目覚めたら傍にいて
それから紺野はコンビニのバイトを辞めた。
彼は美大を卒業して、その後も独学で絵の勉強を続けていた人間だったらしい。今度新しくグラフィックデザインの勉強を始めるにあたり、その学校の近くに引っ越すのだという。引越し先の傍にも同じコンビニがあって、そこでまた働き始めたのだと三上が教えてくれた。彼ならそこでまたしっかりと働くだろう。
季節はすっかり秋に変わり、プロ野球のシーズンも終わり、友聖の周りに穏やかな日々が戻ってきた。
佐々木はあれから流石に新しい仕事を受けなければならなくなり、これまでのように毎日会うことはできなくなった。三上の話によれば、佐々木探偵事務所は業界内の評判もよく、依頼が途切れることがないのだそうだ。それでも週に一、二度は彼が友聖のマンションを訪れ、食事をして朝までを二人で過ごす。自分にはもったいないほど幸せな恋人生活だ。
あとはもう静かに年末を迎えるだけかと、幸せボケで気が早くそんなことを考えていて、十月後半うっかり風邪を拗らせて寝込んでしまった。
たいしたことはないというのに、佐々木が酷く心配して泊まり込みで看病をしてくれる。熱が下がってからはこちらの説得に譲歩してリビングにパソコンを持ち込んで仕事をしているが、寝室に顔を出す頻度からしてその進捗具合は怪しい。
そんな中、寝込んで三日目の日曜日に直哉が見舞いに訪れた。以前なら怯えてしまうシチュエーションだが、このところ佐々木のポジティブシンキングに当てられているせいか、穏やかな気持ちで迎えることができる。
「なんだ、元気そうじゃないか」
「そうだよ。雅……佐々木さんが大袈裟なんだよ」
直哉は躊躇いの欠片もなく寝室に入ってきて、昔と同じようにベッドの上の友聖の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「何を言っているんですか。一昨日の晩なんか死にかけていたでしょう?」
「そんなことないって」
リビングにいる佐々木とのやり取りを、直哉が笑って聞いている。
「そうだ。メロン買ってきたぞ。食べるか」
「うん。じゃあ食べようかな」
「じゃあ、僕が切りますね」
「いや、待って! 雅紀、大きい包丁なんて使えないでしょう?」
慌てて身体を起こす友聖を、直哉が苦笑しながらベッドに戻す。うっかり彼の前で雅紀と呼んでしまったことに気づいて、頬に血が上る。
「失礼な。包丁なんて縦に下ろせば切れるものでしょう?」
友聖の動揺など知らずに、彼のいつもながら小さなことには拘らない、朗らかな声が返ってくる。
「はい、どうぞ」
ベッドまで運ばれてきた、意外にも綺麗に切られたメロンを食べていれば、佐々木がさりげなく離れていく。その気遣いに感謝しながら、直哉とぽつぽつと言葉を交わす。
「仕事、どうだ?」
「順調だよ。職場もみんないい人たちだし」
「何か困ったことはないか?」
「ないって。兄さんこそ」
なんだか子どもの心配をされているようで、つい同じことを聞いてしまう。そんな友聖に直哉がふっと笑う。
「俺も順調だよ。年俸も上がりそうだしな」
「ほんと? 凄いね。今シーズン活躍したもんね」
「もう、家の一軒くらい買えそうだぞ」
「え……」
さらりと言われた言葉に、じっと彼を見つめてしまった。過去の様々な想いが一度に甦る。
「……って、少し遅かったみたいだけどな」
友聖の気持ちが分かったらしい。直哉が優しく目を細めて、声のボリュームを落として告げる。
「佐々木さんのこと、好きなんだろ?」
「……!!」
絶句してまた赤くなってしまった。確かに好きだが、それを直哉に聞かれればなんと答えていいのか分からない。
「顔は正直だな」
直哉の指が友聖の目に掛かった前髪を除けてくれる。つられて視線を戻せば、彼は変わらず優しく笑っている。
「別に隠すことじゃないだろ? 少なくても俺は偏見はないよ。まぁ、気づいたときには驚いたけどな」
「え、と」
「ゆう、幸せそうだもんな」
「うん」
そこは事実なので頷いて返す。
これまでも不自由なく暮らしてきたが、佐々木が現れてから世界が変わった。自分がなんとなく避けて心を閉ざしてきたことを打破するように、佐々木はさりげなく、恋愛に関しては超がつくほど強引に導いてくれる。導かれて進んでみて、今、その選択が間違いではなかったと心から思える。
「まぁ、佐々木さんが浮気でもしたら相談に乗るよ」
「浮気なんてしないって!」
つい本気で返してしまい、直哉がごめんごめんと笑う。
「可愛いなぁ、ゆうは」
「もう。からかわないでよ……っ」
そこでごほごほと咳込んでしまった。
「おっと、悪い。まだ安静にしていないとな」
友聖を寝かせ直して、直哉がそっと髪を撫でる。
「よくなったら、実家にも顔を出してよ。母さんも喜ぶから」
「うん」
ごく自然に頷いていた。今なら問題なく帰ることができそうな気がする。
「じゃあ、またな」
「うん。身体気をつけて」
寝込みながら言う台詞じゃないなと気づいたけれど、直哉はありがとうと笑ってベッドを離れた。その背中を幸せな気持ちで見送る。これからは、彼とも今までよりずっと気楽に会うことができる。そんなことを思いながら、次第にまた眠気に襲われていく。
薄れゆく意識の中で、ぼんやりと佐々木と直哉のやりとりを聞いた。
「友聖のこと、よろしくお願いします」
「ええ。命に代えても護りますから」
ああ、また佐々木が凄いことを言っている。小さく笑いながら、友聖は幸せな気持ちで眠りに落ちていく。
目覚めたらきっと、彼が傍にいてくれる──。
*END*
彼は美大を卒業して、その後も独学で絵の勉強を続けていた人間だったらしい。今度新しくグラフィックデザインの勉強を始めるにあたり、その学校の近くに引っ越すのだという。引越し先の傍にも同じコンビニがあって、そこでまた働き始めたのだと三上が教えてくれた。彼ならそこでまたしっかりと働くだろう。
季節はすっかり秋に変わり、プロ野球のシーズンも終わり、友聖の周りに穏やかな日々が戻ってきた。
佐々木はあれから流石に新しい仕事を受けなければならなくなり、これまでのように毎日会うことはできなくなった。三上の話によれば、佐々木探偵事務所は業界内の評判もよく、依頼が途切れることがないのだそうだ。それでも週に一、二度は彼が友聖のマンションを訪れ、食事をして朝までを二人で過ごす。自分にはもったいないほど幸せな恋人生活だ。
あとはもう静かに年末を迎えるだけかと、幸せボケで気が早くそんなことを考えていて、十月後半うっかり風邪を拗らせて寝込んでしまった。
たいしたことはないというのに、佐々木が酷く心配して泊まり込みで看病をしてくれる。熱が下がってからはこちらの説得に譲歩してリビングにパソコンを持ち込んで仕事をしているが、寝室に顔を出す頻度からしてその進捗具合は怪しい。
そんな中、寝込んで三日目の日曜日に直哉が見舞いに訪れた。以前なら怯えてしまうシチュエーションだが、このところ佐々木のポジティブシンキングに当てられているせいか、穏やかな気持ちで迎えることができる。
「なんだ、元気そうじゃないか」
「そうだよ。雅……佐々木さんが大袈裟なんだよ」
直哉は躊躇いの欠片もなく寝室に入ってきて、昔と同じようにベッドの上の友聖の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「何を言っているんですか。一昨日の晩なんか死にかけていたでしょう?」
「そんなことないって」
リビングにいる佐々木とのやり取りを、直哉が笑って聞いている。
「そうだ。メロン買ってきたぞ。食べるか」
「うん。じゃあ食べようかな」
「じゃあ、僕が切りますね」
「いや、待って! 雅紀、大きい包丁なんて使えないでしょう?」
慌てて身体を起こす友聖を、直哉が苦笑しながらベッドに戻す。うっかり彼の前で雅紀と呼んでしまったことに気づいて、頬に血が上る。
「失礼な。包丁なんて縦に下ろせば切れるものでしょう?」
友聖の動揺など知らずに、彼のいつもながら小さなことには拘らない、朗らかな声が返ってくる。
「はい、どうぞ」
ベッドまで運ばれてきた、意外にも綺麗に切られたメロンを食べていれば、佐々木がさりげなく離れていく。その気遣いに感謝しながら、直哉とぽつぽつと言葉を交わす。
「仕事、どうだ?」
「順調だよ。職場もみんないい人たちだし」
「何か困ったことはないか?」
「ないって。兄さんこそ」
なんだか子どもの心配をされているようで、つい同じことを聞いてしまう。そんな友聖に直哉がふっと笑う。
「俺も順調だよ。年俸も上がりそうだしな」
「ほんと? 凄いね。今シーズン活躍したもんね」
「もう、家の一軒くらい買えそうだぞ」
「え……」
さらりと言われた言葉に、じっと彼を見つめてしまった。過去の様々な想いが一度に甦る。
「……って、少し遅かったみたいだけどな」
友聖の気持ちが分かったらしい。直哉が優しく目を細めて、声のボリュームを落として告げる。
「佐々木さんのこと、好きなんだろ?」
「……!!」
絶句してまた赤くなってしまった。確かに好きだが、それを直哉に聞かれればなんと答えていいのか分からない。
「顔は正直だな」
直哉の指が友聖の目に掛かった前髪を除けてくれる。つられて視線を戻せば、彼は変わらず優しく笑っている。
「別に隠すことじゃないだろ? 少なくても俺は偏見はないよ。まぁ、気づいたときには驚いたけどな」
「え、と」
「ゆう、幸せそうだもんな」
「うん」
そこは事実なので頷いて返す。
これまでも不自由なく暮らしてきたが、佐々木が現れてから世界が変わった。自分がなんとなく避けて心を閉ざしてきたことを打破するように、佐々木はさりげなく、恋愛に関しては超がつくほど強引に導いてくれる。導かれて進んでみて、今、その選択が間違いではなかったと心から思える。
「まぁ、佐々木さんが浮気でもしたら相談に乗るよ」
「浮気なんてしないって!」
つい本気で返してしまい、直哉がごめんごめんと笑う。
「可愛いなぁ、ゆうは」
「もう。からかわないでよ……っ」
そこでごほごほと咳込んでしまった。
「おっと、悪い。まだ安静にしていないとな」
友聖を寝かせ直して、直哉がそっと髪を撫でる。
「よくなったら、実家にも顔を出してよ。母さんも喜ぶから」
「うん」
ごく自然に頷いていた。今なら問題なく帰ることができそうな気がする。
「じゃあ、またな」
「うん。身体気をつけて」
寝込みながら言う台詞じゃないなと気づいたけれど、直哉はありがとうと笑ってベッドを離れた。その背中を幸せな気持ちで見送る。これからは、彼とも今までよりずっと気楽に会うことができる。そんなことを思いながら、次第にまた眠気に襲われていく。
薄れゆく意識の中で、ぼんやりと佐々木と直哉のやりとりを聞いた。
「友聖のこと、よろしくお願いします」
「ええ。命に代えても護りますから」
ああ、また佐々木が凄いことを言っている。小さく笑いながら、友聖は幸せな気持ちで眠りに落ちていく。
目覚めたらきっと、彼が傍にいてくれる──。
*END*
28/28ページ