目覚めたら傍にいて
友聖は両親と兄の四人家族で育った。恵まれた家庭だったと思う。母親はずっと家にいてくれたし、お金に苦労することなく育ててもらった。
そんな中、友聖は自分の身体が家族に負担を掛けていることを知っていた。親戚の誰かが「友ちゃんの身体が弱くなければ、もう一人女の子が欲しかったのにね」と言ったからかもしれない。泣いたり騒いだりすることが少なく、手の掛からない子どもと言われるようになった。我が侭を言ってはいけないと思ったのか、誕生日もクリスマスも欲しいものを言ってくれなくなって困ったと、大きくなってから父親に聞いた。
そんな友聖に両親はなんとか子どもらしく過ごしてもらおうと努力してくれたし、直哉はベッドから出られない友聖に本を読んでくれた。入退院を繰り返しながらも、幸せな幼少期だったのだ。
穏やかな家庭が少しずつ変わり始めたのは、友聖が小学校に入った頃だった。少年野球チームに入った直哉が投手の才能を見せ始めたのだ。選ばれた者しか参加することのできない強化合宿や、現役選手が主催する野球教室に参加して力をつけていく彼に、最初は親の欲目と呑気に構えていた両親も、その才能を認めざるを得なくなった。
直哉の練習や遠征についていくことが増えて、母親は友聖の病院通いに同伴しなくなったが、それを不満に思うことはなかった。拗らせて入院でもしない限り近所の個人医に診てもらっていたから、お金と診察券さえあれば問題ない。寧ろ、幼い頃から自分に掛かりきりだった母親を直哉に返してあげられたようで嬉しかった。
違和感を覚え始めたのは小学五年のときだ。既に直哉が中学に上がるときに部屋を別々にされていたのだが、彼が中学一年で中総体の先発投手を務めることになったとき、母親が友聖に、具合の悪いときはリビングに下りてくるな──言い方はもっとソフトだったかもしれないが忘れてしまった──と言ったのだ。
それまでも風邪で咳込むときなどは直哉に近づかないようにしていたが、はっきり言われて流石に傷ついた。だが母親が間違っているとも思えなくて、体調を崩した日は部屋で一人で過ごすようになった。
父親は忙しい人だったし、直哉は遅くまで練習で、夕食は母親と二人になることが多かった。その食事のあとで、彼女は夜食や翌日の食事の下拵えを始める。栄養学の分厚い本を読みながら直哉の帰りを待つ様子に、次第に二人で話すこともなくなった。
そしてその年の冬、忘れられない出来事が起こる。
十二月の寒い日だった。数日前から引いていた風邪を拗らせて、午前授業を終えるとすぐに家に帰って横になっていた。母親は外出中だが、その頃にはもう薬や体温計も友聖の部屋に置かれていたから、不自由はなかった。
明日明後日は休診日だから、月曜に休んで病院に行かなければならないだろうか。月曜は理科の実験があるし、学校に欠席の連絡を入れるとき母親が不機嫌になるから、できれば休みたくない。なんとか明日中に治ればいいと思いながら、一時間程眠ったあとだった。目を覚ませば、そこに直哉の姿があった。
「……お兄ちゃん?」
気づいて、慌てて口元を手で覆った。彼に風邪を移してはいけない。
「お兄ちゃんダメだよ。風邪のとき近づいたら、お母さんが怒る」
「今日母さんは夕方まで帰らないよ」
「でも風邪が」
心配する友聖に彼が優しく笑う。
「俺は鍛えているから大丈夫」
そう言って友聖の髪を撫でてくれる。
その頃の彼は、大人たちに大事にされながら思い上がったところがなく、逆に冷静に周りを見ることのできる子どもだった。二つしか違わないのに自分よりずっと大人びた彼が好きで、だからこそ迷惑は掛けたくないと思う。
「ごめんな、ゆう」
「何が?」
分からないまま見上げた顔が怒っていた。
「ゆうはまだ小学生なんだ。具合の悪いときは普通、母親が看病して病院にも連れていくものだろ? 母さんがゆうを放っておくのは俺のせいだ」
「違う」
起き上がって否定した。そんな風に思っていたなんて知らなかった。ベッドでの心細さも一人の食事もたいしたことではない。世の中には親から酷い扱いを受ける子どもがいる。自分は食事も洋服も病院に行くお金も貰えて幸せなのだ。拙い言葉で懸命に伝えれば、彼が哀しそうに笑う。
「俺が小学生のときは野球のことばっか考えてて、ゆうみたいに色々考えてなかったな」
「お兄ちゃん」
自分は何か兄を哀しませるようなことを言ってしまっただろうか。おろおろする友聖をベッドに寝かせると、彼が掛けものを掛け直して優しく胸に手を置いてくれる。
「ゆう。俺、プロになりたいんだ」
「なれるよ、お兄ちゃんなら」
大歓声の球場で活躍する直哉の姿を思い描いて嬉しくなった。彼も笑って友聖の頬を軽く抓る真似をする。
「プロになって自分で稼げるようになったら、俺がゆうを護るから」
「護る?」
ピンとこない言葉だった。首を傾げる友聖に彼が静かに続ける。
「ゆうが病気のときも気を遣わないで過ごせる家でさ、二人で暮らそう」
「お父さんとお母さんは?」
直哉と二人で暮らす。それはどんなに幸せだろう。想像して嬉しくなって、逆に上手く伝えられなくて、何故か両親の心配をしてしまう。
「父さんと母さんにはもう一軒別の家を買ってあげる。活躍するピッチャーって凄い給料貰うんだ」
「ほんとにお兄ちゃんと暮らせる?」
「うん。約束」
直哉がとても子どもっぽく笑う。
「ゆうの欲しいものはなんでも買ってやる。今から考えておけよ」
「うん!」
嬉しくて仕方ないのに何故か泣きそうだった。満足そうに笑った直哉がずっと傍にいてくれて、安心して眠ることができる。
彼が熱を出したのは、その二日後の晩だった。
たいした風邪ではない。学校も一日休んだだけで翌日から朝練にも復帰したが、母親はやはりそのことを気に病んだ。
火曜の晩、学校には行けるようになったがまだ本調子でなくて、友聖は自室で静かにしていた。そこに二人が言い争う声が聞こえてくる。
「いい加減にしろよ! 風邪くらい誰だって引くだろ!」
「友聖の風邪が移ったんじゃない!」
そっと部屋のドアを開けて聞いた言葉に胸が痛む。母親の言う通り、直哉の風邪は自分のせいだと思っていた。
「母さんおかしいよ。ゆうは何も悪くないのに、どうして酷い仕打ちをするんだよ」
「酷い仕打ちなんてしてないじゃない。食事だって掃除や洗濯だってちゃんとやってる」
「けど一人で食事をさせてるじゃないか! 病院にも連れていってやらないじゃないか!」
普段穏やかな直哉が声を荒げる。それが辛かった。彼の感情を乱したくない。そう思って、何を言いたいのかも分からないままリビングに下りてしまう。そこで母親の視線が友聖を捉える。
「友聖! 下りてきちゃダメじゃない! またお兄ちゃんに風邪を移したらどうするの!」
「あ、ごめんなさい」
「いいよ、ゆう。こっちにおいで」
母親の剣幕に驚いて部屋に戻ろうとする友聖を、直哉が引き止める。
「ダメよ!」
「どうして家族がリビングにいちゃいけないんだよ! 母さん最低だ!」
「なんてこと言うの!」
見たことのないような言い争いに、何も言えず階段の途中に立ち尽くしてしまう。それが母親の怒りを煽る。
「早く部屋に戻りなさい! これ以上お兄ちゃんを煩わせないで! お兄ちゃんは友聖とは違うんだから!」
何を言われたのか理解するのに時間が掛かった。
お兄ちゃんは友聖とは違う。そんなこと、言われなくても知っていた。だが改めて言われて涙が落ちる。
「ゆう!」
直哉が呼ぶのに構わず部屋に駆け上がって、ベッドで小さくなった。部屋のドアを叩く音がしたが、掛けものを被って耳を塞いでしまう。もう何も聞きたくない。小さく丸まって、消えてなくなってしまいたかった。
そこから記憶は曖昧になる。あとから聞いたところによれば、直哉はもう野球を辞めると言って家を飛び出し、数時間後に担任で野球部の顧問でもある教師と戻ってきたという。残業中にパニックになった母親から連絡が入って、身が縮む思いだったと父親が静かに笑った。
教師にどう諭されたのか知らないが、直哉は翌朝いつも通り朝練に行った。その日から、友聖の目にも分かるほど野球に打ち込むようになる。
母親はあとで友聖に詫びてきた。それが自分の意思なのか、父親や教師に諭されてのことなのかは分からないが、直哉と言い争って気が立っていたと言う彼女に、気にしていないと言って笑った。けれどその後、体調が悪くなくても極力家族と食事を共にしなくなる。家族が家にいる日は誰かしら呼びにくることもあったが、体調が悪いと拒むうちに何も言われなくなって、友聖が一人で食事をするのは高月家の暗黙のルールになった。
直哉には野球の名門校への推薦の話が持ち上がり、母親の思考はますます彼で占められた。練習や遠征、学校見学や野球部の親たちとの付き合いで休日も家を空けることが多くなって、その頃から母親がいない日は自分で料理をするようになった。直哉がこの家で快適に過ごしてくれることが望みだったから、辛いと思ったことはない。
多忙だった父親が、たまの休日友聖と二人になると、宿題を見てくれたり本屋に連れていってくれたりした。彼の分も昼食を作れば喜んで、そして時々ごめんと言う。その気持ちだけで充分だった。
中学高校と、できるだけ体調を崩さないように静かに過ごした。家から通える公立の大学に進学して、授業が終わったあと体調の許す限り学習塾のアルバイトをするようになったから、両親と顔を合わせることもなくなった。
卒業後は就職先を見つけて家を出た。実家から通えない距離ではないが、安くはない家賃を払ってでも、心穏やかな生活が欲しい。
直哉は高校卒業と同時にプロの世界に入り、二軍での調整を経て、一流と呼べる選手に成長していた。球団の寮を出て一人暮らしを始めた彼は、忙しい合間を縫って食事や酒に誘ってくれるが、理由をつけて大抵断っている。彼には会いたい。だがどうしても過去母親に投げられた言葉が友聖を躊躇わせる。また迷惑をかけてしまうのではないかと思えば怖い。
それでも会えば彼は優しくて、年に一、二度会う時間が、友聖にとって掛け替えのないものになっていた。
「ご実家に帰ることは?」
話し終えれば佐々木が静かに聞いてきた。
「法事でもなければ帰らないかな。お盆やお正月も、旅行に行くとでも言えば煩く言われないし。嘘だってことはばれているんだろうけど」
「そうですか」
言いながら、彼が友聖の腰に腕を回してくる。
「こら」
やんわり咎めてみるが、離すどころか更に腕に力を籠められる。
「嘘はよくないですから、来年のお正月は本当に二人で旅行に行きましょうね」
「そこ?」
実は少しだけ彼の反応に怯えていたから、予想外の台詞にふっと肩の力が抜ける。彼もそれが分かるのか、友聖の髪を撫でてくれる。そんな風にされれば、仲のいい恋人みたいに、穏やかな気持ちになってしまう。
「温泉でもいいし、ベタにハワイとかグアムでも、とにかく暖かいところがいいですね」
「意外。格好よくスキーとかやっていそうなのに」
「できないことはないですけど、この歳になると寒さが身に染みますからね」
「この歳って」
その言い方に笑ってしまう。
「関節が痛むんですよ」
更に友聖を笑わせるようなことを言って、一頻り笑い合った後で、彼がなんでもないことのように言う。
「もう歩み寄ってもいいんじゃないですか」
「うん。自分でもそう思うよ」
「恨んではいないんでしょう?」
「全く」
本音だった。
彼女は彼女で追い詰められていたのだ。地方大会の遠征費用は学校や地域の寄付金からも出ていたし、他のポジションに比べて替えのきかないピッチャーを、風邪なんかで欠場させる訳にはいかなかった。それに一年生からエースで活躍する直哉をよく思わない親たちもいただろうし、彼らとの付き合いも楽ではなかった。
大人になってから分かったことが沢山ある。母親が余裕をなくすのも無理はない。最近はそう思うようになった。ただ長く家族と距離を置いてきたから、今更どう接していいのか分からないのだ。
考え込んでしまう友聖の耳に、佐々木の静かな声が届く。
「友聖がご家族と仲よくしてくれないと、僕がご挨拶に行けないじゃないですか」
「ご挨拶?」
「友聖さんを僕にくださいって」
「ちょっと……! 何を言ってるの」
頬を膨らませて抗議すれば、佐々木が目を細めて笑う。なんだか彼の手のひらで転がされているようだが、別に嫌な気持ちではない。久しぶりに帰った息子が同性の恋人を連れていたら、両親はさぞ驚くだろう。逆に過去の気まずさなど吹き飛んで、それはそれでいいかもしれないと、想像して笑ってしまう。
「僕は本気ですよ」
油断していたら、ごく自然に唇が触れた。
「もう、また!」
「好きです、友聖」
そのまま頬や首筋にキスが降りてくる。
「ちょっと!」
彼がふふと笑って、抵抗する友聖を腕に包み込む。
「ありがとう。僕に話してくれて」
「そんな。お礼を言うのはこっちだし」
彼の胸に顔を寄せる形になって、もごもごと言う。そんな友聖の髪に、また彼の手が触れてくる。優しく撫でられれば、なんだか親に甘えさせてもらっている気分になる。
「僕はこれからもずっと、友聖の傍にいます」
「佐々木さん」
なんだか泣きそうになって、堪えるのに苦労する。
「……好きにすれば」
漸く出てきたのは、我ながら素直じゃない言葉。できればずっと一緒にいてほしい。そんな本音はまだ告げる勇気がない。それでも彼はその答えに満足してくれたらしい。
「寝ましょうか」
「うん」
「腕枕なしで寝られます?」
「寝られるって」
話してよかった。静かに生きてきた自分の人生が、これから少し変わるのかもしれない。そんなことを思って目を閉じた。
そんな中、友聖は自分の身体が家族に負担を掛けていることを知っていた。親戚の誰かが「友ちゃんの身体が弱くなければ、もう一人女の子が欲しかったのにね」と言ったからかもしれない。泣いたり騒いだりすることが少なく、手の掛からない子どもと言われるようになった。我が侭を言ってはいけないと思ったのか、誕生日もクリスマスも欲しいものを言ってくれなくなって困ったと、大きくなってから父親に聞いた。
そんな友聖に両親はなんとか子どもらしく過ごしてもらおうと努力してくれたし、直哉はベッドから出られない友聖に本を読んでくれた。入退院を繰り返しながらも、幸せな幼少期だったのだ。
穏やかな家庭が少しずつ変わり始めたのは、友聖が小学校に入った頃だった。少年野球チームに入った直哉が投手の才能を見せ始めたのだ。選ばれた者しか参加することのできない強化合宿や、現役選手が主催する野球教室に参加して力をつけていく彼に、最初は親の欲目と呑気に構えていた両親も、その才能を認めざるを得なくなった。
直哉の練習や遠征についていくことが増えて、母親は友聖の病院通いに同伴しなくなったが、それを不満に思うことはなかった。拗らせて入院でもしない限り近所の個人医に診てもらっていたから、お金と診察券さえあれば問題ない。寧ろ、幼い頃から自分に掛かりきりだった母親を直哉に返してあげられたようで嬉しかった。
違和感を覚え始めたのは小学五年のときだ。既に直哉が中学に上がるときに部屋を別々にされていたのだが、彼が中学一年で中総体の先発投手を務めることになったとき、母親が友聖に、具合の悪いときはリビングに下りてくるな──言い方はもっとソフトだったかもしれないが忘れてしまった──と言ったのだ。
それまでも風邪で咳込むときなどは直哉に近づかないようにしていたが、はっきり言われて流石に傷ついた。だが母親が間違っているとも思えなくて、体調を崩した日は部屋で一人で過ごすようになった。
父親は忙しい人だったし、直哉は遅くまで練習で、夕食は母親と二人になることが多かった。その食事のあとで、彼女は夜食や翌日の食事の下拵えを始める。栄養学の分厚い本を読みながら直哉の帰りを待つ様子に、次第に二人で話すこともなくなった。
そしてその年の冬、忘れられない出来事が起こる。
十二月の寒い日だった。数日前から引いていた風邪を拗らせて、午前授業を終えるとすぐに家に帰って横になっていた。母親は外出中だが、その頃にはもう薬や体温計も友聖の部屋に置かれていたから、不自由はなかった。
明日明後日は休診日だから、月曜に休んで病院に行かなければならないだろうか。月曜は理科の実験があるし、学校に欠席の連絡を入れるとき母親が不機嫌になるから、できれば休みたくない。なんとか明日中に治ればいいと思いながら、一時間程眠ったあとだった。目を覚ませば、そこに直哉の姿があった。
「……お兄ちゃん?」
気づいて、慌てて口元を手で覆った。彼に風邪を移してはいけない。
「お兄ちゃんダメだよ。風邪のとき近づいたら、お母さんが怒る」
「今日母さんは夕方まで帰らないよ」
「でも風邪が」
心配する友聖に彼が優しく笑う。
「俺は鍛えているから大丈夫」
そう言って友聖の髪を撫でてくれる。
その頃の彼は、大人たちに大事にされながら思い上がったところがなく、逆に冷静に周りを見ることのできる子どもだった。二つしか違わないのに自分よりずっと大人びた彼が好きで、だからこそ迷惑は掛けたくないと思う。
「ごめんな、ゆう」
「何が?」
分からないまま見上げた顔が怒っていた。
「ゆうはまだ小学生なんだ。具合の悪いときは普通、母親が看病して病院にも連れていくものだろ? 母さんがゆうを放っておくのは俺のせいだ」
「違う」
起き上がって否定した。そんな風に思っていたなんて知らなかった。ベッドでの心細さも一人の食事もたいしたことではない。世の中には親から酷い扱いを受ける子どもがいる。自分は食事も洋服も病院に行くお金も貰えて幸せなのだ。拙い言葉で懸命に伝えれば、彼が哀しそうに笑う。
「俺が小学生のときは野球のことばっか考えてて、ゆうみたいに色々考えてなかったな」
「お兄ちゃん」
自分は何か兄を哀しませるようなことを言ってしまっただろうか。おろおろする友聖をベッドに寝かせると、彼が掛けものを掛け直して優しく胸に手を置いてくれる。
「ゆう。俺、プロになりたいんだ」
「なれるよ、お兄ちゃんなら」
大歓声の球場で活躍する直哉の姿を思い描いて嬉しくなった。彼も笑って友聖の頬を軽く抓る真似をする。
「プロになって自分で稼げるようになったら、俺がゆうを護るから」
「護る?」
ピンとこない言葉だった。首を傾げる友聖に彼が静かに続ける。
「ゆうが病気のときも気を遣わないで過ごせる家でさ、二人で暮らそう」
「お父さんとお母さんは?」
直哉と二人で暮らす。それはどんなに幸せだろう。想像して嬉しくなって、逆に上手く伝えられなくて、何故か両親の心配をしてしまう。
「父さんと母さんにはもう一軒別の家を買ってあげる。活躍するピッチャーって凄い給料貰うんだ」
「ほんとにお兄ちゃんと暮らせる?」
「うん。約束」
直哉がとても子どもっぽく笑う。
「ゆうの欲しいものはなんでも買ってやる。今から考えておけよ」
「うん!」
嬉しくて仕方ないのに何故か泣きそうだった。満足そうに笑った直哉がずっと傍にいてくれて、安心して眠ることができる。
彼が熱を出したのは、その二日後の晩だった。
たいした風邪ではない。学校も一日休んだだけで翌日から朝練にも復帰したが、母親はやはりそのことを気に病んだ。
火曜の晩、学校には行けるようになったがまだ本調子でなくて、友聖は自室で静かにしていた。そこに二人が言い争う声が聞こえてくる。
「いい加減にしろよ! 風邪くらい誰だって引くだろ!」
「友聖の風邪が移ったんじゃない!」
そっと部屋のドアを開けて聞いた言葉に胸が痛む。母親の言う通り、直哉の風邪は自分のせいだと思っていた。
「母さんおかしいよ。ゆうは何も悪くないのに、どうして酷い仕打ちをするんだよ」
「酷い仕打ちなんてしてないじゃない。食事だって掃除や洗濯だってちゃんとやってる」
「けど一人で食事をさせてるじゃないか! 病院にも連れていってやらないじゃないか!」
普段穏やかな直哉が声を荒げる。それが辛かった。彼の感情を乱したくない。そう思って、何を言いたいのかも分からないままリビングに下りてしまう。そこで母親の視線が友聖を捉える。
「友聖! 下りてきちゃダメじゃない! またお兄ちゃんに風邪を移したらどうするの!」
「あ、ごめんなさい」
「いいよ、ゆう。こっちにおいで」
母親の剣幕に驚いて部屋に戻ろうとする友聖を、直哉が引き止める。
「ダメよ!」
「どうして家族がリビングにいちゃいけないんだよ! 母さん最低だ!」
「なんてこと言うの!」
見たことのないような言い争いに、何も言えず階段の途中に立ち尽くしてしまう。それが母親の怒りを煽る。
「早く部屋に戻りなさい! これ以上お兄ちゃんを煩わせないで! お兄ちゃんは友聖とは違うんだから!」
何を言われたのか理解するのに時間が掛かった。
お兄ちゃんは友聖とは違う。そんなこと、言われなくても知っていた。だが改めて言われて涙が落ちる。
「ゆう!」
直哉が呼ぶのに構わず部屋に駆け上がって、ベッドで小さくなった。部屋のドアを叩く音がしたが、掛けものを被って耳を塞いでしまう。もう何も聞きたくない。小さく丸まって、消えてなくなってしまいたかった。
そこから記憶は曖昧になる。あとから聞いたところによれば、直哉はもう野球を辞めると言って家を飛び出し、数時間後に担任で野球部の顧問でもある教師と戻ってきたという。残業中にパニックになった母親から連絡が入って、身が縮む思いだったと父親が静かに笑った。
教師にどう諭されたのか知らないが、直哉は翌朝いつも通り朝練に行った。その日から、友聖の目にも分かるほど野球に打ち込むようになる。
母親はあとで友聖に詫びてきた。それが自分の意思なのか、父親や教師に諭されてのことなのかは分からないが、直哉と言い争って気が立っていたと言う彼女に、気にしていないと言って笑った。けれどその後、体調が悪くなくても極力家族と食事を共にしなくなる。家族が家にいる日は誰かしら呼びにくることもあったが、体調が悪いと拒むうちに何も言われなくなって、友聖が一人で食事をするのは高月家の暗黙のルールになった。
直哉には野球の名門校への推薦の話が持ち上がり、母親の思考はますます彼で占められた。練習や遠征、学校見学や野球部の親たちとの付き合いで休日も家を空けることが多くなって、その頃から母親がいない日は自分で料理をするようになった。直哉がこの家で快適に過ごしてくれることが望みだったから、辛いと思ったことはない。
多忙だった父親が、たまの休日友聖と二人になると、宿題を見てくれたり本屋に連れていってくれたりした。彼の分も昼食を作れば喜んで、そして時々ごめんと言う。その気持ちだけで充分だった。
中学高校と、できるだけ体調を崩さないように静かに過ごした。家から通える公立の大学に進学して、授業が終わったあと体調の許す限り学習塾のアルバイトをするようになったから、両親と顔を合わせることもなくなった。
卒業後は就職先を見つけて家を出た。実家から通えない距離ではないが、安くはない家賃を払ってでも、心穏やかな生活が欲しい。
直哉は高校卒業と同時にプロの世界に入り、二軍での調整を経て、一流と呼べる選手に成長していた。球団の寮を出て一人暮らしを始めた彼は、忙しい合間を縫って食事や酒に誘ってくれるが、理由をつけて大抵断っている。彼には会いたい。だがどうしても過去母親に投げられた言葉が友聖を躊躇わせる。また迷惑をかけてしまうのではないかと思えば怖い。
それでも会えば彼は優しくて、年に一、二度会う時間が、友聖にとって掛け替えのないものになっていた。
「ご実家に帰ることは?」
話し終えれば佐々木が静かに聞いてきた。
「法事でもなければ帰らないかな。お盆やお正月も、旅行に行くとでも言えば煩く言われないし。嘘だってことはばれているんだろうけど」
「そうですか」
言いながら、彼が友聖の腰に腕を回してくる。
「こら」
やんわり咎めてみるが、離すどころか更に腕に力を籠められる。
「嘘はよくないですから、来年のお正月は本当に二人で旅行に行きましょうね」
「そこ?」
実は少しだけ彼の反応に怯えていたから、予想外の台詞にふっと肩の力が抜ける。彼もそれが分かるのか、友聖の髪を撫でてくれる。そんな風にされれば、仲のいい恋人みたいに、穏やかな気持ちになってしまう。
「温泉でもいいし、ベタにハワイとかグアムでも、とにかく暖かいところがいいですね」
「意外。格好よくスキーとかやっていそうなのに」
「できないことはないですけど、この歳になると寒さが身に染みますからね」
「この歳って」
その言い方に笑ってしまう。
「関節が痛むんですよ」
更に友聖を笑わせるようなことを言って、一頻り笑い合った後で、彼がなんでもないことのように言う。
「もう歩み寄ってもいいんじゃないですか」
「うん。自分でもそう思うよ」
「恨んではいないんでしょう?」
「全く」
本音だった。
彼女は彼女で追い詰められていたのだ。地方大会の遠征費用は学校や地域の寄付金からも出ていたし、他のポジションに比べて替えのきかないピッチャーを、風邪なんかで欠場させる訳にはいかなかった。それに一年生からエースで活躍する直哉をよく思わない親たちもいただろうし、彼らとの付き合いも楽ではなかった。
大人になってから分かったことが沢山ある。母親が余裕をなくすのも無理はない。最近はそう思うようになった。ただ長く家族と距離を置いてきたから、今更どう接していいのか分からないのだ。
考え込んでしまう友聖の耳に、佐々木の静かな声が届く。
「友聖がご家族と仲よくしてくれないと、僕がご挨拶に行けないじゃないですか」
「ご挨拶?」
「友聖さんを僕にくださいって」
「ちょっと……! 何を言ってるの」
頬を膨らませて抗議すれば、佐々木が目を細めて笑う。なんだか彼の手のひらで転がされているようだが、別に嫌な気持ちではない。久しぶりに帰った息子が同性の恋人を連れていたら、両親はさぞ驚くだろう。逆に過去の気まずさなど吹き飛んで、それはそれでいいかもしれないと、想像して笑ってしまう。
「僕は本気ですよ」
油断していたら、ごく自然に唇が触れた。
「もう、また!」
「好きです、友聖」
そのまま頬や首筋にキスが降りてくる。
「ちょっと!」
彼がふふと笑って、抵抗する友聖を腕に包み込む。
「ありがとう。僕に話してくれて」
「そんな。お礼を言うのはこっちだし」
彼の胸に顔を寄せる形になって、もごもごと言う。そんな友聖の髪に、また彼の手が触れてくる。優しく撫でられれば、なんだか親に甘えさせてもらっている気分になる。
「僕はこれからもずっと、友聖の傍にいます」
「佐々木さん」
なんだか泣きそうになって、堪えるのに苦労する。
「……好きにすれば」
漸く出てきたのは、我ながら素直じゃない言葉。できればずっと一緒にいてほしい。そんな本音はまだ告げる勇気がない。それでも彼はその答えに満足してくれたらしい。
「寝ましょうか」
「うん」
「腕枕なしで寝られます?」
「寝られるって」
話してよかった。静かに生きてきた自分の人生が、これから少し変わるのかもしれない。そんなことを思って目を閉じた。