目覚めたら傍にいて

 翌朝、普段通り電車で職場に向かった。
 朝起きたとき昨日の出来事は夢だったのではないかと思ったが、思いに反して彼の名刺が残っていて、なんとなく鞄にしまって家を出る。
「明日の昼休みを空けておいてもらえますか」
 彼はそう言った。だが待ち合わせ場所も指定されていないし、昼休みの時間を聞かれてもいない。職場を教えた覚えもない。連絡を待っていればいいのかなと考えて、すっかり彼と会うつもりになっている自分に苦笑する。
 考えてみれば、彼と会わなければならない義理はない。多少気にはなるが、彼の話を聞かなくても困りはしない。
 電車を乗り継いで新宿に向かい、駅から徒歩二十分のビルの十七階がオフィスだ。大手商社の一支部で、友聖は総務部員として働いている。
 始業は八時四五分だが、八時過ぎにはデスクに着いてパソコンを立ち上げるようにしていた。スタッフの勤怠管理も仕事だから、交通情報をチェックしながら遅刻欠席の連絡に備える。
「おはよう。今日も早いな」
「おはようございます」
 総務部長の広瀬ひろせが出勤してきて、手を止めて挨拶を返した。
 本社は大所帯で総務部員も十人以上いるらしいが、友聖のいる支部は規模も大きくないので広瀬と二人だけで回している。大変なこともあるが、広瀬ができる上司だし、忙しいときは他部署の社員が手を貸してくれるので、特に困ることなく仕事をしている。
「胸の、新しいハンカチですよね。いい色ですね」
「おう、ありがとう。妻が今年の新商品だから一つ持っておけって聞かなくてな」
 広瀬は紳士服売り場で働いている妻の見立てで、いつもセンスのいいものを身に着けている。恐らくベタ惚れなのだろう。服装を褒められると嬉しそうに「妻がね」と笑う。他部署の社員からも一目置かれる彼が、妻の話題に関してだけ見せる不器用さが好きで、何か新しいアイテムを発見するたびに声を掛けるようにしている。
「今日は電車もバスも問題ないみたいだな」
 照れ隠しのように、広瀬がパソコンのモニターに触れて言った。
「はい。天気もいいし事故もないので、このまま全員出勤するかと」
 鉄道遅延の場合は遅延証明書のチェックをしなければならないが、今日はもう大丈夫だろうと次の仕事に思考を移す。そうするうちに他の社員たちも出社してきて、挨拶を交わしながら朝の書類チェックを片付けてしまう。
 その日は午前中にプリンターの故障と急な来客があって、修理依頼や来客対応をするうちに一時を過ぎていた。女性社員が少ないから最早友聖が第一人者と言っていいお茶出しの後片付けを済ませて、ハンカチで手を拭きながら給湯室を出る。
「ああ、高月。悪かったな、一人忙しくさせて。先に昼に行かせてもらった」
 廊下で擦れ違った広瀬に詫びられて、笑って首を振った。彼は総務と経理の部長を兼務しているので、同じ部署だがほとんど顔を合わせない日も珍しくないのだ。
「午後は仕事が少ないので大丈夫です」
「今日の昼休みは部長権限で三十分長く取っていいぞ」
「それは部下を甘やかしすぎですって」
 半分は本気で言ってくれている言葉に感謝しながら、執務室に戻る彼と別れてエレベーターに向かう。ビルの別の階に食堂もあるが、今日は天気がいいから近くの定食屋まで行こうと決めて一階まで下りていく。
 総合受付カウンターを過ぎて、大きなガラスの自動ドアに向かっていたところで、胸ポケットの携帯が震えた。営業部と違って、友聖は社外の人間と携帯で話すことなどほとんどない。こんな時間に誰だろうと思いながら、邪魔にならないように壁際に移動して通話ボタンに触れる。表示されているのは知らない番号だ。
「……高月です」
「お疲れさまです。佐々木です」
 僅かに警戒しながら応じるが、届いたのは昨日と同じ柔らかな声だ。
「佐々木さん?」
 そこではっとする。昼休みに会う約束をしていた。朝まで覚えていたのに、ばたばたしてすっかり忘れていた。
「すみません、すっかり忘れていました」
 正直に言えば、彼がふふと笑う。
「構いませんよ。これから一緒にお昼に行きましょう?」
「これからって、佐々木さん、今どこにいるんですか?」
「左を見て下さい」
「左? ……あ」
 目を向ければ、一般の人も利用できるエントランスの待合スペースに、今日もきちんとスーツを着た彼が立っていた。背後の窓から入る日の光に照らされて、手を上げる彼の様子はモデルのようだ。姿形も綺麗だが、立ち姿や物怖じしない雰囲気が、一般人とは違うオーラを作り出している。
「こんにちは」
 携帯をしまいながら駆け寄れば、彼が微笑んだ。
「すみません。お待たせして」
 どのくらい待っていたのだろう。完全に忘れてしまうとは迂闊だった。
「とんでもない。無理に約束を取りつけたのは僕ですから。それよりお昼に行きましょう? 外に出られる予定だったんでしょう?」
「あ、はい」
 答えたものの、歩き出すのを躊躇ってしまった。ちらりと彼の顔を見上げる。昨夜と違うスーツは素材も仕立てもいいものだと一目で分かる。多分、かなりいい生活をしている男だろう。数百円のランチに付き合わせてもいいものかと迷ってしまう。
「どうかしました?」
「いえ。あの、すぐそこの定食屋に行こうと思っていたんですけど、佐々木さんもそこでいいのかなって」
「歓迎です。ちょうど和食が食べたいと思っていたんですよ」
 即答されて、まだ少し戸惑いながらビルを出る。
「この辺りは以前仕事で通っていたことがあるんです。安くて速いご飯屋さんが結構あって、ありがたいですよね」
「そう。チェーン店も結構あるから、急いでいるときにも便利で」
 とりあえず、安い定食屋も利用する男だと知って安堵する。
「お仕事大変そうですね。今日もこんな時間にお昼なんて」
「いえ、今日はたまたまで」
 昨夜会ったばかりの男だから流石にすぐに警戒心は消えない。それでも彼の柔らかな声とセンスのいい世間話に楽しませてもらいながら目的の店へと向かう。
 慣れた定食屋の引き戸を入る頃には、肩の力も抜けていた。いらっしゃい、という店員の声に迎えられて店内を見回す。いつもはサラリーマンたちで賑わう店だが、今日はお昼のピークを過ぎているから空いている。
 四人掛けのテーブル席に案内されると、佐々木が手早く上着を脱いで隣の椅子に掛けた。些細な動きにも無駄がなくて、つい彼のすらりとした指を見つめてしまう。視線に気づいた彼が、椅子に座りながらにっこり笑って返してきた。
「暑いですね」
「そう、ですね」
 職場で上着を脱いでいた友聖と違い、彼はスーツのまま歩いてきた。それでも少しも暑苦しさを感じさせないのは、人一倍身嗜みに気を配るタイプだからなのだろう。視線に気づかれた恥ずかしさを誤魔化しながら、彼にメニューを差し出す。
「じゃあ、僕はとんかつ定食で。高月さんは決まりました?」
「あ、はい」
 そのチョイスにまた驚かされながら、手を上げて奥の店員を呼んだ。やってきた年配の女性店員が、見慣れないいい男の佐々木に頬を染める。その彼女にさりげなく微笑んで返す様子もサマになっている。もうどこからどう見ても欠点がなくて、男の友聖までおかしな気を起こしそうになってしまう。
「おいしそうですね。はい、どうぞ」
「あ。すみません」
 食事が運ばれてきたところで割り箸を差し出されて、慌てて受け取った。おかしな気持ちを悟られないように、食事に夢中になるフリをする。それでもやはり綺麗に食事をする様子が気になってしまう。
「探偵がそんなに珍しいですか?」
 何度目かにこっそり観察していたところで、ふふと笑いながら聞かれてしまった。きょとんと彼を見返せば、彼が何故か困ったように眉を下げて、一度友聖から視線を外してしまう。
「さっきから観察されているなぁと思って」
「すみません」
 どうやら密かな観察などお見通しだったらしい。赤くなって詫びれば、佐々木が慌てて顔の前で手を振ってみせる。
「いえ、怒っている訳ではないんです。ただ、僕は普通の勤め人となんら変わらない人間だと思っているので、観察して面白いのかなと」
「……いい食べっぷりだなと思って」
「え?」
 嘘など通じない相手だろうなと思ったから、素直に白状した。ヴィーガンだと言われれば納得してしまうような彼が、とんかつ定食を結構なスピードで平らげた。だが箸の使い方や食事の所作がいちいち綺麗で目が離せなくなる。そんな友聖の言葉に、今度は彼が意外そうな顔になる。
「これくらい普通でしょう? 男なんだし」
「いや、佐々木さん、そもそもこういう店来なそうだし。肉とか食べなそうだし」
 また思ったことをそのまま言えば、彼が声を立てて笑い出した。とても綺麗なのに彼はよく笑う。そしてその顔も綺麗なのだから、なんというか、モテるだろうなと思ってしまう。
「面白いですね、高月さん。一体僕をどんな風に誤解していたんです?」
 一頻り笑って彼が楽しげに言った。
「僕はごく普通の男ですよ。下手をしたらがさつな方かも」
「それは、ないと思いますけど」
「草食だと誤解していると危険かもしれませんよ」
「……え?」
「まぁ、その話は置いておいて」
 彼が友聖の鯖の味噌煮定食の盆に目を移す。
「高月さんこそ、凄くきちんとしているのが分かりますよ。綺麗に食事をしているし、好き嫌いもなさそうですし」
「そんなこと、ないです」
 思いがけず自分の話になって、漬物の小鉢を見るフリをして逃げてしまった。実は友聖は子どもの頃から身体が弱くて、風邪を引けば高熱で寝込むし、原因不明の熱や吐き気に襲われることも多くて、学校時代は休みがちだった。大人になってある程度自己管理できるようになったが、そんな訳で食事には気を配り、色々なものを残さず食べるようにしている。探偵なら、そんな自分の過去や生活習慣も調べているのだろうか。
 そこで漸く今日の目的を思い出した。
「あの。それで俺の護衛って、誰にどんな理由で頼まれたんですか?」
 そもそも探偵とは人の護衛までする仕事だっただろうか。今更そんなことを思いながら聞けば、佐々木が箸を置き、またにっこりと笑う。
「依頼主については、まだお話しすることができません。もちろん高月さんに悪意を持った人物ではありません。高月さんに危害が及ばないように護るよう言われています」
「危害って」
 こんな、職場と家を往復しているだけのような自分に何が起こるというのだ。だがそこでふと、夜自分をつけてくる足音を思い出す。あれと何か関係があるのだろうか。
「どうかしました?」
「いえ」
 言えば自意識過剰と思われそうでやめた。少し首を傾げてみせたものの、彼は話を続けてくれる。
「高月さんは難しいことを考える必要はありません。これから高月さんの周りに僕がちょくちょく現れますから、僕を警戒しないでいただきたい、というか邪険に扱わないでくれればそれで」
「えっと……」
「要は僕と仲よくしてくださいってことですよ」
 大雑把に纏めて、彼が右手を差し出してくる。
「これから、どうぞよろしくお願いします」
「……はい」
 勢いに押されて差し出した手を、友聖よりも大きな手が包むように握る。言っていることは滅茶苦茶なのに、その手の温かさに、彼は信用していい人間だと思えてしまうからタチが悪い。
「出ましょうか」
 彼が腕時計を見て言った。あと十分でデスクに戻らなければならない時間だ。友聖が立ち上ったところで、佐々木がレジで手早く二人分の会計を済ませてしまう。
「佐々木さん」
 店を出た彼の後を追って、自分の分を払おうと財布を出す。だが手のひらを見せるようにして止められた。
「今日はいいですよ。久しぶりに楽しいランチでしたし、お近づきのしるしということで」
「そんな」
「それよりビルまでご一緒します」
 彼が歩き出してしまったので、仕方なく財布をしまった。これからちょくちょく現れるつもりらしいから、また一緒に食事でもということがあれば、そのときは先に伝票を取ろう。そう決める。
 強い日差しを遮るように額に手を翳して、背の高い隣の男を見上げる。ここ数日続いた殺人的な暑さからは解放されたものの、八月末の暑さは攻撃的だ。だが彼は涼しげに、と言ったら大袈裟だが、特に暑さを感じさせることなく歩いていく。等間隔に植えられた街路樹の葉がきらきらと日の光を反射して、彼の姿を際立たせる。
「あの、今のこれも護衛なんですか?」
「いいえ」
 ふと気になったことを聞けば即答された。
「この時間のこの場所は問題ないと思いますので、これは完全なプライベートです」
「この時間のこの場所?」
「それはランチ代に免じてまだ内緒ということで」
「そう、ですか」
 彼の言っていることはよく分からないが、どうしても聞きたい訳でもないから頷いておく。ここでもし護衛ですと言われたら、自分は少しだけ傷ついたかもしれないと思って、その意味不明の思考に戸惑ってしまう。
「では、ここで」
 そうこうするうちに職場ビルに到着して、ビル脇の地下駐車場の前で彼が足を止めた。
「またゆっくりお話しましょう」
「……はい」
 いまいち自分の置かれている状況が分からない友聖に手を振って、彼が去っていく。
「あ」
 と思ったら小さく声を上げて戻ってきて、デジャヴか? と思う友聖に、今日一番訳の分からないことを言い出した。
「高月さんの職場に、恋人がいなくて恋愛に飢えているような男性はいますか?」
「え?」
 意味が分からなすぎて、きょとんと見返してしまう。
「あ、それです、その表情。僕は護衛なので自制できますが、他の男性の前で不用意にその表情はしない方がいいです。いや、しないでください」
「……一体、何を」
「まぁ、僕が護るからいいんですけど」
 何か呟いて一人納得すると、「ではまた会いましょう」と言って、今度こそ去っていく。タイミングよくやってきたタクシーに乗って帰っていく後ろ姿を、つい見えなくなるまで見送ってしまう。
「なんなんだ」
 昨日と同じ台詞を呟いて、謎をいくつも抱えたままビルに戻る羽目になる。
 依頼主も護衛の理由も聞いていないと気づいたのは午後の仕事に掛かってからだ。あれではただ世間話をしながら食事をしただけだ。どうも彼のペースに嵌まってしまっている。だがそれが嫌かと言われればそうでもない。
 まぁ、いいか。
 午後一で本社から届いた社内報の部数を数えて、フロア全員に配って回る。仲のいい社員たちに声を掛けられ、彼らのデスクで軽く世間話に応じる。
 害はなさそうだし、少し変わった友人が一人増えたと思えばいい。
「……だよな」
「あ、ごめん。何?」
 佐々木のことに気が逸れていて、目の前の相手の言葉を聞き逃してしまった。すかさず周りが突っ込んでくる。
「おい、どうした? ぼんやりして」
「彼女のことでも考えてたか?」
「そんなのいないって」
 事実を返せば、更に突っ込まれる。
「そんな綺麗な顔してんのに、女の一人もいないなんて不思議だよなぁ」
「そうそう。高月は性格もいいのにな」
 綺麗というのは、小柄であまり男性的ではない友聖へのジョークのようなものだ。自分ではどこまでも控えめな顔立ちだと思っている。
「綺麗じゃないし、余計なお世話です」
 わざと膨れてみせて、ごめんごめんと謝る同僚たちと笑い合って、総務のデスクに戻る。そこでふと、佐々木の台詞が浮かぶ。
『僕は護衛なので自制できますが、他の男性の前でその表情はしないでください』
「どんな顔だよ。というか自制ってなんだよ」
 呟いて、また彼のことを考えている自分に気づいて眉を寄せる。綺麗な人間というのは、こうして平凡な人間の思考に居座ってしまうものらしい。
 いけない、いけない。
 手元の資料に注意を戻して、友聖は佐々木の影を払うように午後の仕事に戻っていった。
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