炎暑の国の至高の医師

 葡萄酒を断ったことに気を悪くすることもなく、ビャクゲツは温かな豆のスープを勧めてくれた。そういえば温かな料理を食べるなんていつぶりだろう。ふと、人と最後に食事をした時間を思い出す。まさか最後になるなんて思わずに、その夜に待っている幸せを信じて祖母と向き合った朝食。そんなカシンの愚かさが、彼女の命を奪ってしまった。
「どうかしたか?」
 カトラリーを手にしたままぼんやりしてしまって、ビャクゲツの声で我に返った。
「申し訳ありません!」
 慌てて頭を下げる。王の前だというのに何をしているのだろう。
「いや、いいのだ」
 ここでもビャクゲツは聡かった。
「目蓋が腫れていて気になっていた。長い間仕事を休んでいたと聞いている。辛いことがあったのではないか? 息子のためとはいえ、無理に連れてきてしまったのではないかと心配していたのだ」
「いえ。ここに来たのは自分の意思です。辛いことがあったのは事実ですが、そろそろ立ち上がらなければいけないと思っていたのです」
 少しだけ強がってそう言った。
「それなら丁度いい。辛いことを忘れるには環境を変えるのがいい。気持ちが落ち着くまでずっとここにいればいい。大変な中、ギョクトを診に来てくれて感謝する」
 どこまでも寛大な王に、また不思議な気持ちになる。穏やかで賢くて、人の気持ちの機微にも上手く向き合える。彼が街の人間に嫌われる政治をしているとは思えない。
「もしよければ、このあとギョクトと一緒にパティオを散歩しませんか? 警護の者にいてもらいますから」
 そんな風に言う王妃がとても美しかった。ずっとどこか怯えた様子でいたが、伊達に王妃をしている訳ではない。本来彼女も賢く美しい女性なのだ。
「ぜひご一緒させてください」
「やった」
 日の光の差し込むダイニングでギョクトが喜びの声を上げる。鮮やかな色の柘榴や無花果を勧められて、昨日あったことが嘘のように穏やかな時間を過ごすことになった。
 食後に約束通り、昨日はじっくり見ることのできなかったパティオを回れば、その素晴らしさに息を呑んだ。二対並んだ犬の像は、どれも城の守り神に相応しい姿形をしているのに、みな表情が違っていてまるで生きているようだ。有能な彫刻の能力者が作り上げたのだろう。その先にも柱に彫刻が施された門があって、門を抜ければがらりと雰囲気が変わって、青い空の下に多く緑の広がる空間が現れる。ヤシやアカシアの他に、暑さに強い低木が整然と並び、カシンが見たこともないような鮮やかな色の花が咲いている。この砂漠の地でこれだけの空間を造り出せるとは、どれほど高い能力を持つ者なのだろうと感心してしまう。
「この地にこんな花が咲くなんて」
「先々代の王の頃に造られたものです。子どもや孫たちに手間を掛けないようにと、あとからほとんど手入れがいらないように能力が籠められていて、私たちは恩恵に与るだけなのですが」
 なんでもない言葉に、王妃の悩みの種を見た気がした。ここ最近は自分のことを考えるのに精一杯だったが、記憶を辿れば、カシンの周りにも王族の贅沢のせいで生活が苦しいと言う者がいたような気がする。だがカシンにそんな実感はない。そして城で過ごしてみて、国王夫婦が必要以上の贅沢などしていないということも知った。王族にしては質素なくらいだ。一体、この今の街の人々との距離はなんなのだろう。
「カシン様、こっちこっち」
 ギョクトに手招きされて、低木の傍の石段に腰を下ろす。
「見てください。僕はゆり玉ができるのです」
 奇遇なことに、ギョクトは丸い小石を取り出して、ゆり玉の腕を披露してくれた。
「凄い」
 三つの石を順に投げていく様子に、思わず声が上がる。カシンは二つの石を投げることしかできないから、彼の技に素直に感心する。
「やった。カシン様に褒められた」
 にっこりと笑う様子が可愛らしい。
「危ないからあまり高く投げてはいけないと言っているのですけれど、今はこれくらいしかギョクトが楽しめるものがないので」
 王妃が少し哀しげに、それでも楽しく遊ぶ我が子に目を細めている。
「カシン様もやってみてください」
 言われて困った。不器用ではないのに、ゆり玉だけはいつまで経っても上手くならなかった。どうしても、タイミングよく三つ投げることができない。
「私はゆり玉が苦手なのです。こうして二つ投げるのが精一杯で」
 石を手渡されて素直に白状した。不器用に二つ投げてみせれば、それでもギョクトが手を叩いてくれる。祖母を思い出して苦しいゆり玉だが、ギョクトといればその辛さも和らいでいく。
「ギョクト様の技をもう一度見せてください」
 石を返せば、彼がもう一度投げてみせてくれた。
「凄い。どうすれば三つ一度に操れるのでしょう」
「沢山練習をするのです」
 大真面目にそんなことを言うギョクトが可愛らしい。
「ザンヤ様はもっと凄いのです。四つの石を自在に操るのですよ」
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