か買いたくなって、オレンジの乗ったクッキーも買ってしまう。思ったより買いものに夢中になって、一時間程で店を出ることになった。
「よくあんな強烈な女性と仲よくできるね」
駅に戻りながら、店内で存在を消していた彼に言われて笑ってしまう。
「慣れれば嫌な女性でもないですよ。勇人さんとの面談でも、少しは態度を軟化させてくれるといいんですけど」
「結局大岡さんか。そんな、経費で落ちないものまで買っちゃって」
「お茶とお菓子が買えないような薄給ではないから。沢山入っているし、戸倉くんもこのクッキー食べてみますか?」
大岡用と自分用に二つ買ったから、自分用を彼にあげようと紙袋を探るが、クッキーに辿り着く前に止められる。
「俺はいりません。大岡さんのおこぼれなんて貰いたくないですから」
「そう」
富田用の方だからおこぼれではないが、いらないというのだから無理に勧める必要もないだろう。
「引くの早いって」
「欲しいんですか?」
「いいえ。でもやっぱり、俺は気の強い女性より富田さんみたいな男性の方が好きだなって」
「何それ」
富田にとっては長谷より煌の方が強烈な存在だ。だが彼の躱し方も少しずつ分かってきた気がする。
「思ったより時間が経っていましたね。もう勇人さんも大丈夫だと思いますし、事務所に戻りましょうか」
「大丈夫だと思うって、大岡さんは一体どうなっているんですか?」
「多分眠っています」
そんな富田の予想通り、事務所に帰り着けばデスクに彼の姿がなかった。それならここだと面談室に入れば、ソファーでブランケットを被った彼が眠っている。徹夜用の毛布もあるのに、そんな薄布一枚で眠れば風邪を引いてしまうだろうと、つい咎めたくなってしまう。
「勇人さん、こんなところで寝ないでください。タクシーで送りますから家に帰りましょう?」
身体を軽く揺すりながら言ってみるが、起きる気配はないので諦める。戦闘モード後の彼は眠りも深くて、ちょっとやそっとでは起きない。それなら彼が起きるまで付き合うまでだ。そう決めてしまって、ソファーの背凭れに無造作に置かれたジャケットとベストを回収してハンガーに掛けておく。奥の物入れから毛布を取ってきて身体を覆ってやる。デスクに戻って仕事の進捗を確認しなければならないと分かっていながら、離れ難くてずっとソファーの前で膝立ちのまま彼の姿を見ていた。多分、廃業騒動の件はなんとかしてしまったのだろう。能力がありすぎる人だから、その超人ぶりを見せつけられると落ち込んでしまう。力の差に落ち込むのではなく、彼が追い込まれたときに力になれない自分が悔しいのだ。彼に救ってもらった身で、いつか恩返しがしたいと思っているのに、未だに相応のものを返せていない自分が情けない。
「勇人さん」
起きる気配がないから、彼の胸に顔を寄せる。
富田も戸倉と同じように、元は彼の依頼人だった。大学卒業後に入った商社で、女性上司との関係に困っていた富田を、彼が綺麗に退職させてくれたのだ。
あまり嫌だ嫌いだを言わないようにしている富田でも、嫌いだと断言できる人間だった。平凡な富田の会社員生活をおかしくしてしまった女性。
よくある話だ。彼女は富田に恋愛関係を迫ってきた。初めは、追加作業だと言って二人きりの残業を命じて、その後何度も食事に連れ出された。ある晩飲みに付き合わされて、もう一軒行こうと言われた先がホテルだと分かったとき、急に頭の芯が冷えて、冷静に彼女を拒絶した。
「いい加減にしてくれませんか? どんな小細工をしようと、俺があなたを好きになることはない」
そう言って帰った富田に、翌日から手のひらを返したような嫌がらせが始まった。ミーティングの時間を一人だけ知らされなかったり、急ぎの郵便物を隠したり、態度が悪いと上に報告したり、どれも古典的なものだが、それなりにダメージは受けた。すぐに謝ってくるだろうと思っていた富田が意外に強情だったことも気に入らなかったらしい。最終的に彼女は、「彼に迫られて、ストーカーまがいのことをされて困っている」と人事に嘘の報告をした。富田が人事に相談に行った場合の予防線でもあったのだろう。面倒になって退職を考えるようになっていたが、流石にやられっぱなしは気分が悪い。彼女が会社中にばら撒いた根も葉もない噂くらいは消していきたい。そう思って大岡総合法律事務所のドアを叩いた。大岡の事務所を選んだのは着手金がどこよりも安かったから。最悪十万、二十万無駄になることも覚悟していたのに、大岡は良心的な料金で想像以上の仕事をしてくれた。彼女の悪事を調べ上げて会社のコンプライアンス機関に報告して、富田への中傷の慰謝料まで取った。正規の退職金と有休の完全取得まで護って、なんの心配もなく会社を去れるようにしてくれたのだ。
その上、次の仕事が決まっていないと言ったら、この事務所で働けばいいと言ってくれた。
「ちょうど仕事も増えてきて、事務員を一人増やそうと思っていたんだ。だから富田さんがいいなら明日からでも来てほしい」
「試飲してみる?」
「いえ。これ買います」
「そう。五個入りと十個入りがあるけど、どっちにする?」
「とりあえず五個で」
そこは慎重に応えれば、冒険のできない性格ねと笑われてしまう。だが既に彼女に対してきついとか激しい女性だと思うことはなくなっていた。はっきり言いたいことを言う女性だ。そんな女性が何故たかが離婚で神経を擦り減らしているのだろう。そう思うが、それを聞くのは大岡の仕事だから、余計な言葉は呑み込んでしまう。
「ディクサムのミルクティーのときも思ったけど、あなた悪い人間じゃないわね」
「光栄です」
彼女にとっては上位の褒め言葉なのだろう。
「お店のライングループがあるけど友達登録する?」
「はい、是非」
彼女の方から距離を縮められて断る筈がなかった。仲よくなっておけば、万が一大岡が困ったときに役立つかもしれない。彼の姿を思い浮かべた瞬間、彼用にも何か買いたくなって、オレンジの乗ったクッキーも買ってしまう。思ったより買いものに夢中になって、一時間程で店を出ることになった。
「よくあんな強烈な女性と仲よくできるね」
駅に戻りながら、店内で存在を消していた彼に言われて笑ってしまう。
「慣れれば嫌な女性でもないですよ。勇人さんとの面談でも、少しは態度を軟化させてくれるといいんですけど」
「結局大岡さんか。そんな、経費で落ちないものまで買っちゃって」
「お茶とお菓子が買えないような薄給ではないから。沢山入っているし、戸倉くんもこのクッキー食べてみますか?」
大岡用と自分用に二つ買ったから、自分用を彼にあげようと紙袋を探るが、クッキーに辿り着く前に止められる。
「俺はいりません。大岡さんのおこぼれなんて貰いたくないですから」
「そう」
富田用の方だからおこぼれではないが、いらないというのだから無理に勧める必要もないだろう。
「引くの早いって」
「欲しいんですか?」
「いいえ。でもやっぱり、俺は気の強い女性より富田さんみたいな男性の方が好きだなって」
「何それ」
富田にとっては長谷より煌の方が強烈な存在だ。だが彼の躱し方も少しずつ分かってきた気がする。
「思ったより時間が経っていましたね。もう勇人さんも大丈夫だと思いますし、事務所に戻りましょうか」
「大丈夫だと思うって、大岡さんは一体どうなっているんですか?」
「多分眠っています」
そんな富田の予想通り、事務所に帰り着けばデスクに彼の姿がなかった。それならここだと面談室に入れば、ソファーでブランケットを被った彼が眠っている。徹夜用の毛布もあるのに、そんな薄布一枚で眠れば風邪を引いてしまうだろうと、つい咎めたくなってしまう。
「勇人さん、こんなところで寝ないでください。タクシーで送りますから家に帰りましょう?」
身体を軽く揺すりながら言ってみるが、起きる気配はないので諦める。戦闘モード後の彼は眠りも深くて、ちょっとやそっとでは起きない。それなら彼が起きるまで付き合うまでだ。そう決めてしまって、ソファーの背凭れに無造作に置かれたジャケットとベストを回収してハンガーに掛けておく。奥の物入れから毛布を取ってきて身体を覆ってやる。デスクに戻って仕事の進捗を確認しなければならないと分かっていながら、離れ難くてずっとソファーの前で膝立ちのまま彼の姿を見ていた。多分、廃業騒動の件はなんとかしてしまったのだろう。能力がありすぎる人だから、その超人ぶりを見せつけられると落ち込んでしまう。力の差に落ち込むのではなく、彼が追い込まれたときに力になれない自分が悔しいのだ。彼に救ってもらった身で、いつか恩返しがしたいと思っているのに、未だに相応のものを返せていない自分が情けない。
「勇人さん」
起きる気配がないから、彼の胸に顔を寄せる。
富田も戸倉と同じように、元は彼の依頼人だった。大学卒業後に入った商社で、女性上司との関係に困っていた富田を、彼が綺麗に退職させてくれたのだ。
あまり嫌だ嫌いだを言わないようにしている富田でも、嫌いだと断言できる人間だった。平凡な富田の会社員生活をおかしくしてしまった女性。
よくある話だ。彼女は富田に恋愛関係を迫ってきた。初めは、追加作業だと言って二人きりの残業を命じて、その後何度も食事に連れ出された。ある晩飲みに付き合わされて、もう一軒行こうと言われた先がホテルだと分かったとき、急に頭の芯が冷えて、冷静に彼女を拒絶した。
「いい加減にしてくれませんか? どんな小細工をしようと、俺があなたを好きになることはない」
そう言って帰った富田に、翌日から手のひらを返したような嫌がらせが始まった。ミーティングの時間を一人だけ知らされなかったり、急ぎの郵便物を隠したり、態度が悪いと上に報告したり、どれも古典的なものだが、それなりにダメージは受けた。すぐに謝ってくるだろうと思っていた富田が意外に強情だったことも気に入らなかったらしい。最終的に彼女は、「彼に迫られて、ストーカーまがいのことをされて困っている」と人事に嘘の報告をした。富田が人事に相談に行った場合の予防線でもあったのだろう。面倒になって退職を考えるようになっていたが、流石にやられっぱなしは気分が悪い。彼女が会社中にばら撒いた根も葉もない噂くらいは消していきたい。そう思って大岡総合法律事務所のドアを叩いた。大岡の事務所を選んだのは着手金がどこよりも安かったから。最悪十万、二十万無駄になることも覚悟していたのに、大岡は良心的な料金で想像以上の仕事をしてくれた。彼女の悪事を調べ上げて会社のコンプライアンス機関に報告して、富田への中傷の慰謝料まで取った。正規の退職金と有休の完全取得まで護って、なんの心配もなく会社を去れるようにしてくれたのだ。
その上、次の仕事が決まっていないと言ったら、この事務所で働けばいいと言ってくれた。
「ちょうど仕事も増えてきて、事務員を一人増やそうと思っていたんだ。だから富田さんがいいなら明日からでも来てほしい」