目覚めたら傍にいて

 目の前で立ち止まったのは兄の直哉だった。彼を見上げたまま固まってしまう。最後に会ったのは半年前だろうか。そのときと変わらない優しい笑みが向けられる。
「どうしてここに?」
 漸くそう聞いたとき、がらりと診察室のドアが開いて、Tシャツ姿の佐々木が出てきた。
「佐々木さん!」
 直哉を置いて、思わず駆け寄ってしまう。
「心配いりません。骨に異常はないし、湿布を貼ってもらっただけです。二、三日安静にしていれば大丈夫だそうですよ」
「よかった」
 安堵の息を吐く友聖の頭をくしゃりと撫でて、佐々木が視線を後ろに移す。
「高月さん」
 佐々木が気づくと同時に直哉もこちらに歩み寄り、そのまま頭を下げた。
「このような怪我をさせてしまって、申し訳ありませんでした」
「頭を上げてください。元々僕が申し出たことですから。弟さんに怪我がなくてよかったですよ」
 二人のやり取りを呆然と眺める。
 どうして直哉が今夜のことを知っているのだ。佐々木は以前から彼と知り合いだったのか。それなら何故自分に話してくれなかったのか。
 そこであっと閃くものがある。
「依頼主?」
 声にすれば、佐々木と直哉が同時にこちらに顔を向けた。
「そう。お兄さんから護衛を依頼されていたんですよ」
 佐々木が種明かしをするように答える。
「どうして」
 そこで受付から佐々木を呼ぶ声がした。ちょっと待っていてください、と彼が傍を離れていく。
「あ、支払いは俺が」
 怪我をした理由も理由だし、病院に行こうと言ったのも自分だ。治療費を払うつもりで追った友聖を、佐々木がまた手のひらを見せるようにして止める。
「保険証も持っていましたし、たいした金額ではありませんから。そもそも友聖のせいではないですし」
「でも」
「どうしてもと言うなら、身体でいただこうかな」
「……なっ!」
 極上の微笑みで言われた台詞に赤くなって言葉をなくす。相変わらず、この男は容姿と言動のギャップが激しい。幸い受付の看護師には聞こえなかったらしく、あたふたする友聖の前で彼がさっさと支払いを済ませてしまった。
「ゆう」
 いつのまにか後ろにいた直哉に肩を叩かれる。
「とりあえず帰ろう。車回してくるから」
「うん」
 まだ分からないことが多いが、ここは彼の言う通りにするのが正解だろう。直哉が足早に自動ドアに向かい、その後ろを佐々木と並んで建物を出る。来たときには気にする余裕もなかったが、外気に触れればシラカシの木々を揺らす風が、夏夜の暑さを和らげてくれていた。このまま暑さが戻ることなく、秋に向かっていくのだろう。秋になれば、夏にできたドングリが熟していく。
 風に当たりながら待てば、すぐに直哉の車が正面入り口にやってきた。とりあえず友聖のマンションに向かうことにして、友聖が助手席に乗り、佐々木は不自由なく身体を伸ばせるように後ろに座ってもらう。
「へぇ。佐々木さんとご飯食べたりするんだ」
「うん、そう。昼休みに会ったときは奢ってもらっちゃって」
「ふふ。定食屋のランチメニューですよ。そんな大層な額ではありません」
 車内では和やかな会話が続いた。
「あ、それとスーパーの買いものの支払いもしてもらったりで」
「そっか。じゃあ、お礼に今度俺がご馳走しないとな」
 直哉は車を走らせながら佐々木の身体を気遣い、友聖の近況を尋ねて、今夜起こったことには触れなかった。友聖も今はそれでいいと思う。助手席で彼の質問にぽつぽつと答えながら、友聖は久しぶりに見る彼の、短く切られた髪や日に焼けた肌や大きな手を感じて、場違いにも酷く穏やかな気持ちになっていた。色々と複雑な思いはあるが、彼を兄として慕っている。本音は世間の普通の兄弟のように、もっと気軽に会えたらいいと思っているのだ。
「佐々木さんはいつもいいものを食べているイメージですけど、ゆうの傍にいて不自由していたりしませんか?」
「とんでもない。一人暮らしも長いので、弟さんの料理に感動してしまいましたよ。とても料理上手で」
 佐々木は話を振られれば場を和ませるような答えを返し、そしてさりげなく話を友聖のことに戻した。それが久しぶりに会う兄弟への気遣いだと分かれば、ありがたさと、また膨らんでしまう彼への想いで、なんだか泣いてしまいそうになる。そんな気持ちを直哉に知られる訳にはいかなくて、窓の外の景色に夢中になるフリをする。そうしながら、後ろにいる彼の存在を感じ続ける。
「そういえば、佐々木さん、ご自宅にお送りすればいいでしょうか? 置いてきたものもあるでしょうから、一度友聖のマンションに寄りますけど」
 直哉のそんな声で我に返った。
「あ、えっと」
 今更気づいて慌ててしまう。今夜佐々木が泊まるつもりで、というかこのところ当たり前のように部屋にいて、剰え同じベッドで寝ようとしていたなんて、直哉にはとても言えないと思ったのだ。
「いえ。できれば弟さんの部屋に泊めていただきたいのですが」
 友聖の動揺を余所に、佐々木がさらりと返す。
「今夜はもう何もないと思いますが、念のため朝まで傍にいたいと思います。僕もその方が楽ですし。もちろんご迷惑でなければですけど」
 思わずミラー越しに目を遣る友聖に、悪戯っぽい笑みが返される。
「迷惑な訳ないよ。佐々木さん怪我しているし、傍にいれば俺も少しは役に立つかもしれないでしょう?」
 直哉もミラーで二人を交互に見て、少し不思議そうな顔をする。
「佐々木さんが不便でなければ、そうしていただけると助かります。本当なら俺が友聖の傍にいるべきところを申し訳ないのですが」
「高月さんは今日から三連戦でしょう? こうやって来てもらったことの方が申し訳なく思いますよ」
 ああ、そうだと今度は直哉の顔を見る。
 直哉は昨日まで、いやもう日付が変わっているから一昨日まで関西の球場で試合があり、昨日は移動日だった。今日はデイゲームの筈だ。試合の調整もあるだろうに、出てきて大丈夫だったのだろうか。思ったことがそのまま顔に出ていたらしくて、直哉が苦笑する。
「ごめんな、心配させて。でもほんとにもう何も心配いらないから」
 左手がぽんと友聖の髪に触れる。
「今週中にゆっくり話をしよう。なんでも好きなものを奢るから。佐々木さんと何が食べたいか考えておいて」
「うん」
 それで問題ないので素直に頷く。
「こんな中途半端な種明かしで気持ち悪いと思うけど、今夜話し込んじゃうと朝起きられなくて練習遅刻しそうだから。勘弁してな」
「全然問題ないよ。兄さんが無事ならそれでいいから」
「ありがと。ゆうも帰ったら早く寝ろよ」
「うん」
 そのうちに車がマンション前に到着する。直哉は必要なものはないかと問い、万が一のときは必ず連絡するようにと念を押して、最後にもう一度佐々木に頭を下げて帰っていった。車を見送って部屋に戻り、軽くベッドを整える。
「佐々木さん、早く横になってください」
「友聖が隣で寝てくれるなら」
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