炎暑の国の至高の医師
意味が分からないというように、ザンヤが眉を寄せる。
「ゼイゲンは私が憎くて、どうすれば私が一番苦しむかを考えていたのです」
慈善診療をするような教会ではなかった。富裕層からの寄付金で必要以上に装飾が施された建物の中には、ゼイゲンと彼の友人と、そして彼の妻になる女性がいた。
「来てくれてありがとう。祝福してくれて嬉しい」
顔色をなくすカシンの前で、満面の笑みでゼイゲンは言った。
「これが俺の妻だ。休日に街に出掛けたときに知り合って、好きになってからは毎週会いに行っていたんだ」
まだ式が始まる前の彼は、聞いてもいないのにそんなことを言った。カシンにそれを言うために、こんな手の込んだことを仕組んだのだから当然だ。漸く彼の意図が分かってくる。彼は気に入らなかったのだ。カシンが至高の医師であることも、修業を苦に思わないことも、休日に慈善診療に出ることも。
「ゼイゲン様からお話は聞いています。夫の友人に至高の医師がいるなんて、なんだか私まで誇らしい気持ちになります」
カシンとゼイゲンの関係を知らないらしい彼女は、屈託なく笑って言った。見ただけで優しい女性だと分かる微笑み。自身の能力はたいしたことがなくて、枯れた植物を生き返らせて、花を咲かせることだという。ゼイゲンの本音は、そんな恋人といたかったのだ。
「せめて今日くらい慈善診療に出るのをやめて、一日中俺のことを思っていてくれたら、少しは罪悪感も湧いたのかもしれない」
妻となる女性を先に建物に戻して、彼が言った。
「でもお前はこんな日までぎりぎりまで診療に出た。お前に恋愛する資格なんてない。せいぜいご立派な至高の医師として生きていけばいい」
それが、彼がカシンに向けた最後の言葉だった。心が追いつかなくて、カシンは小綺麗な教会を見たまま立ち尽くす。最悪な形で失恋をした。そしてもっと悪いことに、カシンはその場にシュクヤを連れてきていた。
「綺麗な教会があるもんだね。いいものが見られた。こんな場所まで散歩に連れてきてくれてありがとよ」
シュクヤは呆けたフリでそう言った。歳をとって身体が弱くなった彼女に、そんな気遣いをさせてしまう自分が情けなかった。なんとなく事情を察した飛行能力者に送られて帰る間、ずっと苦しさに消えてしまいたかった。
好きという気持ちが、一瞬で消える訳ではない。あんな酷いことをされたのに、カシンはまだゼイゲンが好きだった。一位の医師でなければよかったのか。至高の医師に上り詰めたりせず、適度に能力を使っていればよかったのか。休日は慈善診療に出たりせずに、ずっと彼の傍にいればよかったのか。彼の妻のように、些細な能力しか持たなければよかったのか。次から次へと、自身を責める思いが湧く。
「あの……、予定よりずっと早く帰してもらえることになったので、帰りの分の料金はいりません」
夜まで傍いるように頼んでいた飛行能力者が、気を遣って言ってくれた言葉に、また惨めになった。嫌な気持ちにさせてしまったからと、少し多めに払って彼を返したあと、シュクヤの傍で放心してしまう。なんでもないフリをしていなければいけないと分かっているのに、身体が動かない。
「二人が幸せな夫婦になるといいね。あのお嫁さんの素直な気持ちが、彼の心も変えてくれるといい」
シュクヤの言葉は手厳しかったが、カシンも心の奥で同じことを思っていた。彼女の傍にいれば、ゼイゲンの心も癒えて、こんな風に酷いことをしなくなるだろう。元々嫌な男ではなかった。彼を嫌な男にしてしまったのは自分だ。恨むよりも、容赦のない現実に苦しむだけ苦しんでしまう。
「カシンのやってきたことは間違っていない。カシンはまたカシンの道を進めばいい」
その言葉を素直に受け取る心の余裕が、そのときのカシンにはなかった。返事をせずに、寝室に向かうシュクヤの背中を見つめていた。今思えば、彼女に甘えていたのだ。本来なら、弱った身体で孫の辛い現実を見てしまった彼女を、カシンの方が慰めるべきだった。
翌日、シュクヤは亡くなっていた。ベッドで胸の上で手を組んで、眠るように冷たくなっていた彼女を発見したとき、カシンは半狂乱で叫んだ。カシンは医師の能力者で、シュクヤは肉親だから、別の部屋にいても異変には気づく筈だった。それが、治療院の部屋を出てシュクヤと暮らすようになった理由でもあった。それなのにカシンは気づけなかった。ゼイゲンのことを考えるのに精一杯で、誰よりも大切な肉親を一人で死なせてしまった。
「お祖母様、目を開けてください。何故何も言わずに逝ってしまうのです」
もう亡くなっていると分かっていて、カシンは能力を使った。彼女が抱えていた持病を治す能力を使い、体力を回復させるオーラで包み、泣きながら血を巡らせる術を掛ける。甦る筈はなく、術のいくつかが跳ね返ってカシンの身体に傷を作った。ベッドが揺れて、枕元からひらりと一枚の紙が落ちる。
『どうやら寿命のようです。長い間傍にいてくれてありがとう。カシンの幸せを願っています』
彼女の綺麗な字が少しだけ震えていた。苦しかったのだろうか。せめて楽になる術を掛けてあげたかったと、涙が落ちて止まらなくなる。
彼女は自分の寿命を分かっていた。カシンの幸せな姿を見てから旅立とうと思っていた。それが、最後にこれ以上にない惨めで情けないものを見せてしまった。シュクヤにゼイゲンのことを話さなければ、傷つくのはカシンだけで済んだのにと、悔やんで涙を流し続ける。両親に連絡をしなければならない。シュクヤは多くの人を救ってきた至高の医師だから、きちんとした葬式の手配もしなければならない。そう分かっているのに動けなかった。シュクヤが横たわったままのベッドをぼんやりと眺めながら、カシンはずっとシュクヤの傍に座っていた。
「それから、私は治療院に行くことも慈善診療に出ることも辞めました」
「ゼイゲンは私が憎くて、どうすれば私が一番苦しむかを考えていたのです」
慈善診療をするような教会ではなかった。富裕層からの寄付金で必要以上に装飾が施された建物の中には、ゼイゲンと彼の友人と、そして彼の妻になる女性がいた。
「来てくれてありがとう。祝福してくれて嬉しい」
顔色をなくすカシンの前で、満面の笑みでゼイゲンは言った。
「これが俺の妻だ。休日に街に出掛けたときに知り合って、好きになってからは毎週会いに行っていたんだ」
まだ式が始まる前の彼は、聞いてもいないのにそんなことを言った。カシンにそれを言うために、こんな手の込んだことを仕組んだのだから当然だ。漸く彼の意図が分かってくる。彼は気に入らなかったのだ。カシンが至高の医師であることも、修業を苦に思わないことも、休日に慈善診療に出ることも。
「ゼイゲン様からお話は聞いています。夫の友人に至高の医師がいるなんて、なんだか私まで誇らしい気持ちになります」
カシンとゼイゲンの関係を知らないらしい彼女は、屈託なく笑って言った。見ただけで優しい女性だと分かる微笑み。自身の能力はたいしたことがなくて、枯れた植物を生き返らせて、花を咲かせることだという。ゼイゲンの本音は、そんな恋人といたかったのだ。
「せめて今日くらい慈善診療に出るのをやめて、一日中俺のことを思っていてくれたら、少しは罪悪感も湧いたのかもしれない」
妻となる女性を先に建物に戻して、彼が言った。
「でもお前はこんな日までぎりぎりまで診療に出た。お前に恋愛する資格なんてない。せいぜいご立派な至高の医師として生きていけばいい」
それが、彼がカシンに向けた最後の言葉だった。心が追いつかなくて、カシンは小綺麗な教会を見たまま立ち尽くす。最悪な形で失恋をした。そしてもっと悪いことに、カシンはその場にシュクヤを連れてきていた。
「綺麗な教会があるもんだね。いいものが見られた。こんな場所まで散歩に連れてきてくれてありがとよ」
シュクヤは呆けたフリでそう言った。歳をとって身体が弱くなった彼女に、そんな気遣いをさせてしまう自分が情けなかった。なんとなく事情を察した飛行能力者に送られて帰る間、ずっと苦しさに消えてしまいたかった。
好きという気持ちが、一瞬で消える訳ではない。あんな酷いことをされたのに、カシンはまだゼイゲンが好きだった。一位の医師でなければよかったのか。至高の医師に上り詰めたりせず、適度に能力を使っていればよかったのか。休日は慈善診療に出たりせずに、ずっと彼の傍にいればよかったのか。彼の妻のように、些細な能力しか持たなければよかったのか。次から次へと、自身を責める思いが湧く。
「あの……、予定よりずっと早く帰してもらえることになったので、帰りの分の料金はいりません」
夜まで傍いるように頼んでいた飛行能力者が、気を遣って言ってくれた言葉に、また惨めになった。嫌な気持ちにさせてしまったからと、少し多めに払って彼を返したあと、シュクヤの傍で放心してしまう。なんでもないフリをしていなければいけないと分かっているのに、身体が動かない。
「二人が幸せな夫婦になるといいね。あのお嫁さんの素直な気持ちが、彼の心も変えてくれるといい」
シュクヤの言葉は手厳しかったが、カシンも心の奥で同じことを思っていた。彼女の傍にいれば、ゼイゲンの心も癒えて、こんな風に酷いことをしなくなるだろう。元々嫌な男ではなかった。彼を嫌な男にしてしまったのは自分だ。恨むよりも、容赦のない現実に苦しむだけ苦しんでしまう。
「カシンのやってきたことは間違っていない。カシンはまたカシンの道を進めばいい」
その言葉を素直に受け取る心の余裕が、そのときのカシンにはなかった。返事をせずに、寝室に向かうシュクヤの背中を見つめていた。今思えば、彼女に甘えていたのだ。本来なら、弱った身体で孫の辛い現実を見てしまった彼女を、カシンの方が慰めるべきだった。
翌日、シュクヤは亡くなっていた。ベッドで胸の上で手を組んで、眠るように冷たくなっていた彼女を発見したとき、カシンは半狂乱で叫んだ。カシンは医師の能力者で、シュクヤは肉親だから、別の部屋にいても異変には気づく筈だった。それが、治療院の部屋を出てシュクヤと暮らすようになった理由でもあった。それなのにカシンは気づけなかった。ゼイゲンのことを考えるのに精一杯で、誰よりも大切な肉親を一人で死なせてしまった。
「お祖母様、目を開けてください。何故何も言わずに逝ってしまうのです」
もう亡くなっていると分かっていて、カシンは能力を使った。彼女が抱えていた持病を治す能力を使い、体力を回復させるオーラで包み、泣きながら血を巡らせる術を掛ける。甦る筈はなく、術のいくつかが跳ね返ってカシンの身体に傷を作った。ベッドが揺れて、枕元からひらりと一枚の紙が落ちる。
『どうやら寿命のようです。長い間傍にいてくれてありがとう。カシンの幸せを願っています』
彼女の綺麗な字が少しだけ震えていた。苦しかったのだろうか。せめて楽になる術を掛けてあげたかったと、涙が落ちて止まらなくなる。
彼女は自分の寿命を分かっていた。カシンの幸せな姿を見てから旅立とうと思っていた。それが、最後にこれ以上にない惨めで情けないものを見せてしまった。シュクヤにゼイゲンのことを話さなければ、傷つくのはカシンだけで済んだのにと、悔やんで涙を流し続ける。両親に連絡をしなければならない。シュクヤは多くの人を救ってきた至高の医師だから、きちんとした葬式の手配もしなければならない。そう分かっているのに動けなかった。シュクヤが横たわったままのベッドをぼんやりと眺めながら、カシンはずっとシュクヤの傍に座っていた。
「それから、私は治療院に行くことも慈善診療に出ることも辞めました」