駆け引きトライアングル

 とんでもない事件は起こらなかったが、災難は大岡に降りかかってしまった。
 合併手続きを進めていた食料品販売の二社が、突然廃業宣言をしてしまったのだ。既に仕事に掛かっていたというのに報酬はゼロになるし、それでも手を出していた以上、後始末はしなければならない。合併で会社を護りたいと大岡に依頼しておきながら、余所の事務所に廃業手続きを頼んでいたことが悪質だった。廃業の方向で考えていながら、合併という明るい話題を出して一時的にでも売り上げを回復させようとしたのだろう。よく聞く話だが、まさか自分の勤め先が被害に遭うとは思わない。
「提出書類に疑問のある依頼だったからね。慎重に進めてはいたんだ。まだ深入り前だし、実害は少ないから」
 大岡はそう普段通りの態度で仕事に向かっているが、このご時世、ネットの攻撃は弁護士事務所にまでやってくる。
『合併は仮想の話だと初めから知っていたのではないか?』
『元々グルで、廃業手続きで報酬を貰う気なのではないか?』
『社長の夜逃げを手伝うつもりなのではないか?』
 ニュースのトップに出てくるような大企業ではないのに、暇な人間はいるものだ。ホームページの相談申込機能を使って、謂れのない中傷が飛んでくる。氏名が『ああああ』だったり電話番号が『12345678』だったりするものは、富田の判断で大岡の目に入る前に削除してしまおう。そう思って、仕事の合間に中傷文に向かっていたら、午後になって、背後にやってきた彼に笑われてしまった。
「朝からやけに熱心にパソコンに向かっていると思えば、やっぱり想像通り」
「勇人さん」
 大岡が近づくのに気づかなかったとは迂闊だった。だがネットの相談依頼は普段から悪戯と大岡に回すものを振り分けているのだから、決して業務の逸脱ではない。
「事務所宛てや僕宛ての中傷まで事務員が背負う必要はないよ。数日でやむと思うから、今週一杯はホームページ対応は僕がやる」
「そんなことをすれば勇人さんが嫌なものを目にすることになります」
 強気で言えば、何故か彼が楽しげに笑い出してしまう。
「聡太がやれば聡太が嫌なものを目にすることになるでしょう? でも気持ちは嬉しい。ありがとう」
 そう言って髪を撫でられて、嬉しいのにもどかしい気持ちになった。事務所の要の弁護士より事務員の方がメンタルは楽に決まっている。その分嫌な仕事を引き受けて役に立ちたいと思うのに、そんなとき大抵彼が察して富田から辛いものを取り去ってしまう。
「戸倉くんにも嫌な思いをさせてしまったね。よかったら二人でお茶でもしてきたら?」
 彼がキーボードを叩きながら言った台詞のニュアンスにピンときた。十ヵ月振りだ。こちらの都合どうこうではない。今は一度外に出なければならない。
「お言葉に甘えます。戸倉くん、ちょっと散歩に出よう」
「え? 散歩?」
「いいから早く」
 訳が分からないという顔を向けられるが説明は後だ。鞄に財布とスマホを入れて戸倉を引き摺るようにして事務所を出てしまう。
「一体何? 俺と二人きりになるのを警戒していたんじゃないの?」
 そうか、自覚はあるのか。自覚していてあの態度かと逆に感心してしまいながら、とりあえず大通りに向かって歩いていく。平坦な歩道に出たところで漸く歩くスピードを緩めてやった。
「さて、これからどこに行きましょうか」
「行くあてもないのに出てきたの?」
「そうですね」
 出会ってから富田を驚かせるようなことばかり言ってきた彼だから、逆は新鮮で少し楽しい。だが外に出た理由を思い返せば、そんな気持ちもすぐに消える。
「勇人さんが一人になりたいと思ったんですよ」
 目的がないなら帰ろうと言い出されないように、ここは正直に告げることにした。
「一年に一、二度かな? 勇人さんが戦闘モードになるんですよ」
「戦闘モード?」
「そう。怖い顔でパソコンに向かって、物凄いスピードで仕事を片付けたり、本を片っ端から開いて、八方塞がりだった裁判の打開策を見つけたり。一度戦闘モードに入ると力が有り余るんでしょうね。そうすると事務員の仕事まで片付けてくれる。戸倉さんに聞いたことがないですか?」
 歩く人の邪魔にならないように歩道の端に寄って聞けば、煌が少し考えてから首を横に振った。
「伯母さんが職場の話をするときは、いつも楽しい話ばかりだったから」
「そうですか」
 甥相手とはいえ気安く話すことではない。富田のその判断は正しい。戦闘モードの大岡は魅力的だし、常人には考えられない量の情報を処理してしまうから、富田にとっては憧れの能力と言っていい。だが本人にとってはそうでもない。二時間で二、三日分の仕事を終えて、その後は電池が切れたように眠ってしまう。それもコンプレックスらしいのだ。富田も戸倉に教えられて散歩に出たものだが、彼が落ち着いた頃事務所に戻れば、デスクや面談室のソファーで眠る彼を目にした。肩を揺すって起こしてやれば、「ごめん。僕、怖い顔していたよね」と子どもみたいに言う。そのときに見せる顔が、どうか嫌いにならないでと言っているようで、ますます彼に惹かれてしまった。嫌う筈がない。何を見てもどう振る舞われても自分は彼の傍にいる。そう心に決めた日のことを思い出す。
「富田さんも何回かその戦闘モードを見たことがあるんだよね?」
「俺は今日で四度目ですかね」
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