炎暑の国の至高の医師

 この国特有の暑さは続いていた。ザンヤが何も言わないから、足元が熱されていく音が聞こえてきそうに熱い。それでもカシンの心は静けさを取り戻していた。言葉にすることで、感情とこんがらがっていた事実が少し整理された。そして今自分は泣いていない。些細な進歩に救われる。
「きっと、ゼイゲンを尊敬していると言いながら、私は至高の医師でありながら二位の医師を尊敬できる自分に酔っていたのです。気づいた彼が私を恨むのも無理はない」
「考えすぎだ」
 投げ捨てるような言葉に目を遣れば、腕組みをした彼が酷く不服そうな顔をしていた。
「その男はお前の能力に嫉妬していたんだ。お前を振ってその気持ちを晴らそうとした。お前は何も悪くない。そうだろ?」
「……だと、いいのですが」
 ゼイゲンが全部悪いと思えたらどんなに楽だろう。視線から逃れるように俯くカシンの前に回って、彼が不意討ちで手を握る。
「別に至高の医師だから治療を続けろとは言わない。けど、お前はこうして腕に傷をつけるほど真面目で、医師の能力に誇りを持っている」
 カシンの左手を少し高く持ち上げて、傷を目にした彼が、また痛ましそうに目を細める。
「これまでの人生で積み上げてきたものを、馬鹿な男のせいでなかったことにするのはもったいないだろ?」
 向けられた声が驚くほど優しくて、思わず顔を上げてしまう。顔を上げたカシンに満足したように、彼の目元が少し和らぐ。途端に身体が突然この国の暑さを思い出したように熱くなる。
「国王の兄に気安く触れるなんて、とんだ失礼を」
 慌てて腕を引いて頭を下げれば、顔を上げてすぐ彼の不満顔が目に映った。あれ? と思うより早く、それが不敵顔に変わってしまう。
「立ち直る方法を教えてやろうか」
 その不敵顔が自信たっぷりに言った。
「そんなものがあるのですか?」
 あるならぜひ授かりたい。カシンの反応に、彼が楽しげな様子で告げる。
「別の男を好きになることだ。それもとびきり上等な」
「……もう恋愛には懲りました」
 ザンヤなら本当に立ち直れる方法を教えてくれるかもしれないと、期待してしまった自分に呆れた。
「そう言うなって。前の男はお前に対して劣等感があったから酷いことをした。それならお前よりずっといい男に惚れればいい」
「誰のことを言っているのですか?」
「鈍い奴だな。俺に決まっているだろ?」
 別に彼の言いたいことが分からなかった訳ではない。皮肉のつもりで言ったのに、直球で返されて困ってしまう。だがずっと困っているようなカシンではない。
「では私の治療を受けて回復してもらわないと」
 頭のいい彼が今度はどんな言葉を返してくるだろうと期待していたのに、彼は目を細めてカシンを見ているだけだ。
「この期に及んで治療を受けたくなくなったなどと言いませんよね」
「ああ。そんな傷を見せられたらな」
 今度こそヤシの木の傍を離れて歩き出す彼の背を追った。ひらひらと揺れるショールが顔を適度に隠してくれるのがありがたい。カシンの頬は染まったままだ。ザンヤは自分を励まそうとしてくれた。その気持ちが胸の傷を癒してくれる。好きになればいいという言葉に、僅かにでも真実が混じっていたらどうだろう。恐れ多いと知りながら、ついそれを考えてしまう。
「元気になったら、国王の兄としてまた民の前に出てきてください。昔みたいに、華やかなパレードでザンヤ様の姿が見たい」
 それには答えてくれなかった。
「国を護る者が二人いると分かれば、安心する者も多いでしょう? ビャクゲツ様もギョクト様もどれだけ心強いか」
「……そうだな」
 言葉を重ねれば、振り向かないまま彼が小さく答える。
 何かを胸に秘めていることは分かった。医師が立ち入るべきことでないと思いながらも、彼の全てを知りたいと思う。できるなら、病気を完治させた彼の傍にいて、彼の活躍を見守りたい。その気持ちは彼の重荷になってしまいそうで、厳重に封じ込める。
「街の人間がいる。話を聞きに行くから、俺の嫁のフリをしていてくれ」
「何故嫁なのです」
「嫁のいる男ってのは警戒されにくいんだよ。分かったら俺の可愛い嫁になれ」
 なんだ、その言い方はと思った。だが不満げな顔はわざとで、実はそれほど嫌な気分ではない。嫁なんて言葉は自分の中のタブーかと思っていたが、ザンヤにさらりと言われればどうということはなかった。
 ゼイゲンの隣にいた花嫁が、幸せでいてくれるといい。ふとそんなことを思う。まだ彼のことを思い返すのは辛いが、せめて何も知らない花嫁の幸せを願えるくらい器の大きな人間でいられたらいい。純真を求めるほど子どもではなくても、心は綺麗な方がいい。
「カシン」
 大人しく妻のフリをしてやろうと思ったカシンに、足を止めたザンヤが声を向ける。
「あまり難しく考えるな。お前はいい奴だ」
 ショールの隙間から覗き見た彼は不敵顔で、けれどカシンへの気遣いが溢れ出るようだった。もったいないと思う。本来なら話すこともできない立場の相手に貰った温かさを、自分も返したいと思う。
「ついでに、言葉も実は裏がなくて、聞いたままの意味だったりする」
「それは光栄ですね」
 これ以上話せば欲が出てしまいそうで、ショールで顔を隠してしまった。
 お前はいい奴。いい男に惚れればいい。俺の可愛い嫁になれ。裏がないのはどれだろう。そう思った。
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