目覚めたら傍にいて
「じゃあ、先に上がるぞ」
気がつけば金曜の終業間際だった。
「今週もお疲れさん。抱えている仕事はないな?」
「はい。軽く掃除したら俺も帰りますので」
総務の進捗管理表に印鑑を押してくれる広瀬に笑顔で応じた。今週も仕事の予定は全て熟すことができた。印鑑が欠けなく縦一列に並んでいる管理表を見ると、今週もよく頑張ったという満足感が湧く。総務部員の細やかな幸せだ。
「今週も色々と任せきりで悪かったな。辛くなったたまには怒れよ。高月は優しいから、俺もつい甘えてしまって」
「いえ。もう新入社員でもないし、広瀬さんが経理で忙しく働いていることも知っていますから。今日、奥さんとディナーなんでしょう? 早く帰らないと」
数日前の彼の話を思い出して言ってみる。
「部下が生意気なことを言うようになったな。もう嫁も高月の名前はしっかり覚えているんだ。嫁孝行できるのが優秀な部下さんのお陰なら、そのうち菓子折りでも持っていかなきゃなんて言い出しているから、そのときは受け取ってくれよ」
「楽しみにしています」
そんなやりとりをして広瀬が帰っていく。
狙ったように急ぎの仕事が持ち込まれたのは、彼の姿が見えなくなってすぐだった。
「悪い、高月」
書類を差し出して詫びてくるのは、営業部の槻原という社員だ。友聖より少しだけ先輩で、新人の教育係を任されることも多い。
「……月曜からですか」
「ああ、悪い。取引先とのトラブルに気を取られてすっかり忘れていて」
どうやら狙ったようにではなく、本当に広瀬が帰るタイミングを狙って友聖のところに来たらしい。広瀬は締めるところは締める上司だから、叱られたくないという気持ちは分からないでもない。ミスをしたときにはしっかり叱られておいた方がいいと思うが、偉そうにそんなことを言える立場ではないし、言ったところで目の前の仕事が消えてなくなる訳でもない。
「分かりました。手配しておきます。間に合わない手続きもあると思いますが」
「いいんだ。できることからゆっくり教えていくから。それで、悪いんだけど、今日は早く帰らないとカミさんに怒られるんだ。任せて悪いけど先に上がってもいいかな?」
「どうぞ。家庭は円満の方がいいですからね」
達観の境地で答える。総務の仕事は一見誰にでもできるように見えて、実はミスの許されない経験のいる仕事だ。彼が一緒に残ってくれたとしても、できることはほとんどない。
「流石、優しいな高月は。これお礼。じゃあな」
そう言って友聖のデスクに缶コーヒーを一本置いて、彼は手を振って帰っていった。
「紅茶の方が好きなんだけどな」
さして不満でもなく呟いて笑う。一口いただいてから、頭の中でやるべきことをリスト化した。
槻原は本社から移動してくる新人の移動日が一週間早まったという報告を忘れていた。同じ会社内の移動だから手続きもそれほど難しくないと思ったのかもしれないが、実はそうでもないのだ。このビルで仕事をするためのIDカードの準備や、館内規則の説明書の準備、それに部署内のパソコンを使えるようにするためのパスワードの申請もしなければならない。新人が来るときには配属部署より先に総務に伝えてほしいと何度か言っているのだが、総務部の切実さというのはなかなか理解してもらえない。
「ID関係はダメか」
時計を見れば六時を過ぎていて、この時間からの申請は無理だった。となると月曜は一旦ゲストカードで過ごしてもらうことになる。帰るつもりで施錠確認していた総務部の保管庫をもう一度開けて、出してきた予備のカードをパソコンに通して使えるようにする。月曜の朝すぐに渡せるように、館内規則の書類と、食堂や電子マネーの案内もコピーして纏めておく。
渡された書類に目を遣れば既に営業部でのデスクは決まっていたので、そこまでする必要はないと思いながら、簡単にデスクの掃除をして、パソコンの配線の確認もしておいた。
月曜は早めに出社してIDの申請をしなければいけない。そう思いながらもう一度保管庫を施錠して、パソコンの電源を落とす。見回せば友聖が最後になっていて、明かりを全て消して漸くオフィスを出た。いつもの正面エントランスはもう使えない時間で、裏口からビルを出るときに、守衛室の男性にお疲れさまですと声を掛けられる。こちらも挨拶を返して建物を出たところで漸く肩の力が抜けた。
広瀬は予定通り奥さんとレストランで、槻原も家族と仲よく過ごしているだろう。それでいい。自分は遅くなろうと怒られる相手もいないのだから問題ない。別に自棄になるでもなくそんな風に思って、駅までの路を帰ることにする。
ゴミ一つ落ちていないアスファルトと等間隔の街路樹は、友聖のお気に入りだった。ビルの敷地を抜けてもう少し歩けば駅前の喧騒に包まれるが、それはそれで華やかでいい。その大きなターミナル駅から、電車を三本乗り継いで家まで帰る。
帰りの電車は三本とも座席が空いていなくて、吊革を掴んで窓の外の景色を眺めながらぼんやりと過ごした。電車から見えるビルの明かりや、たまに見える月明かりが好きだ。総務部員に移動はないから、本当はもっと会社の近くに引っ越してもいいのだが、実はこの通勤ルートが気に入っているから、毎日一時間弱掛けて通っていたりする。もう何も考えなくとも身体が勝手に動いて乗り換えできてしまう三つの駅。横目で見るだけで心が華やぐスイーツ店。ぼんやり過ごせる車内。徒歩通勤できる便利さよりも、友聖にはこんな時間が必要だった。
仕事にもお金にも住む場所にも困っていない。時々お酒を飲んだり、本を読んだりする楽しみもある。料理も好きで趣味みたいなものだ。だが好きなものに囲まれた幸せな生活なのに、窓の外のビルの明かりが途切れた瞬間、ふと寂しくなったりする。何かが足りない。けれど自分はそれを求めていい男ではないと思う。だから別にこのままでいい。
予定外の残業に疲れたのか、なんだかしんみりとした気分で自宅最寄り駅に着いたのは八時過ぎだった。ビール缶の六本パックが欲しくなって、いつものコンビニに寄ることにする。近くのスーパーはまだ開いているし、コンビニを使えば高くつくことは分かっている。だが疲れた夜は、細かい損得を考えずにコンビニで買いものをするのが友聖のストレス発散法だった。呆れるほど細やかな方法だと思うから、誰かに話したことはないのだけれど。
「いらっしゃいませ」
馴染みの店員がマニュアルの挨拶をよこした後で、友聖に気づいてこんばんはと笑いかけてきた。
「こんばんは」
「残業ですか」
「うん。帰り際に急遽の残業」
「お疲れさまです」
そんなやりとりをすれば、ふっと肩の力が抜ける。就職してから七年近く同じマンションに住んでいるので、友聖はすっかりこのコンビニの顔馴染みになっていた。特に夜の時間に会うことの多い彼──ネームプレートから紺野 という名字だけは知っている──は、友聖が就職した頃には既にこのコンビニで働いていて、今では世間話をする仲になっている。最初は学生のアルバイトかと思ったが、これほど長い期間いるのを見ると社員なのかもしれない。人懐っこい笑顔と、小さな自己主張のような左耳のピアスが微笑ましい。だが仕事の手際は確かで、弟のように好ましく思っている。
「いらっしゃいませ」
また別の客が入ってきた。
さっさと買いものを済ませて帰ろう。そう思って飲料売場に向かい、冷蔵庫のドアに手を掛ける。そこで後ろから肩を叩かれた。
「高月さん」
「佐々木さん」
振り向けばそこに、最後に会ってからまだ二日しか経っていない男がにこやかに笑って立っていた。
「偶然ですね」
「いや偶然じゃないでしょう?」
それぞれ会計を済ませて店を出ながら、呆れ気味に言い返す。いいと言うのに佐々木が送ると言って聞かないから、家まで並んで歩く羽目になっている。
「偶然ですよ。高月さんが今どこにいるのか、分単位で調べ上げている訳ではないですから」
「ふぅん」
佐々木の言う護衛というものがどんな仕事なのか、友聖にはやっぱりよく分からなかった。とりあえず、ドラマで見るSPのように一日中張りついている訳ではないらしい。
「そういえば佐々木さん、甘いものが好きなんですね」
仕事に関しては答えてくれないだろうと思ったから、別のことを聞いてみた。コンビニで、彼は意外にも小さな缶入りのチョコレートを買ったのだ。
「手っ取り早い糖分補給です。糖分が不足すると頭が働かないので。まぁ、単に好きだからというのもあるんですけど」
「意外」
思わず零れた。昼食のメニューといい、彼のクールな容姿に似合わない好みには驚かされる。加えて、なんとなく自分とは違う人種だと思っていた彼に、少しだけ親近感を持ってしまう。
だがそこでふとあることに気づいた。手っ取り早い糖分補給、ということは、彼はきちんと食事をしていないのではないだろうか。
「あの、佐々木さん、もしよければ……」
言いかけたところで佐々木の携帯が鳴った。すみませんと詫びて、彼が通話ボタンに触れる。
「何かありましたか? ……ええ。こちらは問題なく進んでいますよ」
一瞬、彼が今まで見せたことのない厳しい表情を見せるから、足を止めたまま見つめてしまった。
「大丈夫です。では少し話しましょうか」
彼の表情が解けて、口調も柔らかいものに戻る。
「分かりました。すぐに伺いますので」
それでは後ほど、と彼が通話を終えてしまう。
「こんな時間に仕事ですか? あ、すみません。詮索するつもりはないんですけど」
つい余計なことを聞いてしまって詫びた。
「いえ。聞かれて困ることではありませんので。知り合いの会社の資金管理を任されていて、その電話だったんですよ」
佐々木は特に嫌な顔をすることもなく答えてくれた。仕事に向かわなくていいのだろうかと心配しながら、また歩き出した彼の隣を部屋まで帰っていく。
「事業を拡大したいらしくて、色々と相談を受けているんです。彼の仕事が終わってからになるので、電話もこんな時間になってしまって」
「資金管理? 事業拡大?」
出てきた単語に首を傾げた。知り合いと言っても、一経営者が探偵に任せるような仕事ではないと思う。
「どうかしました?」
佐々木が不思議そうに友聖の顔を見下ろし、それから、ああ、言っていませんでしたねと胸ポケットから名刺を取り出す。
「副業の名刺です」
「弁護士 佐々木雅紀……って、弁護士!?」
先日とは違う名刺の文字に、思わず声が上がった。
「ええ」
なんでもないことのように答えて微笑む彼が、また一瞬で遠い存在になる。相当な切れ者だろうと感じてはいたが、まさか弁護士だとは思わなかった。しかもそれが副業だとは。やはり彼は自分のような一般人の理解を超えている。
「その名刺に事務所の住所が書いてあるので、今度遊びに来てくださいね。探偵業の名刺には、念のため住所を載せていないので」
友聖の驚きを余所に、彼はそんな呑気なことを言う。そうこうするうちにマンション前に到着してしまった。
「では、今夜はこれで。きちんと戸締まりをしてくださいね」
「これから仕事に向かうんですよね?」
またつい聞いてしまう。
「はい、色々と見せてもらいたい資料もあるので、直接彼の会社に向かいます」
「すみません。俺なんかが時間を取ってしまって」
つい謝っていた。こちらが頼んだ訳ではないが、家まで送らせてしまったことが申し訳なくなった。自分もいい大人の男性だ。多忙なら貴重な時間を使ってもらわなくてもよかったのにと、そう思ってしまう。
佐々木が珍しく慌てる様子を見せる。
「どうして高月さんが謝るんです? あなたの護衛もきちんと依頼を受けた仕事ですし、それに」
一度言葉を止めた彼が悪戯っぽく笑う。
「実は今のこれも護衛ではないんです。単に高月さんとお話したくて、ついてきただけなんですよ」
「どういうことですか?」
彼は先日もこれは護衛ではないと言った。一体どんな場合に『護衛』が当てはまるのか分からない。だが佐々木は、まぁ、それは追い追いと言ってはぐらかし、そういえばと、逆に友聖に聞いてきた。
「さっき僕が電話に出る前に、何か言いかけませんでした?」
「え? ああ」
すぐに思い出したが、正直に話すかどうか迷った。さっきはなんでもないことのように口にしそうになったが、今考えれば余計なお世話かもしれない。それに彼はまだ知り合ったばかりの人間なのだ。
「いえ、いいです。大したことじゃなかったし」
「そう言われると気になりますね。話してくださいよ」
迫られてますます言いづらくなる。
「佐々木さん、仕事に行くんでしょう? 早く行かないと」
「高月さんが話してくれないと、気になって仕事になんて行けませんよ」
話を切り上げて見送ろうとする友聖に、佐々木が楽しげに食い下がる。こんなところも、クールな容姿とのギャップだと思う。
「ほんとにたいしたことじゃなくて」
「構いませんよ。僕は何を聞いても驚きませんから」
ね、と顔を覗き込まれて、結局は降参する羽目になった。
「佐々木さん、チョコで糖分補給って言ったでしょう? ちゃんとご飯を食べないんじゃないかと思って。だから、よければうちでご飯を食べていきませんかって言おうと思ったんだ」
「え……」
流石の彼にも予想外の台詞だったらしい。動きを止めたまま見つめられて、居心地が悪くなる。
「あの、すみません。ちょっと距離感がおかしかったですよね。別に深い意味はなくて、その……っ」
言い訳を並べ始めたところで、突然身体が前に倒れた。なんだ? と思ったときには、腕を引かれて彼の腕の中に収まっている。
「佐々木さん?」
背中に体温が伝わり、彼のふわりとしたいい香りに包まれる。香水だろうかと思ったところで更に強く抱きしめられる。同性にそうされることなどもちろん初めてで、ただ彼の腕の力強さを感じている。
「……!」
そこで漸く事の異常さに気づいた。途端に頬に血が上って、慌てて彼の胸を押し返す。
「何するんですか!」
「すみません。高月さんがあまりにも可愛らしいことを言うもので」
「馬鹿にしているんですか?」
治まらない鼓動を悟られないよう、目一杯不機嫌に返す。
「僕の素直な気持ちですよ」
それでも返ってくるのはまっすぐな言葉で、こちらを見つめる彼の様子に、胸に疼くような、落ち着かないような、よく分からない感覚が湧いてしまった。これだから綺麗な人間相手は困るのだ。
「高月さんは優しいですね」
彼にいつもの微笑みが戻れば、胸に少しだけ力を籠めて握られたような痛みが走る。痛いのに不快ではない不思議な感覚。そんなもの、もうずっと忘れていた。
「別に、ただちょっと思いついただけで。たいしたものを作れる訳でもないし。でも、チョコがご飯はよくないし」
最早自分でも何を言っているのか分からない。それでも、佐々木は満足げな顔で聞いてくれる。
「高月さんがご飯を作ってくれるなら、打ち合わせなんてキャンセルしようかな」
聞き終えればそんなことを言い出した
「ダメですって。知り合いが待っているんでしょう?」
「高月さんに較べたら優先順位は低いですから」
「弁護士が訳の分からないことを言わない!」
一通り言い合って、彼は漸く諦めてくれた。また会いに来ますと告げて、そこで思い出したように鞄から何かを取り出す。
「僕としたことが、高月さんと会えただけで嬉しくて忘れていました」
ご丁寧に友聖を口説くようなことを言い、手のひらサイズのゴムボールのようなものを差し出してきた。
「差し上げます。店で目にしたら、どうしても高月さんにあげたくなって」
よく見れば、ボールには小さな目とくちばしが描かれている。暗がりに慣れてきた目で、どうやら水色のひよこらしいと知る。
「ストレス解消グッズです。握ってもいいし、壁に投げつけてもいい。感触が独特でしょう?」
言われて握ってみれば、確かに柔らかな感触の虜になりそうだった。潰れて戻る弾力が心地よくて、何度も握っては緩めるを繰り返す。ひよこは潰れるが、それはそれで可愛らしい顔になる。
「どうして俺にこれを?」
「だって少し高月さんに似ていません?」
ふふと笑って言われた台詞には複雑な気分になった。ひよこに似ているというのは、はたして成人男性にとって褒め言葉だろうか。でも不思議と嫌な気分はせず、逆に心に温かなものがやってくる。
「僕の代わりに部屋に置いてあげてください」
「……ありがとうございます」
彼の代わり、というのはおかしな台詞だが、とりあえず邪気のない贈りものらしいと分かって礼を言った。握るたびに表情を変えるひよこに、イレギュラーの残業の疲れも消えていく。
「では、またお会いできるのを楽しみにしています」
そう言って漸く去っていく彼の背から目が離せなくて、姿が消えれば今度は玄関先でひよこを見つめていた。
よく分からない男にペースを乱されっぱなしだ。だがそれが嫌かと言われればそうでもなくて、それどころかずっと忘れていた種類の高揚感に浸っている。部屋に入って部屋着に着替えながらも、思考はなかなか彼から離れてくれない。
『高月さんは優しいですね』
彼の腕の感触が甦れば頬に血が上った。突き詰めればなんだかとても面倒なことになりそうで困ってしまう。
もう、考えるのはよそう。
頭から彼の姿を追い出し、キッチンに向かって簡単な夕食の支度を始めた。食べておかなければ身体に障る。友聖の身体は食生活の乱れや睡眠不足ですぐに崩れてしまう。そんな身体と上手く付き合うために、食材は大抵バランスよくストックしている。事情があって中学生の頃から始めた料理も、今ではそれなりの腕前なのだ。そんな友聖にとって、知人に食事を作ることなどたいしたことではなかったのだが、普通は男性が男性に手料理を勧めたりしないのだろう。
だがチョコレートで糖分補給をして何時まで働くつもりなのだろうと考えてしまう。弁護士兼探偵では忙しくて仕方がないのかもしれないけれど。
そこではたと気がつく。よそうと思った筈が、また彼のことを考えている。どうにも彼のことが頭から離れない。
置き時計に目を遣れば十時近くになっていた。食べてしまって、お風呂に入って寝よう。いや、その前に少し飲む予定だった。雑念を払うように料理を終えて、キッチンテーブルで一人箸を動かし、片付けて入浴も済ませる。
結局飲む気分ではなくなったからすぐに寝ようと思ったのに、髪を乾かし終えたところでベッドに投げ出してあった携帯が音を立てた。もう、なんとなく相手が予想できてしまう。一体、彼はこの短期間で何度自分と接触するつもりなのだろう。呆れながらも、鳴り続ける電話を手に取ってしまう。
「先程はどうも」
通話ボタンに触れれば、やはり彼の声が耳に届いた。
「今度はどうしたんですか?」
後ろに人のざわめきや車の音が聞こえるから、外から掛けているのだろう。打ち合わせは終わったのだろうかと耳を澄ませる友聖に、彼がさらりと言う。
「高月さんの声が聞きたくて」
「……用がないなら切ります」
「あ、待って下さい」
ふふと笑う彼に引き止められる。
「本当に、高月さんの声が好きなんですよ」
そう言われて困ってしまう。一体、彼は自分をどうしたいのだろう。なんとなくベッドの傍に連れてきていた例のひよこをぎゅっと握れば、ひよこも少し困った顔になる。キャパオーバー気味の思考で黙ってそれを見つめていれば、少しだけ慌てた声が届いた。
「すみません。気を悪くしたのなら謝ります」
「いえ。そういう訳では、ないんですけど」
はっきりしない言い方だったが、それでも佐々木はよかった、と返してくれる。
「仕事に好き嫌いを持ち込んではいけないのですが。でも、護衛の対象が高月さんでよかったと思いました。それだけ伝えたくて」
もう、なんと答えていいか分からない。
「お休みなさい」
「……お休みなさい」
まだ帰れない彼に悪いような気もしたが、他に返す言葉が見つからなくてそう言った。
「事務所に遊びに来てくださいね。待っていますから」
「はい。休みの日にでも」
これは遅くまで仕事をする彼へのサービスだ。そう思いながら電話を終えた。
もうしまうのも面倒で、枕元のひよこと一緒に眠りに就くことになった。
気がつけば金曜の終業間際だった。
「今週もお疲れさん。抱えている仕事はないな?」
「はい。軽く掃除したら俺も帰りますので」
総務の進捗管理表に印鑑を押してくれる広瀬に笑顔で応じた。今週も仕事の予定は全て熟すことができた。印鑑が欠けなく縦一列に並んでいる管理表を見ると、今週もよく頑張ったという満足感が湧く。総務部員の細やかな幸せだ。
「今週も色々と任せきりで悪かったな。辛くなったたまには怒れよ。高月は優しいから、俺もつい甘えてしまって」
「いえ。もう新入社員でもないし、広瀬さんが経理で忙しく働いていることも知っていますから。今日、奥さんとディナーなんでしょう? 早く帰らないと」
数日前の彼の話を思い出して言ってみる。
「部下が生意気なことを言うようになったな。もう嫁も高月の名前はしっかり覚えているんだ。嫁孝行できるのが優秀な部下さんのお陰なら、そのうち菓子折りでも持っていかなきゃなんて言い出しているから、そのときは受け取ってくれよ」
「楽しみにしています」
そんなやりとりをして広瀬が帰っていく。
狙ったように急ぎの仕事が持ち込まれたのは、彼の姿が見えなくなってすぐだった。
「悪い、高月」
書類を差し出して詫びてくるのは、営業部の槻原という社員だ。友聖より少しだけ先輩で、新人の教育係を任されることも多い。
「……月曜からですか」
「ああ、悪い。取引先とのトラブルに気を取られてすっかり忘れていて」
どうやら狙ったようにではなく、本当に広瀬が帰るタイミングを狙って友聖のところに来たらしい。広瀬は締めるところは締める上司だから、叱られたくないという気持ちは分からないでもない。ミスをしたときにはしっかり叱られておいた方がいいと思うが、偉そうにそんなことを言える立場ではないし、言ったところで目の前の仕事が消えてなくなる訳でもない。
「分かりました。手配しておきます。間に合わない手続きもあると思いますが」
「いいんだ。できることからゆっくり教えていくから。それで、悪いんだけど、今日は早く帰らないとカミさんに怒られるんだ。任せて悪いけど先に上がってもいいかな?」
「どうぞ。家庭は円満の方がいいですからね」
達観の境地で答える。総務の仕事は一見誰にでもできるように見えて、実はミスの許されない経験のいる仕事だ。彼が一緒に残ってくれたとしても、できることはほとんどない。
「流石、優しいな高月は。これお礼。じゃあな」
そう言って友聖のデスクに缶コーヒーを一本置いて、彼は手を振って帰っていった。
「紅茶の方が好きなんだけどな」
さして不満でもなく呟いて笑う。一口いただいてから、頭の中でやるべきことをリスト化した。
槻原は本社から移動してくる新人の移動日が一週間早まったという報告を忘れていた。同じ会社内の移動だから手続きもそれほど難しくないと思ったのかもしれないが、実はそうでもないのだ。このビルで仕事をするためのIDカードの準備や、館内規則の説明書の準備、それに部署内のパソコンを使えるようにするためのパスワードの申請もしなければならない。新人が来るときには配属部署より先に総務に伝えてほしいと何度か言っているのだが、総務部の切実さというのはなかなか理解してもらえない。
「ID関係はダメか」
時計を見れば六時を過ぎていて、この時間からの申請は無理だった。となると月曜は一旦ゲストカードで過ごしてもらうことになる。帰るつもりで施錠確認していた総務部の保管庫をもう一度開けて、出してきた予備のカードをパソコンに通して使えるようにする。月曜の朝すぐに渡せるように、館内規則の書類と、食堂や電子マネーの案内もコピーして纏めておく。
渡された書類に目を遣れば既に営業部でのデスクは決まっていたので、そこまでする必要はないと思いながら、簡単にデスクの掃除をして、パソコンの配線の確認もしておいた。
月曜は早めに出社してIDの申請をしなければいけない。そう思いながらもう一度保管庫を施錠して、パソコンの電源を落とす。見回せば友聖が最後になっていて、明かりを全て消して漸くオフィスを出た。いつもの正面エントランスはもう使えない時間で、裏口からビルを出るときに、守衛室の男性にお疲れさまですと声を掛けられる。こちらも挨拶を返して建物を出たところで漸く肩の力が抜けた。
広瀬は予定通り奥さんとレストランで、槻原も家族と仲よく過ごしているだろう。それでいい。自分は遅くなろうと怒られる相手もいないのだから問題ない。別に自棄になるでもなくそんな風に思って、駅までの路を帰ることにする。
ゴミ一つ落ちていないアスファルトと等間隔の街路樹は、友聖のお気に入りだった。ビルの敷地を抜けてもう少し歩けば駅前の喧騒に包まれるが、それはそれで華やかでいい。その大きなターミナル駅から、電車を三本乗り継いで家まで帰る。
帰りの電車は三本とも座席が空いていなくて、吊革を掴んで窓の外の景色を眺めながらぼんやりと過ごした。電車から見えるビルの明かりや、たまに見える月明かりが好きだ。総務部員に移動はないから、本当はもっと会社の近くに引っ越してもいいのだが、実はこの通勤ルートが気に入っているから、毎日一時間弱掛けて通っていたりする。もう何も考えなくとも身体が勝手に動いて乗り換えできてしまう三つの駅。横目で見るだけで心が華やぐスイーツ店。ぼんやり過ごせる車内。徒歩通勤できる便利さよりも、友聖にはこんな時間が必要だった。
仕事にもお金にも住む場所にも困っていない。時々お酒を飲んだり、本を読んだりする楽しみもある。料理も好きで趣味みたいなものだ。だが好きなものに囲まれた幸せな生活なのに、窓の外のビルの明かりが途切れた瞬間、ふと寂しくなったりする。何かが足りない。けれど自分はそれを求めていい男ではないと思う。だから別にこのままでいい。
予定外の残業に疲れたのか、なんだかしんみりとした気分で自宅最寄り駅に着いたのは八時過ぎだった。ビール缶の六本パックが欲しくなって、いつものコンビニに寄ることにする。近くのスーパーはまだ開いているし、コンビニを使えば高くつくことは分かっている。だが疲れた夜は、細かい損得を考えずにコンビニで買いものをするのが友聖のストレス発散法だった。呆れるほど細やかな方法だと思うから、誰かに話したことはないのだけれど。
「いらっしゃいませ」
馴染みの店員がマニュアルの挨拶をよこした後で、友聖に気づいてこんばんはと笑いかけてきた。
「こんばんは」
「残業ですか」
「うん。帰り際に急遽の残業」
「お疲れさまです」
そんなやりとりをすれば、ふっと肩の力が抜ける。就職してから七年近く同じマンションに住んでいるので、友聖はすっかりこのコンビニの顔馴染みになっていた。特に夜の時間に会うことの多い彼──ネームプレートから
「いらっしゃいませ」
また別の客が入ってきた。
さっさと買いものを済ませて帰ろう。そう思って飲料売場に向かい、冷蔵庫のドアに手を掛ける。そこで後ろから肩を叩かれた。
「高月さん」
「佐々木さん」
振り向けばそこに、最後に会ってからまだ二日しか経っていない男がにこやかに笑って立っていた。
「偶然ですね」
「いや偶然じゃないでしょう?」
それぞれ会計を済ませて店を出ながら、呆れ気味に言い返す。いいと言うのに佐々木が送ると言って聞かないから、家まで並んで歩く羽目になっている。
「偶然ですよ。高月さんが今どこにいるのか、分単位で調べ上げている訳ではないですから」
「ふぅん」
佐々木の言う護衛というものがどんな仕事なのか、友聖にはやっぱりよく分からなかった。とりあえず、ドラマで見るSPのように一日中張りついている訳ではないらしい。
「そういえば佐々木さん、甘いものが好きなんですね」
仕事に関しては答えてくれないだろうと思ったから、別のことを聞いてみた。コンビニで、彼は意外にも小さな缶入りのチョコレートを買ったのだ。
「手っ取り早い糖分補給です。糖分が不足すると頭が働かないので。まぁ、単に好きだからというのもあるんですけど」
「意外」
思わず零れた。昼食のメニューといい、彼のクールな容姿に似合わない好みには驚かされる。加えて、なんとなく自分とは違う人種だと思っていた彼に、少しだけ親近感を持ってしまう。
だがそこでふとあることに気づいた。手っ取り早い糖分補給、ということは、彼はきちんと食事をしていないのではないだろうか。
「あの、佐々木さん、もしよければ……」
言いかけたところで佐々木の携帯が鳴った。すみませんと詫びて、彼が通話ボタンに触れる。
「何かありましたか? ……ええ。こちらは問題なく進んでいますよ」
一瞬、彼が今まで見せたことのない厳しい表情を見せるから、足を止めたまま見つめてしまった。
「大丈夫です。では少し話しましょうか」
彼の表情が解けて、口調も柔らかいものに戻る。
「分かりました。すぐに伺いますので」
それでは後ほど、と彼が通話を終えてしまう。
「こんな時間に仕事ですか? あ、すみません。詮索するつもりはないんですけど」
つい余計なことを聞いてしまって詫びた。
「いえ。聞かれて困ることではありませんので。知り合いの会社の資金管理を任されていて、その電話だったんですよ」
佐々木は特に嫌な顔をすることもなく答えてくれた。仕事に向かわなくていいのだろうかと心配しながら、また歩き出した彼の隣を部屋まで帰っていく。
「事業を拡大したいらしくて、色々と相談を受けているんです。彼の仕事が終わってからになるので、電話もこんな時間になってしまって」
「資金管理? 事業拡大?」
出てきた単語に首を傾げた。知り合いと言っても、一経営者が探偵に任せるような仕事ではないと思う。
「どうかしました?」
佐々木が不思議そうに友聖の顔を見下ろし、それから、ああ、言っていませんでしたねと胸ポケットから名刺を取り出す。
「副業の名刺です」
「弁護士 佐々木雅紀……って、弁護士!?」
先日とは違う名刺の文字に、思わず声が上がった。
「ええ」
なんでもないことのように答えて微笑む彼が、また一瞬で遠い存在になる。相当な切れ者だろうと感じてはいたが、まさか弁護士だとは思わなかった。しかもそれが副業だとは。やはり彼は自分のような一般人の理解を超えている。
「その名刺に事務所の住所が書いてあるので、今度遊びに来てくださいね。探偵業の名刺には、念のため住所を載せていないので」
友聖の驚きを余所に、彼はそんな呑気なことを言う。そうこうするうちにマンション前に到着してしまった。
「では、今夜はこれで。きちんと戸締まりをしてくださいね」
「これから仕事に向かうんですよね?」
またつい聞いてしまう。
「はい、色々と見せてもらいたい資料もあるので、直接彼の会社に向かいます」
「すみません。俺なんかが時間を取ってしまって」
つい謝っていた。こちらが頼んだ訳ではないが、家まで送らせてしまったことが申し訳なくなった。自分もいい大人の男性だ。多忙なら貴重な時間を使ってもらわなくてもよかったのにと、そう思ってしまう。
佐々木が珍しく慌てる様子を見せる。
「どうして高月さんが謝るんです? あなたの護衛もきちんと依頼を受けた仕事ですし、それに」
一度言葉を止めた彼が悪戯っぽく笑う。
「実は今のこれも護衛ではないんです。単に高月さんとお話したくて、ついてきただけなんですよ」
「どういうことですか?」
彼は先日もこれは護衛ではないと言った。一体どんな場合に『護衛』が当てはまるのか分からない。だが佐々木は、まぁ、それは追い追いと言ってはぐらかし、そういえばと、逆に友聖に聞いてきた。
「さっき僕が電話に出る前に、何か言いかけませんでした?」
「え? ああ」
すぐに思い出したが、正直に話すかどうか迷った。さっきはなんでもないことのように口にしそうになったが、今考えれば余計なお世話かもしれない。それに彼はまだ知り合ったばかりの人間なのだ。
「いえ、いいです。大したことじゃなかったし」
「そう言われると気になりますね。話してくださいよ」
迫られてますます言いづらくなる。
「佐々木さん、仕事に行くんでしょう? 早く行かないと」
「高月さんが話してくれないと、気になって仕事になんて行けませんよ」
話を切り上げて見送ろうとする友聖に、佐々木が楽しげに食い下がる。こんなところも、クールな容姿とのギャップだと思う。
「ほんとにたいしたことじゃなくて」
「構いませんよ。僕は何を聞いても驚きませんから」
ね、と顔を覗き込まれて、結局は降参する羽目になった。
「佐々木さん、チョコで糖分補給って言ったでしょう? ちゃんとご飯を食べないんじゃないかと思って。だから、よければうちでご飯を食べていきませんかって言おうと思ったんだ」
「え……」
流石の彼にも予想外の台詞だったらしい。動きを止めたまま見つめられて、居心地が悪くなる。
「あの、すみません。ちょっと距離感がおかしかったですよね。別に深い意味はなくて、その……っ」
言い訳を並べ始めたところで、突然身体が前に倒れた。なんだ? と思ったときには、腕を引かれて彼の腕の中に収まっている。
「佐々木さん?」
背中に体温が伝わり、彼のふわりとしたいい香りに包まれる。香水だろうかと思ったところで更に強く抱きしめられる。同性にそうされることなどもちろん初めてで、ただ彼の腕の力強さを感じている。
「……!」
そこで漸く事の異常さに気づいた。途端に頬に血が上って、慌てて彼の胸を押し返す。
「何するんですか!」
「すみません。高月さんがあまりにも可愛らしいことを言うもので」
「馬鹿にしているんですか?」
治まらない鼓動を悟られないよう、目一杯不機嫌に返す。
「僕の素直な気持ちですよ」
それでも返ってくるのはまっすぐな言葉で、こちらを見つめる彼の様子に、胸に疼くような、落ち着かないような、よく分からない感覚が湧いてしまった。これだから綺麗な人間相手は困るのだ。
「高月さんは優しいですね」
彼にいつもの微笑みが戻れば、胸に少しだけ力を籠めて握られたような痛みが走る。痛いのに不快ではない不思議な感覚。そんなもの、もうずっと忘れていた。
「別に、ただちょっと思いついただけで。たいしたものを作れる訳でもないし。でも、チョコがご飯はよくないし」
最早自分でも何を言っているのか分からない。それでも、佐々木は満足げな顔で聞いてくれる。
「高月さんがご飯を作ってくれるなら、打ち合わせなんてキャンセルしようかな」
聞き終えればそんなことを言い出した
「ダメですって。知り合いが待っているんでしょう?」
「高月さんに較べたら優先順位は低いですから」
「弁護士が訳の分からないことを言わない!」
一通り言い合って、彼は漸く諦めてくれた。また会いに来ますと告げて、そこで思い出したように鞄から何かを取り出す。
「僕としたことが、高月さんと会えただけで嬉しくて忘れていました」
ご丁寧に友聖を口説くようなことを言い、手のひらサイズのゴムボールのようなものを差し出してきた。
「差し上げます。店で目にしたら、どうしても高月さんにあげたくなって」
よく見れば、ボールには小さな目とくちばしが描かれている。暗がりに慣れてきた目で、どうやら水色のひよこらしいと知る。
「ストレス解消グッズです。握ってもいいし、壁に投げつけてもいい。感触が独特でしょう?」
言われて握ってみれば、確かに柔らかな感触の虜になりそうだった。潰れて戻る弾力が心地よくて、何度も握っては緩めるを繰り返す。ひよこは潰れるが、それはそれで可愛らしい顔になる。
「どうして俺にこれを?」
「だって少し高月さんに似ていません?」
ふふと笑って言われた台詞には複雑な気分になった。ひよこに似ているというのは、はたして成人男性にとって褒め言葉だろうか。でも不思議と嫌な気分はせず、逆に心に温かなものがやってくる。
「僕の代わりに部屋に置いてあげてください」
「……ありがとうございます」
彼の代わり、というのはおかしな台詞だが、とりあえず邪気のない贈りものらしいと分かって礼を言った。握るたびに表情を変えるひよこに、イレギュラーの残業の疲れも消えていく。
「では、またお会いできるのを楽しみにしています」
そう言って漸く去っていく彼の背から目が離せなくて、姿が消えれば今度は玄関先でひよこを見つめていた。
よく分からない男にペースを乱されっぱなしだ。だがそれが嫌かと言われればそうでもなくて、それどころかずっと忘れていた種類の高揚感に浸っている。部屋に入って部屋着に着替えながらも、思考はなかなか彼から離れてくれない。
『高月さんは優しいですね』
彼の腕の感触が甦れば頬に血が上った。突き詰めればなんだかとても面倒なことになりそうで困ってしまう。
もう、考えるのはよそう。
頭から彼の姿を追い出し、キッチンに向かって簡単な夕食の支度を始めた。食べておかなければ身体に障る。友聖の身体は食生活の乱れや睡眠不足ですぐに崩れてしまう。そんな身体と上手く付き合うために、食材は大抵バランスよくストックしている。事情があって中学生の頃から始めた料理も、今ではそれなりの腕前なのだ。そんな友聖にとって、知人に食事を作ることなどたいしたことではなかったのだが、普通は男性が男性に手料理を勧めたりしないのだろう。
だがチョコレートで糖分補給をして何時まで働くつもりなのだろうと考えてしまう。弁護士兼探偵では忙しくて仕方がないのかもしれないけれど。
そこではたと気がつく。よそうと思った筈が、また彼のことを考えている。どうにも彼のことが頭から離れない。
置き時計に目を遣れば十時近くになっていた。食べてしまって、お風呂に入って寝よう。いや、その前に少し飲む予定だった。雑念を払うように料理を終えて、キッチンテーブルで一人箸を動かし、片付けて入浴も済ませる。
結局飲む気分ではなくなったからすぐに寝ようと思ったのに、髪を乾かし終えたところでベッドに投げ出してあった携帯が音を立てた。もう、なんとなく相手が予想できてしまう。一体、彼はこの短期間で何度自分と接触するつもりなのだろう。呆れながらも、鳴り続ける電話を手に取ってしまう。
「先程はどうも」
通話ボタンに触れれば、やはり彼の声が耳に届いた。
「今度はどうしたんですか?」
後ろに人のざわめきや車の音が聞こえるから、外から掛けているのだろう。打ち合わせは終わったのだろうかと耳を澄ませる友聖に、彼がさらりと言う。
「高月さんの声が聞きたくて」
「……用がないなら切ります」
「あ、待って下さい」
ふふと笑う彼に引き止められる。
「本当に、高月さんの声が好きなんですよ」
そう言われて困ってしまう。一体、彼は自分をどうしたいのだろう。なんとなくベッドの傍に連れてきていた例のひよこをぎゅっと握れば、ひよこも少し困った顔になる。キャパオーバー気味の思考で黙ってそれを見つめていれば、少しだけ慌てた声が届いた。
「すみません。気を悪くしたのなら謝ります」
「いえ。そういう訳では、ないんですけど」
はっきりしない言い方だったが、それでも佐々木はよかった、と返してくれる。
「仕事に好き嫌いを持ち込んではいけないのですが。でも、護衛の対象が高月さんでよかったと思いました。それだけ伝えたくて」
もう、なんと答えていいか分からない。
「お休みなさい」
「……お休みなさい」
まだ帰れない彼に悪いような気もしたが、他に返す言葉が見つからなくてそう言った。
「事務所に遊びに来てくださいね。待っていますから」
「はい。休みの日にでも」
これは遅くまで仕事をする彼へのサービスだ。そう思いながら電話を終えた。
もうしまうのも面倒で、枕元のひよこと一緒に眠りに就くことになった。