目覚めたら傍にいて
それでこうして訪ねてしまう自分は、余程のお人好しか物好きなのだろう。
日曜日。紙袋を下げて電車を乗り継ぎながら、友聖は自分自身に苦笑していた。昨日の土曜は流石に現れなかったが、彼は律儀に電話とメッセージをよこし──そもそも電話番号やアドレスを教えた覚えはないのだが──事務所に来てくれるのを楽しみにしています、と念を押した。成り行きとはいえ約束してしまったし、名刺を見れば所在地も友聖の通勤ルートにあって、断る理由がなくてこうして向かっている。
それでも事前に約束をして会いに行くのは躊躇われて、連絡は入れずに家を出てみた。不在なら引き返せばいい。一度事務所を訪れたことを告げれば、もうしつこく誘ってこないだろうと、どちらかというとそのパターンを想像していた。
だが予想は外れた。品川駅から徒歩十分の小綺麗なビルの二階。階段を上れば、一部中が見える造りになっているオフィスに迎えられた。二階のテナントは佐々木探偵事務所のみらしい。ガラスの壁の向こうに、眼鏡姿の彼が書類と向き合う姿があった。集中しているのか、物凄いスピードで書類を捲り、ペンを走らせる姿に圧倒されてしまう。しばらく観察していて、彼が別の書類を手に取ったところで我に返った。上半分がガラス張りの壁を過ぎて入口のインターホンを押せば、どうぞ、開いていますと優しげな声がする。その声音にまた彼の人柄を知ってしまう。きっとこうしてアポなしでやってきた依頼主にも、彼はきちんと向き合うのだろう。
「……こんにちは」
恐る恐るドアを開けると、眼鏡を外してこちらに向かっていた彼が目を見開いた。
「高月さん!」
破顔する様子がどう見ても本心で、なんだかこちらが照れてしまう。
「来てくれたんですね。嬉しい。どうぞ入って下さい」
「いえ。俺はここで」
「そんなことを言わずに。今日は誰もいませんから。ね?」
「じゃあ、少しだけ」
結局彼の微笑みに負けて、普通なら縁がないであろう探偵事務所に入ることになった。
「どうぞ、こちらに」
窓際の応接セットのソファーを勧められて素直に座る。二階の窓からは周辺の街の様子が見渡せた。見上げれば自分にはもったいないような快晴で、太陽の下で、見慣れている筈のビルとビルの景色が、きらきらと輝いて見える。
「お茶を淹れますね」
彼が奥に向かいかけたところで思い出して、持参した紙袋を差し出した。
「差し入れです。よかったら食べてください」
「嬉しい。ありがとうございます」
受け取った佐々木がまた華やかな表情になる。こんな風にストレートに喜びを表現できるところも、彼の魅力の一つだと感心してしまう。
「もしかして、高月さんが作ったんですか?」
中身を確認した彼が驚きの声を上げる。
「……はい。お店のものみたいに上手くはないですけど」
今朝手土産は何がいいかと考えて、友聖は胡桃のバウンドケーキを焼いてきた。昔から料理をしてきた友聖だが、お菓子作りは三度の食事の支度より少しだけ楽しい作業なのだ。食べるのが自分という点は変わらなくても、綺麗な形やいい匂いに気分が浮上する。本当はお弁当でも作ってあげたい気もしたのだが、この炎天下では傷みそうだし、不在だった場合に持ち帰ることも考えて、日持ちのする焼菓子に落ち着いたのだ。幸い、彼の甘いもの好きは確認済みだ。
「感激です。こんなに嬉しいことがあるんですね」
「いえ。そんな大層なものでは」
バウンドケーキはお菓子の中では手間が掛からない方だと思う。それなのに目を細めてしみじみと言われて、友聖の方が恐縮してしまう。
「早速食べたいので一緒にお茶にしましょう。紅茶とコーヒー、どちらがお好みですか?」
「じゃあ、紅茶で」
「承知しました。ラックにある雑誌は自由に読んで構わないので、少し待っていてください」
そう言って一度給湯スペースに引っ込んだ佐々木が、しばらくしてトレーに紅茶と友聖のケーキを乗せて戻ってくる。
「料理が出来るなんて凄いですね」
ローテーブルに並べて二人のお茶の時間になった。事務所にナイフなどないかもしれないと思ったから、一人分ずつ切り分けてきたケーキが、白い小皿の上に綺麗に乗っている。
「おいしい。ふふ。高月さんが来てくれただけでも幸せなのに、贅沢ですね」
ケーキを口にした佐々木が、過ぎる褒め言葉をくれる。彼の言動はどこまでもまっすぐで、昔から褒められ慣れていない友聖は困ってしまう。
「ありがとうございます。えっと、佐々木さんは料理はしないんですか?」
困って話を変えてしまった。
「僕は全く。辛うじて、炊飯器でご飯を炊くくらい」
「意外。あ、そもそも奥さんとか恋人とか、ご飯を作ってくれる人はいないんですか?」
ふと思いついたことを聞いてみる。この容姿でこのスペックだ。特定の相手がいない方がおかしい。そう思ったのだが、フォークを手にしたままの彼は声を上げて笑い出してしまう。
「いたら探偵なんて怪しげな仕事に手を出しませんよ」
「怪しげって」
今度は友聖が吹き出してしまう。その怪しげな仕事で自分の回りをうろうろしているのかと、そんな思いを察したらしい佐々木が、笑ったまま否定する。
「いえ。怪しいって悪い意味ではなくて。ほら、妻子があると、例えば大きな弁護士事務所に所属して安心させてあげたいっていうのがあるじゃないですか。それがこうして独立して、探偵なんて一般的とは言い難い仕事をしているのは、独り身の特権かなと。弁護士業の依頼があれば、そっちも自由に仕事を受けてこられますしね」
「弁護士と探偵を一人でやっているんですか?」
「いえ」
誰もいないオフィスを見渡して聞けば、佐々木が先程座っていた席の向かいのデスクに目を遣る。
「今日は外していますが、もう一人弁護士兼探偵がいます。元々大学の後輩で、去年僕が独立するときついてきくれたんですね」
「へぇ」
どちらのデスクもきちんと整頓されていた。去年ということは、それまではどこか弁護士事務所に所属していたのだろうか。だとしたら、探偵としてのキャリアは然程長くないということになる。
「それより高月さん」
どうやら本当にケーキを気に入ってくれたらしい佐々木が、二切れ目のケーキにフォークを入れる。
「佐々木さんなんて他人行儀な呼び方はやめて、雅紀って呼んでくれませんか? それに僕と話すときは敬語でなくて構いませんし」
また困ることを言われてしまった。
「無理ですって。佐々木さん、俺より年上でしょう?」
「今年三二だから三つ上ですね。いいじゃないですか、そんなことは気にしなくても」
「それに弁護士の先生だし」
言いながら、やはり自分の年齢は調べられているのだなと思った。連絡先と年齢と、あとは何を知られているのだろう。
「弁護士とか探偵とか関係なく、ただの友達だと思ってください。もちろん友達以上に思ってくれても構いませんけれど」
「えっと……」
「僕はフリーですから、なんの問題もないですよ」
相変わらず彼のこの手の冗談にはついていけない。
「僕も友聖と呼んでいいですか?」
「それは、構いませんけど」
「友聖。あ、呼んでみただけです」
何がそんなに嬉しいのか、一人で言って一人で笑う彼に、何故かこちらの鼓動も速められてしまう。やはり彼の前では調子が狂う。
「僕のことは、雅紀でも雅くんでもまーくんでも好きに呼んでくれて構いませんので」
「呼べませんって」
呆れたような言い方で返したのに、佐々木は上機嫌なままだ。どうやら友聖のどんな言動も嬉しいらしく、次第にこちらも嬉しいのか恥ずかしいのか困っているのか、どんな感情が正解なのか分からなくなる。ただ一つ分かるのは、今この時間が嫌いではないということ。
「ところで、聞きたいことがあるん……だけど」
意識して敬語を取り払って聞いてみた。
「俺、携帯の番号もアドレスも教えた覚えがないんだけど、どうして知っていたの?」
「あ、気づいてしまいましたか」
佐々木が申し訳なさそうに肩を竦め、隠すことなく答えをくれる。
「依頼主が教えてくれたんです。知っていた方が護りやすいだろうからって」
「依頼主……」
呟いて、頭を巡らせた。友人や同僚たちは携帯のアドレスまで知っているが、彼らが自分の護衛を依頼する理由はない。あと知っているのは両親と兄だが、それは同僚たちよりもっとありえない。
「友聖」
不意討ちで呼ばれて、びくりと肩を震わせてしまった。顔を上げれば、優しいのに、どこまでも真摯な視線が向いている。
「了解を得ずに連絡したことは僕の怠慢でした。謝ります」
「あ、ううん。ちょっと気になっただけで、怒ってないから」
慌てて否定した。珍しくきちんとした態度を取られれば、それはそれで困ってしまう。ありがとうございます、と少しだけ表情を緩めた彼が、もう少し言葉を続けてくれる。
「突然現れて、詳しく話しもせず護衛なんて訳の分からないことを言っているのですから、不審に思うのは当然だと思います。でも」
彼の顔が探偵なのか弁護士なのか、とにかく一瞬鋭いものに変わってドキリとする。
「依頼主も僕も友聖を大切に思っている。それだけは信じてください」
「佐々木さん」
「『雅紀』」
佐々木がふふと笑って訂正する。
「それほど長くお待たせせずに、事情をお話しできると思います。それまでは、何も聞かずに傍にいさせてください」
「……分かった」
複雑な気持ちで頷いた。今は明かせない依頼主のことも気になったし、その事情とやらが済めば彼が自分の前から消えてしまうのかと思えば、少し寂しくなってしまう。
「じゃあ、俺はそろそろ」
よく分からない気持ちを払うように腰を上げて、カップや皿を片付けるために手元に寄せた。佐々木に慌てて止められる。
「気を遣わないでください。それより、まだいいじゃないですか」
「いや。家で少しやることもあるし」
「それなら駅まで送ります」
言われて、首を傾げて彼を見上げた。
「それは護衛? プライベート?」
「プライベートです」
「だと思った」
予想通りの答えに小さく笑う。
「プライベートなら今日は遠慮しておきます。佐々木さん忙しそうだし。俺がここに来たとき、何か難しい書類と格闘していたでしょう?」
「あんなの、たいしたことではありません」
「そっか。でも今日は一人で帰ります」
片付けはお言葉に甘えて任せることにして、応接ソファーから離れた。入口まで歩く間に考えを整理して、ドアの前まで追ってきてくれた彼と向き合う。
「護衛以外のときはちゃんと休んで、他の仕事をして、護衛のときはしっかり護ってください。よく分からないけど、信じるから」
「友聖」
「もう少し涼しくなったら、今度は何かご飯を作ってきますね」
彼のことは嫌いではない。いつのまにか、もう一度くらいここに来るのも悪くないと思っている。いたいというのなら、気が済むまで傍にいればいい。
「じゃあ」
「友聖」
ドアノブに触れたところで呼ばれて振り向いた。なんだろうと見上げた彼の顔が近づいて、あれ? と思ったところで唇が触れる。
理解が追いつくより先に離れていった。固まったまま動けずにいて、彼に綺麗に微笑みかけられる。
「好きです」
「……え」
「好きになってしまいました」
そこで漸く何をされたか理解して、ぼっと頬に血が上った。
「何するんですか!」
「何って、キス?」
「そうじゃなくて!」
男にキスをしておいて、彼は何か問題でも? と言いたげな顔だ。突っ込みどころが多すぎて、逆に言葉が出なくなる。
「……帰ります」
「送りましょうか?」
「結構です!」
精一杯不機嫌に言った。
「また会いに行きますから」
こちらの態度などお構いなしに、そう背中に声を掛けてくる彼がいつまでも見ているようで、振り向かずに足早にエレベーターに向かう。
『好きになってしまいました』
ああ、もう。
駅に向かう道のりも、電車の混雑に揺られる間も、友聖の思考は全て佐々木で占められた。何が護衛だ。お前が危ないじゃないか。そう、どうしようもなく動揺している自分が悔しい。乗り換えのためにホームを歩く友聖の脳裏に、彼の憎らしいほど綺麗な顔が浮かんでは消える。
普通、相手の気持ちも確かめずにキスなんてするか? それより何より男同士じゃないか。
だが彼のキスに嫌悪感があったかといえばそうでもなくて、友聖はもう、何がなんだか分からなくなる。
もういい。
電車に乗り、友聖はまっすぐ家を目指した。何か買いものをして帰る予定だった気がするが、そんなことはもうどうでもいい。一刻も早く家に帰りたかった。
もう知らない。もう電話にも出てやらない。
そう決めて、その日友聖は早々にベッドに入って眠ってしまった。
日曜日。紙袋を下げて電車を乗り継ぎながら、友聖は自分自身に苦笑していた。昨日の土曜は流石に現れなかったが、彼は律儀に電話とメッセージをよこし──そもそも電話番号やアドレスを教えた覚えはないのだが──事務所に来てくれるのを楽しみにしています、と念を押した。成り行きとはいえ約束してしまったし、名刺を見れば所在地も友聖の通勤ルートにあって、断る理由がなくてこうして向かっている。
それでも事前に約束をして会いに行くのは躊躇われて、連絡は入れずに家を出てみた。不在なら引き返せばいい。一度事務所を訪れたことを告げれば、もうしつこく誘ってこないだろうと、どちらかというとそのパターンを想像していた。
だが予想は外れた。品川駅から徒歩十分の小綺麗なビルの二階。階段を上れば、一部中が見える造りになっているオフィスに迎えられた。二階のテナントは佐々木探偵事務所のみらしい。ガラスの壁の向こうに、眼鏡姿の彼が書類と向き合う姿があった。集中しているのか、物凄いスピードで書類を捲り、ペンを走らせる姿に圧倒されてしまう。しばらく観察していて、彼が別の書類を手に取ったところで我に返った。上半分がガラス張りの壁を過ぎて入口のインターホンを押せば、どうぞ、開いていますと優しげな声がする。その声音にまた彼の人柄を知ってしまう。きっとこうしてアポなしでやってきた依頼主にも、彼はきちんと向き合うのだろう。
「……こんにちは」
恐る恐るドアを開けると、眼鏡を外してこちらに向かっていた彼が目を見開いた。
「高月さん!」
破顔する様子がどう見ても本心で、なんだかこちらが照れてしまう。
「来てくれたんですね。嬉しい。どうぞ入って下さい」
「いえ。俺はここで」
「そんなことを言わずに。今日は誰もいませんから。ね?」
「じゃあ、少しだけ」
結局彼の微笑みに負けて、普通なら縁がないであろう探偵事務所に入ることになった。
「どうぞ、こちらに」
窓際の応接セットのソファーを勧められて素直に座る。二階の窓からは周辺の街の様子が見渡せた。見上げれば自分にはもったいないような快晴で、太陽の下で、見慣れている筈のビルとビルの景色が、きらきらと輝いて見える。
「お茶を淹れますね」
彼が奥に向かいかけたところで思い出して、持参した紙袋を差し出した。
「差し入れです。よかったら食べてください」
「嬉しい。ありがとうございます」
受け取った佐々木がまた華やかな表情になる。こんな風にストレートに喜びを表現できるところも、彼の魅力の一つだと感心してしまう。
「もしかして、高月さんが作ったんですか?」
中身を確認した彼が驚きの声を上げる。
「……はい。お店のものみたいに上手くはないですけど」
今朝手土産は何がいいかと考えて、友聖は胡桃のバウンドケーキを焼いてきた。昔から料理をしてきた友聖だが、お菓子作りは三度の食事の支度より少しだけ楽しい作業なのだ。食べるのが自分という点は変わらなくても、綺麗な形やいい匂いに気分が浮上する。本当はお弁当でも作ってあげたい気もしたのだが、この炎天下では傷みそうだし、不在だった場合に持ち帰ることも考えて、日持ちのする焼菓子に落ち着いたのだ。幸い、彼の甘いもの好きは確認済みだ。
「感激です。こんなに嬉しいことがあるんですね」
「いえ。そんな大層なものでは」
バウンドケーキはお菓子の中では手間が掛からない方だと思う。それなのに目を細めてしみじみと言われて、友聖の方が恐縮してしまう。
「早速食べたいので一緒にお茶にしましょう。紅茶とコーヒー、どちらがお好みですか?」
「じゃあ、紅茶で」
「承知しました。ラックにある雑誌は自由に読んで構わないので、少し待っていてください」
そう言って一度給湯スペースに引っ込んだ佐々木が、しばらくしてトレーに紅茶と友聖のケーキを乗せて戻ってくる。
「料理が出来るなんて凄いですね」
ローテーブルに並べて二人のお茶の時間になった。事務所にナイフなどないかもしれないと思ったから、一人分ずつ切り分けてきたケーキが、白い小皿の上に綺麗に乗っている。
「おいしい。ふふ。高月さんが来てくれただけでも幸せなのに、贅沢ですね」
ケーキを口にした佐々木が、過ぎる褒め言葉をくれる。彼の言動はどこまでもまっすぐで、昔から褒められ慣れていない友聖は困ってしまう。
「ありがとうございます。えっと、佐々木さんは料理はしないんですか?」
困って話を変えてしまった。
「僕は全く。辛うじて、炊飯器でご飯を炊くくらい」
「意外。あ、そもそも奥さんとか恋人とか、ご飯を作ってくれる人はいないんですか?」
ふと思いついたことを聞いてみる。この容姿でこのスペックだ。特定の相手がいない方がおかしい。そう思ったのだが、フォークを手にしたままの彼は声を上げて笑い出してしまう。
「いたら探偵なんて怪しげな仕事に手を出しませんよ」
「怪しげって」
今度は友聖が吹き出してしまう。その怪しげな仕事で自分の回りをうろうろしているのかと、そんな思いを察したらしい佐々木が、笑ったまま否定する。
「いえ。怪しいって悪い意味ではなくて。ほら、妻子があると、例えば大きな弁護士事務所に所属して安心させてあげたいっていうのがあるじゃないですか。それがこうして独立して、探偵なんて一般的とは言い難い仕事をしているのは、独り身の特権かなと。弁護士業の依頼があれば、そっちも自由に仕事を受けてこられますしね」
「弁護士と探偵を一人でやっているんですか?」
「いえ」
誰もいないオフィスを見渡して聞けば、佐々木が先程座っていた席の向かいのデスクに目を遣る。
「今日は外していますが、もう一人弁護士兼探偵がいます。元々大学の後輩で、去年僕が独立するときついてきくれたんですね」
「へぇ」
どちらのデスクもきちんと整頓されていた。去年ということは、それまではどこか弁護士事務所に所属していたのだろうか。だとしたら、探偵としてのキャリアは然程長くないということになる。
「それより高月さん」
どうやら本当にケーキを気に入ってくれたらしい佐々木が、二切れ目のケーキにフォークを入れる。
「佐々木さんなんて他人行儀な呼び方はやめて、雅紀って呼んでくれませんか? それに僕と話すときは敬語でなくて構いませんし」
また困ることを言われてしまった。
「無理ですって。佐々木さん、俺より年上でしょう?」
「今年三二だから三つ上ですね。いいじゃないですか、そんなことは気にしなくても」
「それに弁護士の先生だし」
言いながら、やはり自分の年齢は調べられているのだなと思った。連絡先と年齢と、あとは何を知られているのだろう。
「弁護士とか探偵とか関係なく、ただの友達だと思ってください。もちろん友達以上に思ってくれても構いませんけれど」
「えっと……」
「僕はフリーですから、なんの問題もないですよ」
相変わらず彼のこの手の冗談にはついていけない。
「僕も友聖と呼んでいいですか?」
「それは、構いませんけど」
「友聖。あ、呼んでみただけです」
何がそんなに嬉しいのか、一人で言って一人で笑う彼に、何故かこちらの鼓動も速められてしまう。やはり彼の前では調子が狂う。
「僕のことは、雅紀でも雅くんでもまーくんでも好きに呼んでくれて構いませんので」
「呼べませんって」
呆れたような言い方で返したのに、佐々木は上機嫌なままだ。どうやら友聖のどんな言動も嬉しいらしく、次第にこちらも嬉しいのか恥ずかしいのか困っているのか、どんな感情が正解なのか分からなくなる。ただ一つ分かるのは、今この時間が嫌いではないということ。
「ところで、聞きたいことがあるん……だけど」
意識して敬語を取り払って聞いてみた。
「俺、携帯の番号もアドレスも教えた覚えがないんだけど、どうして知っていたの?」
「あ、気づいてしまいましたか」
佐々木が申し訳なさそうに肩を竦め、隠すことなく答えをくれる。
「依頼主が教えてくれたんです。知っていた方が護りやすいだろうからって」
「依頼主……」
呟いて、頭を巡らせた。友人や同僚たちは携帯のアドレスまで知っているが、彼らが自分の護衛を依頼する理由はない。あと知っているのは両親と兄だが、それは同僚たちよりもっとありえない。
「友聖」
不意討ちで呼ばれて、びくりと肩を震わせてしまった。顔を上げれば、優しいのに、どこまでも真摯な視線が向いている。
「了解を得ずに連絡したことは僕の怠慢でした。謝ります」
「あ、ううん。ちょっと気になっただけで、怒ってないから」
慌てて否定した。珍しくきちんとした態度を取られれば、それはそれで困ってしまう。ありがとうございます、と少しだけ表情を緩めた彼が、もう少し言葉を続けてくれる。
「突然現れて、詳しく話しもせず護衛なんて訳の分からないことを言っているのですから、不審に思うのは当然だと思います。でも」
彼の顔が探偵なのか弁護士なのか、とにかく一瞬鋭いものに変わってドキリとする。
「依頼主も僕も友聖を大切に思っている。それだけは信じてください」
「佐々木さん」
「『雅紀』」
佐々木がふふと笑って訂正する。
「それほど長くお待たせせずに、事情をお話しできると思います。それまでは、何も聞かずに傍にいさせてください」
「……分かった」
複雑な気持ちで頷いた。今は明かせない依頼主のことも気になったし、その事情とやらが済めば彼が自分の前から消えてしまうのかと思えば、少し寂しくなってしまう。
「じゃあ、俺はそろそろ」
よく分からない気持ちを払うように腰を上げて、カップや皿を片付けるために手元に寄せた。佐々木に慌てて止められる。
「気を遣わないでください。それより、まだいいじゃないですか」
「いや。家で少しやることもあるし」
「それなら駅まで送ります」
言われて、首を傾げて彼を見上げた。
「それは護衛? プライベート?」
「プライベートです」
「だと思った」
予想通りの答えに小さく笑う。
「プライベートなら今日は遠慮しておきます。佐々木さん忙しそうだし。俺がここに来たとき、何か難しい書類と格闘していたでしょう?」
「あんなの、たいしたことではありません」
「そっか。でも今日は一人で帰ります」
片付けはお言葉に甘えて任せることにして、応接ソファーから離れた。入口まで歩く間に考えを整理して、ドアの前まで追ってきてくれた彼と向き合う。
「護衛以外のときはちゃんと休んで、他の仕事をして、護衛のときはしっかり護ってください。よく分からないけど、信じるから」
「友聖」
「もう少し涼しくなったら、今度は何かご飯を作ってきますね」
彼のことは嫌いではない。いつのまにか、もう一度くらいここに来るのも悪くないと思っている。いたいというのなら、気が済むまで傍にいればいい。
「じゃあ」
「友聖」
ドアノブに触れたところで呼ばれて振り向いた。なんだろうと見上げた彼の顔が近づいて、あれ? と思ったところで唇が触れる。
理解が追いつくより先に離れていった。固まったまま動けずにいて、彼に綺麗に微笑みかけられる。
「好きです」
「……え」
「好きになってしまいました」
そこで漸く何をされたか理解して、ぼっと頬に血が上った。
「何するんですか!」
「何って、キス?」
「そうじゃなくて!」
男にキスをしておいて、彼は何か問題でも? と言いたげな顔だ。突っ込みどころが多すぎて、逆に言葉が出なくなる。
「……帰ります」
「送りましょうか?」
「結構です!」
精一杯不機嫌に言った。
「また会いに行きますから」
こちらの態度などお構いなしに、そう背中に声を掛けてくる彼がいつまでも見ているようで、振り向かずに足早にエレベーターに向かう。
『好きになってしまいました』
ああ、もう。
駅に向かう道のりも、電車の混雑に揺られる間も、友聖の思考は全て佐々木で占められた。何が護衛だ。お前が危ないじゃないか。そう、どうしようもなく動揺している自分が悔しい。乗り換えのためにホームを歩く友聖の脳裏に、彼の憎らしいほど綺麗な顔が浮かんでは消える。
普通、相手の気持ちも確かめずにキスなんてするか? それより何より男同士じゃないか。
だが彼のキスに嫌悪感があったかといえばそうでもなくて、友聖はもう、何がなんだか分からなくなる。
もういい。
電車に乗り、友聖はまっすぐ家を目指した。何か買いものをして帰る予定だった気がするが、そんなことはもうどうでもいい。一刻も早く家に帰りたかった。
もう知らない。もう電話にも出てやらない。
そう決めて、その日友聖は早々にベッドに入って眠ってしまった。