炎暑の国の至高の医師

 灼熱の時が過ぎて、短い夜に向かって街が俄に活気づく頃。石造りの高い建物の上に、まだ紺色に染まり切らない群青の空が広がる。その青の中に街の灯りが輝き出す。灯りがなくても動ける時間に、夜が待ちきれないようにぽつぽつと灯りが増えていく。その贅沢で高揚感に包まれる時間が好きだった。以前は確かに。今は街に出るどころか、砂漠の家の砂っぽい地下室に籠もって、ただ日々を生きているのだから。ぼんやりとそんなことを思う。
 まだ元気に暮らしていた頃、街の景気がよくないとか現王の治世が悪いとか、そんな噂を聞いた気がする。カシンが目と耳を塞いで生きている間に、少しはいい方向に変わっただろうか。そもそもどれほどの時間が過ぎたのか。最低限の食料を得るためにしか外に出ていないから分からない。
 もう何日人と話していないだろう。ここ二、三日は食事を摂る気にもなれず、ずっとベッドに寄りかかって、ゆり玉石を弄っていた。ゆり玉は小さな石を投げる遊びで、祖母のシュクヤが器用に石を操る様子を見るのが好きだった。シュクヤが歌っていたゆり玉歌を歌ってみるが、カシンは上手く投げることができない。いつか彼女のように投げてみたいと思っていたのに、シュクヤはゆり玉石だけを残して亡くなってしまった。それからずっと、カシンは罪悪感と寂しさを抱えて生きている。
 別に命を捨てようと思っている訳ではないし、気持ちが晴れればまた働くつもりでいる。だがその気持ちが晴れない。このままでは先に身体が限界を迎えると分かっているのに、立ち上がる気力が湧いてこない。
 辛いからまた眠ってしまおう。そう自堕落なことを考えて、ベッドに上がることもせず目を閉じる。弱りすぎてこのまま目を覚まさないかもしれない。それでも後悔はない。どこまでも暗い気持ちのまま闇の世界に落ちそうになって、だが今日は地上階のガタガタという音に引き戻されてしまう。
「……カシン様。カシン様!」
 幻聴かと思ったが、耳を澄ませばやはり自分を呼ぶ声がした。
「カシン様にお願いがあります。どちらにいらっしゃいますか?」
 返事のないカシンに焦れて、中に入ってきてしまったようだ。不躾だが、一階に大事なものは置いていないから問題ない。カシンの気配は感じるが、地下に続く隠し扉が見つけられなくて探し回っているのだろう。当然だ。仕事道具のある地下室には、隠し扉を見つけて解錠しないと下りることができない。カシンにしか扱えない薬草を奪われてはならないから、手を翳さないと開かない扉を造ってもらったのだ。
「カシン様!」
 それでも諦めない男がカシンを探し続ける。声の感じからして中年男性のようだ。冷やかしや興味本位ではないようだが、何者だろう。言葉遣いは丁寧だが、敵か味方か分からない。さて、どうするか。元気な頃のカシンならとりあえず話を聞いただろうが、生憎今のカシンは絶望的に元気がない。
「カシン様に治していただきたい方がいるのです」
 なるほど。ありがたいことに、出ていかなくても用件は分かった。それなら別にカシンでなくてもいい。決まりだ。このまま知らないフリを貫こう。そう思い、また目を閉じる。
「カシン様。至高の医師しこうのいし、カシン様!」
 だが続いた言葉にぴくりと反応してしまった。自分でも忘れかけていた呼び名に、久しぶりにピリピリとした感覚が湧く。最近はわざと隠すようにしていたのに、調べ上げてくるとは並の相手ではない。
「カシン様を探して参りました。どうか話をさせてください」
 その言葉に心を動かされた。どうしようもない生活をしていたのに、そんな自分を探してきてくれたと言う。
「……至高の医師、か」
 そう。自分はこの地に一人となってしまった位の医師だ。助けてほしいという人間がいるなら向かわなければならない。長い間に培われた職業病のようなもので、そう感じる。病状を聞くだけ聞いてみようか。気持ちが動いて、石階段を上って特殊な引き扉を開けてしまう。
「容態は?」
 前置きなく聞いてやれば、相手が一礼した。円柱型の帽子と肌を隠す白い衣服を身に着けた男だ。身のこなしから高貴な人間の側近のようだと分かる。壁と一体化して消えていった特殊扉に何か言うこともなく、聞かれたことに答えてくれる。
「五歳の子どもで、高熱が続いています。原因が分からなくて、お付きの医師や祈祷師ではどうにもならないのです」
「熱病を専門とする二位の医師なら、街にいくらでもいる筈です。三位の医師の実力者も、探せばいるでしょう?」
「城は今、街の人間の不満の対象です。実力のある医師など来てくれません」
 自分のところに来た理由を探れば、彼は恥を隠すこともせずに答える。
「城?」
「はい。病に侵されているのは、現王ビャクゲツ様のご子息ギョクト様です。国王のたった一人の息子です。報酬はいくらでもお支払いします。どうか一度城に」
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