炎暑の国の至高の医師

 強い力で腕を引かれてドキドキした。ゼイゲンに感じたものと同じだと気づいて、まずいなと思う。もう辛い思いをするのには懲りている。
「どうした?」
 壁に背を寄せて心を落ち着かせようとして、隣の彼に聞かれてしまった。フェイスベールのない顔を向けられて、思わず目を逸らしてしまう。ザンヤはカシンに綺麗だと言ってくれたが、彼の綺麗さはレベルが違う。心が惹かれそうなら逸らさなければならないと自制しているカシンでさえ、見つめたいと思ってしまうほど綺麗なのだ。
「修業をして、空き時間は俺やギョクトが連れ出したから、もしかしてしんどかったか?」
「……っ」
 落ち着かないまま大理石の床を見ていたところで額に手が伸びてきて、反射的に払ってしまった。
「申し訳ありません! ザンヤ様になんてことを」
 青くなって詫びれば、唇の前に人差し指を立てた彼が苦笑した。そうだ。彼は目立たないようにしていなければならないのに、大きな声を出してしまった。
「ちょっと、来い」
 手を払われたことを気にする様子もなく、彼はカシンの腕を引いてテラスに連れていく。その強引な行動に安堵したし、羨ましいとも思った。カシンなら、一度拒絶された相手にまた近づく勇気はない。
「どうだ。いい眺めだろ」
 失敗続きのカシンの態度に何か言うこともなく、彼が月の下の砂の地を指した。
「パティオ側もいいけど、夜はこっちの方がいい」
 彼の言葉通り、月明かりの下に広がる果てしない砂が幻想的に目に映る。幼い頃、シュクヤがよく話してくれた華やかなキャラバンの様子が目に浮かぶ。一度だけ本物のキャラバンの一行を目にしたことがある。遠くから眺めただけだったが、子ども心をワクワクさせるには充分だった。ラクダに積まれた荷物の中身は宝石だろうか。それとも異国の地の珍しい食べものだろうか。そう言ってはしゃぐカシンの手を握って、シュクヤは言った。贅沢をする必要はないけれど、キャラバンが街で露店を出したとき、大切な人が望むものを一つくらい買ってやれるような男になれたら素敵だね、と。難しいことではないのに、カシンは未だに叶えられていない。それどころか、美しい砂の地にゼイゲンとの過去が思い出されて、懲りずに胸を傷める情けなさだ。
「カシン」
 繊細な装飾が施された手摺りに肘をついて、ザンヤが前を見たまま言った。
「まだ、前の男が好きか?」
 唐突な問いに顔を上げれば、同じようにこちらを向いた彼としっかり目が合ってしまう。
「もう好きではないとお伝えしました」
「ああ。でも本心はどうだ?」
 問われて困ってしまった。どうにもならない恋だから諦める他はない。彼にはもう妻がいる。そう思ってきたが、その事実がなくても、もうゼイゲンにそれほど執着はない気がした。恨む気持ちも、やり直したいという気持ちもない。ただ、最後に言われた言葉が今も痛い。楽しかった思い出に苦しんでしまう。そして、シュクヤの死がやはり胸に重いものを残している。
「複雑です」
「その返しは狡いな」
 彼が笑う。眉が上がる華やかな顔になって、見惚れてしまう。
「カシンが掛けてくれた術のお陰で身体の調子がいいんだ。そうぼんやりしていると危険だぞ」
「ザンヤ様?」
 首を傾げたところに彼の顔が近づく。あ、と声を上げそうになって、声を彼の唇が封じてしまった。触れただけで離れていった、彼の酷く満足げな顔を、瞬きを繰り返しながら眺めているしかない。
「いつもしっかりしている分、やっぱり無防備な姿はいいな。もう一度って気分になる」
 その台詞に我に返って、彼から距離を取る。
「国王の兄でなければ殴っていました」
「物騒なことを言うなよ」
 手摺りの上でカシンの手を握るから、逃げられなくなる。いや、本音はカシンはザンヤから逃げようなんて思っていない。
「カシン」
 ふいにまっすぐな目で見つめられた。強い光を宿す目に、何故か不安の欠片を感じてしまう。
「もし、残りの時間で俺が……」
 ザンヤが何か言いかけたときだった。
 ドンと大きな音がしたかと思うと、辺りが真っ赤に染まる。
「火……?」
「中に入っていろ。ハクメイが護ってくれる」
 状況を把握できずにいたカシンを背中に庇って、ザンヤが言った。
「ザンヤ様も」
 嫌な予感がして彼の腕を引こうとしたが、その前に彼が飛び出していってしまう。
「ザンヤ様!」
 見れば砂漠の砂の上を、炎が城に向かっていた。這うようにやってくる炎が、まるで生きているように襲ってくる。
「みな城の奥へ!」
 逸早く気づいたハクメイが広間の人間をパティオ側に誘導して、自分はテラスから外に出ていく。ハクメイが傍に向かう前に、ザンヤが力を放った。目で見て分かるほどの力が、一瞬で巨大な金属の板に変わる。金属を操る能力だ。ザンヤの力で、城の数メートル先で炎の進行が止まる。そこでカシンもハッとして、もしもの場合の時間稼ぎのために広間の戸を閉めてしまう。自分一人テラスに残った。こんなとき、何もできない自分がもどかしい。
 威力の弱まらない炎が鉄の壁を越えようとして、ザンヤが更に大きな力を放つ。ダメだ。今の身体でそんなに能力を使ってはいけない。思わず飛び出したところで、ハクメイが何か呪文を唱えているのに気がつく。
「……!」
 次の瞬間、大量の水が空から降りてきた。炎の威力が弱まり、そこにザンヤの鉄の壁が倒れて、炎を跡形もなく消してしまう。
「ザンヤ様!」
 彼の身体がふらつくのが分かって、慌てて駆け寄った。片膝をついて前に崩れる彼の身体を、抱きかかえるように支える。
「炎はもうやってこないでしょう。どうかザンヤ様を」
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