炎暑の国の至高の医師

 静かになった彼の胸に触れて目を閉じれば、脳に詳しい病状が伝わった。かなりよくない。このまま放置すれば、いつ意識を失って、そのまま命を落としてしまうか分からない。
「十日にしましょう。十日後にあなたを完治させてみせる」
 不思議と不可能ではないと思えた。修業の時間をより濃いものにすればいい。幸い、ここは一度に多くの患者が訪れる野外病院ではない。恵まれた環境で、ザンヤの病気のことだけを考えていればいい。
「やめておけ」
 だが、朦朧とした意識でいると思っていた彼が、しっかりとした声で返してくる。
「何故です?」
「言っただろ。俺は至高の医師の治療を受けたことがある。それでも再発したんだから、死ぬ運命なんだ」
「ザンヤ様は誤解しています。至高の医師の治療でも、二度目は問題ないのです。今度こそ再発しないように治せばいい」
「俺は……」
 そこでふと彼の表情が変わった気がした。厳しかった表情が、何かに気づいたように穏やかになる。
「そこまで言うなら治してもらおう」
「よかった。ではそれまでは身体が楽になる術を掛けておきます。それなら痛みで眠れないということもない」
 何故突然気持ちが変わったのか分からないが、今は治療を受けると言ってくれただけで充分だった。彼を空気の膜のようなオーラで包んでやる。オーラの中にいれば痛みがなくなり、呼吸が乱れることもなくなる。
「凄いな。ここ数ヵ月で一番体調がいい」
 彼が目を閉じたまま言ってくれた言葉に胸が痛む。言い方を変えれば、ずっと体調が悪いまま動き回っていたということだ。街に出ることも多いとハクメイが言っていた。街までは結構な距離がある。体力を削って、彼は何をしようとしているのだろう。
「私が至高の医師だと分かったとき、すぐに頼ればよかったのです。身体を楽にする処置くらいはできた。以前ザンヤ様を治したのも私です。初めて会った晩にそれが分かっていたのでしょう?」
 至高の医師か? と彼は聞いた。そのときに、カシンも思い出してやれればよかった。そうすれば、もう少し信頼してもらえたかもしれない。
「すぐに思い出せなくてすみません」
「あんなに大勢患者がいたんだ。一人一人を覚えている筈がない。俺も灯りが一つ点いただけでは分からなかった」
 こちらが詫びれば、彼からも穏やかな言葉が返ってきた。オーラのなかの心地よさに浸っているのか、彼が珍しく大人しいから、治療のフリをして彼の手を握る。なんだか一人で多く背負いすぎているように見える彼の、力になりたいと思う。払われたら大人しく離れようと思っていたが、彼はカシンが触れることに何も言わない。
「あの日俺は変装していたしな」
 やはり同じ記憶だった。カシンが教会の慈善診療に出ていた日のことだ。フェイスベールで顔を隠して、側近の男に抱えられて彼はやってきた。ほとんど意識をなくすほど胸の痛みに苦しんでいた。
「街の儀式に参加しようと向かっていて、突然悪くなったのでしたね」
「ああ。それでたまたま近くの教会に至高の医師がいると聞いて、側近に連れられて行ったんだ。今思えば、俺なんかが行っていい場所じゃなかった」
「そんなことはありません」
 ザンヤと普通に言葉を交わせる貴重な時間を感じながら、教会で患者を診ていた過去を思い出す。充実した時間だったが、今はその思い出にも苦いものが混じる。
 慈善診療は修業の場に相応しかった。カシンはただ、修業を積んでいい医師になりたかった。だが、それが許せないと言った人間がいる。
「どうかしたか?」
 気がつけば目を開けた彼に見つめられていて、慌てて握っていた手を離す。どれほどの時間過去に浸っていたのだろう。こんなことではいけない。そう思うカシンの手に、今度は彼の方が触れてくる。
「なぁ」
 麻酔に近いオーラで覆っているのに、カシンの手を引いた彼の手は驚くほど力強かった。
「お前はどうして医師を休んで酷い生活をしていたんだ?」
「……酷い生活だったと、どうして知っているのです?」
 さて、なんと答えようかと悩んで、質問を返してしまう。
「ハクメイは俺に甘いから、俺が知りたいことには答えてくれる。食事の時間に思い出して動けなくなるほど辛いことがあったんだろ?」
 王と王妃にも、ギョクトにも見られているから、そこは言い逃れできない。
「さっき、灯り一つじゃカシンだと分からなかったと言っただろ? それだってお前が悪い。あの頃は色白なりに日に焼けていたし、今よりずっと健康的に見えた。でも別人みたいにお前は痩せた」
 自分になど興味がないと思っていた彼に、そんな風に見られていたなんて意外だった。確かにカシンは痩せた。この半年、まともな食事をしていなかったのだから当然だ。
「たいした理由ではありません。ただ私が弱かっただけ」
 別にどうしても話したくないという訳ではなかった。だがやはり、思い出せば胸が痛む。
「それじゃ、何も答えていないのと同じだ。俺が当ててやろうか。男にフラれたんだろ」
 痩せるほど弱っている相手に、容赦のない聞き方だなと思った。だがその軽い言い方に救われる気もする。
「そうですね。初恋の相手にフラれて、落ち込んでしまったのです」
 結局素直に肯定していた。カシンの身には、そんな言葉で片付けられないほどのことが起こった。だが今はこれくらいで許してほしい。
「正直に答えたのですから、私もザンヤ様に聞きたいことがあります」
 攻守交替。握られていた手をまた握り返してやる。
「粗野なフリをしているのはビャクゲツ様のためですね? 人がいる前でビャクゲツ様に諭されるようなことをしたのも、彼の王としての評価を上げるため」
「買い被りすぎだ」
 即座の否定が肯定していた。少なくてもコクネツを殺す気はなかった。側近もメイドもいる前で、彼はビャクゲツの人柄を示したかった。
「そうですか。ではもう一つ」
「お前は一つしか答えていないだろ?」
「私を襲いかけた詫びとして答えてください」
 そう言ってやればクッと笑う。
「王位をビャクゲツ様に譲ったのは、その身体のせいですか?」
「違う」
 今度もすぐ否定された。
「俺よりあいつの方が相応しいと思ったんだ。俺は王になるような人間じゃない」
 目を閉じたまま答えて、彼は顔を背けてしまう。
「いい心がけですね」
 それ以上聞くのはやめて、彼の手を握る指に力を籠めてやる。
「……だろ?」
 彼の意識が落ちていくのが分かって、すっかり眠ってしまうまでカシンは傍にいた。過去のパレードの様子が一つ思い出される。子ども時代に、前王の隣で堂々と後継者の顔を見せていたザンヤの姿が思い出される。自分が大人になったら、彼が治める国で生きていくのだと疑うことなく思っていたのだ。それが彼は王位を継がず、国も妙なことになっている。
 治してやりたいと改めて思った。完治させたあと、もう一度本音を聞いてみたい。恐ろしいことに関わってしまったかもしれない。それでも不思議ともう怖さはない。
 眠る彼の胸に顔を寄せて、カシンも少しだけ目を閉じた。
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