駆け引きトライアングル

 パラリーガルという言葉は好きではない。法律事務員、いや、シンプルに事務員でいいではないかと日々思う。
 そんなどうでもいいことを考えていられるのも偏に職場が平和だからだ。ここ大岡総合法律事務所の弁護士、大岡勇人おおおかゆうとにはひっきりなしに仕事が入っているのに、その下で働く富田とみたと、もう一人の事務員戸倉とくらは頗る平和に過ごさせてもらっている。それだけボスの彼が優秀でバランスの取れた男だということだ。仕事だけでなく、事務所経営と従業員の管理までやってのけてしまう。彼が若すぎるという反対を押し切って独立したことは適切な判断だったのだろう。生意気にもそんなことを考える。
「頼まれていた仕事は終わりましたが、追加の作業はありますか?」
 金曜の終業間際に彼のデスクに向かって聞けば、「この僕が従業員の週末を邪魔するようなスケジュールを組むと思う?」と返された。彼らしい台詞に隣のデスクの戸倉と顔を見合わせて笑う。相変わらず、一度は言ってみたい台詞だ。口だけでなく、彼は余程のことがなければ富田と戸倉の週休二日を奪ったりしない。
「ということで、戸倉さんも聡太そうたも早く帰っていい週末を。戸倉さんはお身体お大事に」
 今年六一になる戸倉幸子とくらさちこは才女だが、リウマチの持病で最近肘の痛みが酷いと零している。彼女に無理のない範囲で働いてもらえるように、さりげなく配慮までする。そんな彼が目に眩しく映る。口にはしないが、富田にとって彼は憧れの存在なのだ。
「じゃあ、ありがたく帰らせてもらいます。戸倉さんも帰りましょう」
「ええ。そうしましょうか」
 二人で並んで帰り支度を始める。
「あ、でもどうしても暇だというなら、聡太」
 そこで、なんとなく予想していた言葉が飛んできた。
「いつものやつをお願いしたいんだけど」
 仕事が暇な時期に頼まれる特殊業務だ。
「あらあら、それは私にはできない仕事だから、お先に失礼するわね。富田くん、頑張って」
 全てを知っている戸倉が、ふふふと笑いながら帰っていく。駅まで彼女と料理や裁縫の話をしながら帰る予定が台無しだ。だが普段残業も休日出勤もなしの好待遇で働かせてもらっているのだ。戸倉に任せる訳にはいかないから、富田が引き受けるしかない。
「直前に言われても、いいお店なんてないかもしれませんよ」
「そう言いながら、いつもセンスのいいところを見つけてくれるでしょう? 今回も期待している」
 こんな特殊業務で期待されてもなと思うが、言い合ったところで時間が減っていくだけだ。
「今日はいくつの女性です?」
「三十歳。若い娘と遊ぶと疲れるから。キャリアウーマン系の美人だよ」
「そこまで聞いていません」
 呆れながらも、立ち上げ直したパソコンで手早く検索を掛けてやる。スマホの方が早いが自分のスマホを使う気などなかった。大岡の一夜の遊び相手のための調べものだ。仕事上は尊敬する上司である彼の、イケない趣味のための検索履歴など残して堪るか。そう心で思うくらいは許してほしい。
「こんな感じでどうですか?」
 ホテルはネット予約で済ませて、レストランは念のため電話で確認を取ってからURLを大岡のスマホに送ってやる。
「流石、仕事が早いね。じゃあ、待ち合わせ場所まで一緒にタクシーに乗っていく?」
 行く訳ないだろうと思うが、それをそのまま表に出すほど子どもではない。
「今日の待ち合わせはK駅だから、そこからなら聡太も一本で帰れるでしょう?」
「お気遣いなく」
 誰が好き好んでこれから女性と遊ぶ上司と同乗するのだ。それなら帰宅ラッシュの電車の窓から、欠けた月でも眺める方が余程マシだ。
「では俺はこれで。問題ないと思いますが、ネット予約に不備でもあれば連絡してください」
「うん。聡太も今度僕と一緒に旅行でも行こう。特殊業務のお礼に」
「機会があればぜひ」
 そんな機会はないだろうと思うから、綺麗に微笑んで応じる。
「どうぞいい夜を」
 ボス相手だというのに半分皮肉のように言って、漸くオフィスを後にした。電車二本の乗り継ぎだが、然程遠くはない自宅へと帰っていく。小さなスーパーに寄って帰り着くのは五階建て十部屋の単身者向けマンションで、富田の部屋は出入りのしやすい一階の道路側。建物の都合でそこだけ集合エントランスを通らず入れる造りになっていて、防犯面では劣るが、男性だから特に困ることもない。頑丈な鉄筋コンクリートの耐震構造。水回りも丈夫で清潔。まだ築十年だから富田の寿命以上に持ちそうだ。ここに寿命まで住むのも悪くない。そんなことを思いながら、特に不自由もなく暮らしている。
 その夜も居心地のいい部屋で、好物の蓮根を煮てみたりした。細々とした家事はどれも富田の趣味のようなものだから、帰宅後の料理は苦にならない。料理上手な戸倉と、よくレシピを教え合って楽しんでいるのだ。今夜も上出来。質素だが味も栄養バランスもいい夕食ができ上がる。
 従業員の週末を邪魔しないと言ったから、この先日曜まで完全プライベートだろう。そう思うが、なんとなく夕食を終えてもすぐに出られる格好で待った。予感通り電話が鳴ったのは十時前で、今日は早かったなと思いながら通話ボタンに触れる。
「出てこられる?」
「必要でしたら」
「じゃあ、お願い。もうチェックアウトしちゃったから、ホテルの前」
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