目覚めたら傍にいて
暗くてよく分からない。だが玄関前で物凄いお酒の臭いがする。幾種かを一度にぶちまけたような臭い。足を進めれば、シャリ、とガラスを踏み潰す感触が伝わって、びくりと後退ってしまう。
一体なんだ?
常夜灯は少し離れた位置にあるから足元が見えない。恐る恐るもう一度進めば、靴の下でまたシャリ、とガラスが砕ける。
酒瓶を中身ごと割った?
一度部屋に入って玄関の外灯を点けて見れば、足元に緑や青のガラス片が大量に散らばっていた。間違って落としたのではなく、何本もそこで力一杯叩き割ったという感じで、どう見ても友聖に対する嫌がらせだ。
「誰がこんなことを」
辺りを見回してみるが人影はない。警察に連絡した方がいいだろうかと考えて、すぐにそれはいけないと思い直す。事を大きくしてはいけない。どんな形で迷惑が掛かるか分からないのだ。
自分を落ち着かせるために一つ息を吐き、友聖はベランダから箒と塵取りを出してきた。黙ってガラス片を集め始める。
不思議と怖いという気持ちはなかった。それより哀しい。どうしてこんなことが起こるのだろう。もう誰にも迷惑を掛けないよう一人静かに生きているのに。彼にも会いに行かないようにしているのに。ずるずると負の思考に引き摺られそうになって、それを懸命に追い払う。
片付けて寝てしまおう。気味は悪いが、こんなことで落ち込んだりするほど今の自分は弱くない。もう子どもの頃とは違う。自分はいい歳の社会人男性だ。飲めば寝られるだろう。そう必死で自分に言い聞かせる。
大きな破片を集め終え、あとは水を撒いて流そうと部屋に戻りかけたとき、上着の内ポケットの携帯が震えた。取り出して見れば、予想通りの名前が表示されている。少し迷ったが、結局は通話ボタンに触れていた。
「こんばんは。今話しても大丈夫ですか?」
彼のいつもと変わらない声に安堵する。
「うん。大丈夫」
その気持ちが、どうやら必要以上に出てしまっていたらしい。
「何かありましたね?」
一瞬の沈黙のあとで佐々木に聞かれてしまった。
「別にたいしたことじゃ……」
言ってから、しまったと思った。これでは何かあったことは認めることになる。
「本当になんでもないんだ。ただ、ちょっと……」
慌てて言い訳をしようとして、うっかり右足を塵取りにぶつけてしまう。
「わっ……!」
ガラス片がガシャンと動いて、思わず声を上げてしまう。
「すぐに行きます」
何かを感じたらしい佐々木が、有無を言わせない口調で言った。
「だから、ほんとにたいしたことじゃなくて」
「二十分、いえ、十五分で着きますから。部屋で待っていてください」
友聖にそれ以上言わせず、彼は電話を切ってしまった。その勢いにすっかり気圧されて、断るためにもう一度掛けることもできなくなる。
「心配させるつもりなんてなかったのに」
思わず零れた。
忙しくないのだろうか。また迷惑を掛けてしまっているのではないかと悩みながら、とにかく片付けてしまわなければと、もう一度塵取りを手にする。飛び出してしまった破片を片付け、バスルームの湯桶に汲んできた水で何度か玄関を流す。小さな部屋の一人暮らしだから、水撒きができるようなホースなど持っていない。キッチンの水道と玄関を往復している自分が、なんだか哀しくなってしまう。
一応は綺麗になった玄関を眺めて部屋に戻れば、どっと疲れが出た。佐々木が来るならお茶の準備でもと思うのに、一度座ってしまえば身体が動かなくなる。
そのままぼんやりしていて、鳴らされたチャイムの音で我に返った。
「友聖。僕です。無事ですか?」
ドア越しに佐々木の声がする。
「開いています」
横着で声だけで返してしまったが、このまま座っていては余計な心配をさせるだけだと気づいて、立ち上がって玄関に向かった。
「何があったんですか?」
ドアを開ければ珍しく険しい顔の佐々木が立っている。
「上がって下さい」
「友聖」
「大丈夫。もう片付けてしまったんです」
彼にソファーを勧めて、友聖はキッチンに戻った。今夜のことはもう忘れてしまいたい。辛いことは忘れてしまうに限る。自分は平凡な会社員で、静かに幸せに暮らしている。その現実だけでいい。
「何飲みます? 俺、紅茶が好きなので、佐々木さんも紅茶でいいですか? あ、それともお酒飲んじゃいますか?」
「友聖」
何故かベラベラと喋りながら薬缶やカップを準備していて、気がつけば佐々木が傍に立っていた。彼と目を合わせないまま、意地になってガチャガチャと手を動かしていれば、見かねたように彼に腕を掴まれてしまう。
ああ。ダメだ。泣きそうだ。
そう思った瞬間、佐々木が少しだけ強引に友聖の腕を引いた。身体ごと彼の胸に倒れて、背中にそっと腕が回される。
「無理をしないでください。僕は友聖を護りたい。だから話してほしい。今夜何があったのか。他に不安なことがあるのなら、それも全部」
どこまでも静かで穏やかな声に、少なくても今ここには自分の他に彼がいるのだと実感できた。誰かにこんな風に心配してもらうのはいつぶりだろう。今だけ、甘えてもいいだろうかと、そんな気持ちになってしまう。
「友聖が望まないことはしません。話せることだけを話してくれて構いませんから」
「……うん」
頷けば身体を包むようにしてソファーに誘導される。並んで座って肩に腕を回して、佐々木は友聖の言葉を待ってくれる。一定のリズムで肩に触れられれば落ち着きを取り戻して、友聖は静かに話し出した。
今夜のこと。最近誰かにつけられているようだったこと。事情があって警察には届けたくないこと。そして犯人を探す気はないから、静かな生活を続けたいこと。
事実だけを淡々と話すつもりだったのに、話し出せば様々な想いが湧き起こって、時々つかえたり話を前後させたりした。それでも佐々木は急かしたり口を挟んだりせず、黙って聞いてくれる。
「ありがとうございます。話してくれて」
話し終えると佐々木はそう言って、何かを考え込むように顎に手を遣った。
「お茶淹れるね。温かいので平気?」
「ええ。ありがとうございます」
キッチンに立つついでに、少しだけエアコンの設定温度を上げる。いつもは快適な冷房設定が、今夜は少しだけ友聖の身体を痛めつける。
電気ポットでお湯を沸かしながら見れば、佐々木がまだ硬い表情をしていた。彼らしくない様子に、また少し哀しくなってしまう。
「わざわざ来てもらって、ごめん」
カップを差し出しながら詫びれば、見上げた彼に慌てて否定された。
「謝るのは僕の方です。護衛なんて言いながら、友聖を危険な目に遭わせてしまった」
「危険というほどじゃないけど」
友聖の困った表情に、謝り合っていても仕方がないと思ったのだろう。いただきますと、彼が紅茶のカップを持ち上げる。
「おいしい。アールグレイですね」
「うん、そう。紅茶詳しいの?」
「メジャーなものだけ分かるって程度ですけど」
友人や同僚に話したことはないが、友聖は紅茶が割と好きで、色々なブランドの茶葉を飲み比べて、好みのものを見つけて楽しんでいる。佐々木にも知識があると知って、些細な偶然に嬉しくなる。彼にもいつもの柔らかな表情が戻り、友聖はほっとして、自分もカップを手にした。温かな紅茶で気持ちも少し解れていく。
「友聖」
紅茶の話をして一息ついたところで、佐々木がことりとカップを置いた。こちらもカップを置いて彼を見上げる。
「今日のことは、完全に僕の判断ミスです」
「そんな。佐々木さんは関係ないよ」
思わず必死になってしまえば、彼が哀しげに目を細める。
「あ、いや。関係ないって、犯人に関係ないっていう意味で」
慌てて訂正すれば、彼がふふと笑った。
「やっぱり友聖は優しい。そういうところが好きなんですけど」
「もういいって、そういうの」
当たり前のように好きだと言われて、友聖は困って顔を逸らしてしまう。またふふと笑う彼に、どうして好きと言った方が余裕なのだろうと、納得できない気持ちになってしまう。
「ということで、今夜泊めてくれますか?」
さらりと彼が言った。
「……え?」
「今夜は一晩中友聖の傍にいます」
「理由は?」
「友聖一人じゃ危ないじゃないですか。あ、気を遣っていただかなくても、僕はどこでも寝られる人間なので」
いや、そこが問題ではないんだけど、心で突っ込む友聖を余所に、佐々木は財布を手に玄関に向かっていた。
「コンビニで必要なものを買ってきますね」
「ちょっと」
「何か欲しいものはありますか?」
「ないけど」
「では戸締りをして、一歩も外に出ないで待っていてください。何かあったら即電話してくださいね」
そう言って、彼は本当に出ていってしまった。残された友聖は、呆然と玄関のドアを眺めてしまう。
「……ここに泊まる?」
一体なんだ?
常夜灯は少し離れた位置にあるから足元が見えない。恐る恐るもう一度進めば、靴の下でまたシャリ、とガラスが砕ける。
酒瓶を中身ごと割った?
一度部屋に入って玄関の外灯を点けて見れば、足元に緑や青のガラス片が大量に散らばっていた。間違って落としたのではなく、何本もそこで力一杯叩き割ったという感じで、どう見ても友聖に対する嫌がらせだ。
「誰がこんなことを」
辺りを見回してみるが人影はない。警察に連絡した方がいいだろうかと考えて、すぐにそれはいけないと思い直す。事を大きくしてはいけない。どんな形で迷惑が掛かるか分からないのだ。
自分を落ち着かせるために一つ息を吐き、友聖はベランダから箒と塵取りを出してきた。黙ってガラス片を集め始める。
不思議と怖いという気持ちはなかった。それより哀しい。どうしてこんなことが起こるのだろう。もう誰にも迷惑を掛けないよう一人静かに生きているのに。彼にも会いに行かないようにしているのに。ずるずると負の思考に引き摺られそうになって、それを懸命に追い払う。
片付けて寝てしまおう。気味は悪いが、こんなことで落ち込んだりするほど今の自分は弱くない。もう子どもの頃とは違う。自分はいい歳の社会人男性だ。飲めば寝られるだろう。そう必死で自分に言い聞かせる。
大きな破片を集め終え、あとは水を撒いて流そうと部屋に戻りかけたとき、上着の内ポケットの携帯が震えた。取り出して見れば、予想通りの名前が表示されている。少し迷ったが、結局は通話ボタンに触れていた。
「こんばんは。今話しても大丈夫ですか?」
彼のいつもと変わらない声に安堵する。
「うん。大丈夫」
その気持ちが、どうやら必要以上に出てしまっていたらしい。
「何かありましたね?」
一瞬の沈黙のあとで佐々木に聞かれてしまった。
「別にたいしたことじゃ……」
言ってから、しまったと思った。これでは何かあったことは認めることになる。
「本当になんでもないんだ。ただ、ちょっと……」
慌てて言い訳をしようとして、うっかり右足を塵取りにぶつけてしまう。
「わっ……!」
ガラス片がガシャンと動いて、思わず声を上げてしまう。
「すぐに行きます」
何かを感じたらしい佐々木が、有無を言わせない口調で言った。
「だから、ほんとにたいしたことじゃなくて」
「二十分、いえ、十五分で着きますから。部屋で待っていてください」
友聖にそれ以上言わせず、彼は電話を切ってしまった。その勢いにすっかり気圧されて、断るためにもう一度掛けることもできなくなる。
「心配させるつもりなんてなかったのに」
思わず零れた。
忙しくないのだろうか。また迷惑を掛けてしまっているのではないかと悩みながら、とにかく片付けてしまわなければと、もう一度塵取りを手にする。飛び出してしまった破片を片付け、バスルームの湯桶に汲んできた水で何度か玄関を流す。小さな部屋の一人暮らしだから、水撒きができるようなホースなど持っていない。キッチンの水道と玄関を往復している自分が、なんだか哀しくなってしまう。
一応は綺麗になった玄関を眺めて部屋に戻れば、どっと疲れが出た。佐々木が来るならお茶の準備でもと思うのに、一度座ってしまえば身体が動かなくなる。
そのままぼんやりしていて、鳴らされたチャイムの音で我に返った。
「友聖。僕です。無事ですか?」
ドア越しに佐々木の声がする。
「開いています」
横着で声だけで返してしまったが、このまま座っていては余計な心配をさせるだけだと気づいて、立ち上がって玄関に向かった。
「何があったんですか?」
ドアを開ければ珍しく険しい顔の佐々木が立っている。
「上がって下さい」
「友聖」
「大丈夫。もう片付けてしまったんです」
彼にソファーを勧めて、友聖はキッチンに戻った。今夜のことはもう忘れてしまいたい。辛いことは忘れてしまうに限る。自分は平凡な会社員で、静かに幸せに暮らしている。その現実だけでいい。
「何飲みます? 俺、紅茶が好きなので、佐々木さんも紅茶でいいですか? あ、それともお酒飲んじゃいますか?」
「友聖」
何故かベラベラと喋りながら薬缶やカップを準備していて、気がつけば佐々木が傍に立っていた。彼と目を合わせないまま、意地になってガチャガチャと手を動かしていれば、見かねたように彼に腕を掴まれてしまう。
ああ。ダメだ。泣きそうだ。
そう思った瞬間、佐々木が少しだけ強引に友聖の腕を引いた。身体ごと彼の胸に倒れて、背中にそっと腕が回される。
「無理をしないでください。僕は友聖を護りたい。だから話してほしい。今夜何があったのか。他に不安なことがあるのなら、それも全部」
どこまでも静かで穏やかな声に、少なくても今ここには自分の他に彼がいるのだと実感できた。誰かにこんな風に心配してもらうのはいつぶりだろう。今だけ、甘えてもいいだろうかと、そんな気持ちになってしまう。
「友聖が望まないことはしません。話せることだけを話してくれて構いませんから」
「……うん」
頷けば身体を包むようにしてソファーに誘導される。並んで座って肩に腕を回して、佐々木は友聖の言葉を待ってくれる。一定のリズムで肩に触れられれば落ち着きを取り戻して、友聖は静かに話し出した。
今夜のこと。最近誰かにつけられているようだったこと。事情があって警察には届けたくないこと。そして犯人を探す気はないから、静かな生活を続けたいこと。
事実だけを淡々と話すつもりだったのに、話し出せば様々な想いが湧き起こって、時々つかえたり話を前後させたりした。それでも佐々木は急かしたり口を挟んだりせず、黙って聞いてくれる。
「ありがとうございます。話してくれて」
話し終えると佐々木はそう言って、何かを考え込むように顎に手を遣った。
「お茶淹れるね。温かいので平気?」
「ええ。ありがとうございます」
キッチンに立つついでに、少しだけエアコンの設定温度を上げる。いつもは快適な冷房設定が、今夜は少しだけ友聖の身体を痛めつける。
電気ポットでお湯を沸かしながら見れば、佐々木がまだ硬い表情をしていた。彼らしくない様子に、また少し哀しくなってしまう。
「わざわざ来てもらって、ごめん」
カップを差し出しながら詫びれば、見上げた彼に慌てて否定された。
「謝るのは僕の方です。護衛なんて言いながら、友聖を危険な目に遭わせてしまった」
「危険というほどじゃないけど」
友聖の困った表情に、謝り合っていても仕方がないと思ったのだろう。いただきますと、彼が紅茶のカップを持ち上げる。
「おいしい。アールグレイですね」
「うん、そう。紅茶詳しいの?」
「メジャーなものだけ分かるって程度ですけど」
友人や同僚に話したことはないが、友聖は紅茶が割と好きで、色々なブランドの茶葉を飲み比べて、好みのものを見つけて楽しんでいる。佐々木にも知識があると知って、些細な偶然に嬉しくなる。彼にもいつもの柔らかな表情が戻り、友聖はほっとして、自分もカップを手にした。温かな紅茶で気持ちも少し解れていく。
「友聖」
紅茶の話をして一息ついたところで、佐々木がことりとカップを置いた。こちらもカップを置いて彼を見上げる。
「今日のことは、完全に僕の判断ミスです」
「そんな。佐々木さんは関係ないよ」
思わず必死になってしまえば、彼が哀しげに目を細める。
「あ、いや。関係ないって、犯人に関係ないっていう意味で」
慌てて訂正すれば、彼がふふと笑った。
「やっぱり友聖は優しい。そういうところが好きなんですけど」
「もういいって、そういうの」
当たり前のように好きだと言われて、友聖は困って顔を逸らしてしまう。またふふと笑う彼に、どうして好きと言った方が余裕なのだろうと、納得できない気持ちになってしまう。
「ということで、今夜泊めてくれますか?」
さらりと彼が言った。
「……え?」
「今夜は一晩中友聖の傍にいます」
「理由は?」
「友聖一人じゃ危ないじゃないですか。あ、気を遣っていただかなくても、僕はどこでも寝られる人間なので」
いや、そこが問題ではないんだけど、心で突っ込む友聖を余所に、佐々木は財布を手に玄関に向かっていた。
「コンビニで必要なものを買ってきますね」
「ちょっと」
「何か欲しいものはありますか?」
「ないけど」
「では戸締りをして、一歩も外に出ないで待っていてください。何かあったら即電話してくださいね」
そう言って、彼は本当に出ていってしまった。残された友聖は、呆然と玄関のドアを眺めてしまう。
「……ここに泊まる?」