目覚めたら傍にいて

 友聖は両親と兄の直哉の四人家族で育った。恵まれた家庭だったと思う。母親はずっと家にいてくれたし、一度もお金の苦労をすることなく育ててもらった。
 そんな中で、友聖は自分の身体が家族に負担を掛けていることを知っていた。親戚の誰かが「友ちゃんの身体が弱くなければ、もう一人女の子が欲しかったのにね」と言ったのを聞いたからかもしれない。子どもなりに迷惑を掛けてはいけないと思ったのだろう。泣いたり騒いだりすることもなく、周りの大人たちから手の掛からない子どもだと言われるようになった。他の子のように我が侭を言ってはいけないと思ったのか、ある時期誕生日もクリスマスも頑として欲しいものを言ってくれなくなって困ったと、大きくなってから父親に聞いた。
 そんな友聖に両親はなんとか子どもらしく過ごしてもらおうと心を割いてくれたし、直哉は母親が友聖に掛かりきりになっても文句を言わず、逆にベッドから出られない友聖に、外の様子を語ってくれたり絵本を読んでくれたりした。そのお陰で、入退院を繰り返しながらも、友聖は幸せな幼少期を過ごすことができたのだ。
 穏やかな家庭が少しずつ変わり始めたのは、友聖が小学校に入った頃だった。少年野球チームに入った直哉が投手の才能を見せ始めたのだ。選ばれた者しか参加することのできない強化合宿や、現役選手が主催する野球教室に参加して力をつけていく彼に、最初は親の欲目と呑気に構えていた両親も、才能を認めざるを得なくなった。
 直哉の練習や遠征についていくことが増えて、母親は友聖の病院通いに同伴しなくなったが、それを不満には思わなかった。拗らせて入院でもしない限り慣れた近所の個人医に診てもらっていたから、お金と診察券さえ預けてもらえれば問題ない。寧ろ、幼い頃から自分に掛かりきりだった母親を、直哉に返してあげられたような気がして嬉しかった。
 違和感を覚え始めたのは小学五年のときだった。既に直哉が中学に上がるときに部屋を別々にされていたのだが、彼が中学一年で中総体の先発投手を務めることになったとき、母親が友聖に、具合の悪いときはリビングに下りてくるな──言い方はもっとソフトだったかもしれないが忘れてしまった──と言ったのだ。
 それまでも風邪で咳込むときなどには、直哉に近づかないように注意していたが、そうはっきりと言われれば傷ついた。だが彼女が間違っているとも思えなくて、結局それから、体調を崩した日は部屋で一人で過ごすようになった。
 父親は忙しい人だったし、直哉は遅くまで練習だから、夕食は母親と二人になることが多い。彼女は直哉のためにスポーツ選手の食事メニューを学び、友聖との食事の後で夜食や翌日の下拵えを始めた。栄養学の分厚い本を読みながら直哉の帰りを待つ彼女に、友聖は次第に自分のことを話さなくなっていった。
 そしてその年の冬、友聖にとって忘れられない出来事が起こる。
 十二月の寒い日だった。数日前から引いていた風邪が悪化して、友聖は土曜の午前授業を終えるとすぐに家に帰って横になっていた。母親はその日外出していた。一人だったが、その頃にはもう薬や体温計も友聖の部屋に置かれていたから不自由はなかった。
 今日明日は休診日だから、月曜に休んで病院に行かなければならないだろうか。月曜は理科の実験があるし、それに学校に欠席の連絡を入れるときの母親が少しだけ不機嫌になるから、できれば休みたくない。なんとか明日中に治ればいいけれどと思いながら、一時間ほど眠った後だった。
 目を覚ますと、そこに直哉の姿があった。
「お兄ちゃん?」
 気づいて、慌てて口元を手で覆った。彼に風邪をうつしてはいけない。
「お兄ちゃんダメだよ。僕が風邪のとき近づいたら、お母さんが怒る」
「今日母さんは夕方まで帰らないよ」
「でも、風邪が」
 心配する友聖に、直哉が優しく笑う。
「俺は鍛えているから大丈夫」
 そう言って、ベッドの脇から友聖の髪を撫でてくれる。
 その頃の直哉は、大人たちに大事にされながら、少しも思い上がったところがなく、逆に冷静に周りを見渡すことのできる子どもだった。たった二つしか違わないのに自分より遥かに大人びた彼が好きで、だからこそ絶対に迷惑は掛けたくないと思っていたのだ。
「ごめんな、ゆう」
「何が?」
 突然の謝罪に訳の分からないまま見上げれば、彼が怒ったような顔をしていた。
「ゆうはまだ小学生なんだ。具合の悪いときは普通、母親が看病して病院にも連れていくものだろ? 母さんがゆうを放っておくのは俺のせいだ」
「違うよ」
 起き上がって必死に否定した。直哉がそんな風に思っていたなんて知らなかった。ベッドでの心細さも、一人の食事もたいしたことではない。世の中には親から暴力を受けたり、食事も与えてもらえない子どもがいる。自分は食事も洋服も病院に行くお金も貰えて幸せなのだ。未熟な知識の中でそう思ってきた。寧ろ家族の手を煩わせたり、直哉の邪魔をしてしまうことの方がずっと苦痛なのだ。拙い言葉で懸命に伝えれば、直哉が哀しそうに笑う。
「俺が小学生のときは野球のことばっか考えてて、ゆうみたいに色々考えてなかったな」
「お兄ちゃん」
 自分は何か兄を哀しませるようなことを言ってしまっただろうか。直哉の表情におろおろする友聖をまたベッドに寝かせると、彼は掛けものを掛け直して優しく胸に手を置いてくれた。
「ゆう。俺、プロになりたいんだ」
「うん。なれるよ、お兄ちゃんなら」
 大歓声の球場で活躍する直哉の姿を思い描いて、友聖は嬉しくなった。彼も笑って友聖の頬を軽く抓る真似をする。
「プロになって自分で稼げるようになったら、俺がゆうを護るから」
「護る?」
 幼い友聖にはピンとこない言葉だった。テレビの戦隊ものを思い浮かべる。ヒーローは悪者に襲われる人間を護るけれど、自分の周りに悪者はいない。首を傾げる友聖に直哉が静かに続ける。
「ゆうが病気のときも気を遣わないで過ごせる家でさ、二人で暮らそう」
 漸く彼の言いたいことを理解した。
「お父さんとお母さんは?」
 直哉と二人で暮らす。それはどんなに楽しいだろう。想像して嬉しくなる。嬉しすぎて逆に上手く伝えられなくて、何故か両親の心配をしていた。
「父さんと母さんにはもう一軒別の家を買ってあげる。活躍するピッチャーって凄い給料貰うんだ」
「ほんと? ほんとにお兄ちゃんと暮らせる?」
「うん。約束」
 そのときの直哉は、とても子どもっぽく笑った。
「ゆうの欲しいものはなんでも買ってあげる。今から考えておけよ」
「うん!」
 元気よく言った。嬉しくて仕方ないのに何故か泣きそうになって、けれど男が泣くのはおかしいと思って我慢する。
 満足そうに笑った直哉が、その後母親が帰るまでずっと傍にいてくれて、友聖はぐっすりと眠ることができた。
 彼が熱を出したのは、その二日後の晩だ。
 たいした風邪ではなかった。学校を一日休んだだけで翌日には朝練にも復帰したが、母親はやはりそのことを気に病んだ。
 水曜の晩、学校には行けるようになったがまだ本調子ではなくて、友聖は自室で静かにしていた。そこに二人が言い争う声が聞こえてくる。
「いい加減にしろよ! 風邪くらい誰だって引くだろ!」
「友聖の風邪がうつったんじゃない!」
 そっと部屋のドアを開けて聞いた言葉に消えてしまいたくなる。母の言う通り、直哉の風邪は自分のせいだと思っていた。
「母さんおかしいよ。ゆうは何も悪くないのに、どうして酷い仕打ちをするんだよ」
「酷い仕打ちなんてしてないじゃない。食事だって掃除や洗濯だって、学校のことだってちゃんとやってる」
「けど一人で食事をさせてるじゃないか! 病院にも連れていってやらないじゃないか!」
 普段穏やかな直哉が声を荒げている。友聖にとって何よりそれが辛かった。直哉の感情を乱したくない。いつもの彼に戻ってほしい。そう思って、掛ける言葉も見つけられないままリビングに下りてしまった。そこで母親の視線が友聖を捉える。
「友聖! 下りてきちゃダメじゃない! またお兄ちゃんに風邪をうつしたらどうするの」
「あ、ごめんなさい」
「いいよ、ゆう。こっちにおいで」
 母親の剣幕に驚いて部屋に戻ろうとする友聖を、直哉が引き止める。
「ダメよ!」
「どうして家族がリビングにいちゃいけないんだよ! 母さん最低だ!」
「なんてこと言うの!」
 見たことのないような言い争いに、友聖は何も言えず、階段の途中に立ち尽くしてしまう。それが母親の怒りを煽った。
「早く部屋に戻りなさい! これ以上お兄ちゃんを煩わせないで! お兄ちゃんは友聖とは違うんだから!」
 何を言われたのか理解するのに時間が掛かった。
 お兄ちゃんは友聖とは違う。そんなこと、言われなくても知っていた。だが改めて言われて、気がつけば涙が零れている。
「ゆう!」
 直哉が呼ぶのに構わず部屋に駆け上がって、友聖はベッドで小さくなった。部屋のドアを叩く音がしたが、掛けものを被って耳を塞いでしまう。もう何も聞きたくなかった。小さく丸まって、消えてなくなってしまいたかった。
 そこから記憶は曖昧になる。後から聞いたところによれば、直哉はもう野球を辞めると言って家を飛び出し、数時間後に、担任で野球部の顧問でもある教師と戻ってきたらしい。残業中にパニックになった母親から連絡が入って、身が縮む思いだったと父親が静かに笑った。
 教師にどのように諭されたのか知らないが、直哉は翌朝いつも通り朝練に行った。その日から、友聖の目にも分かるほど、彼は野球一筋の生活をするようになる。
 母親は後日友聖に詫びてきた。それが自分の意思なのか、父親や教師に諭されてのことなのかは分からないが、直哉と言い争って気が立っていたと言う彼女に、気にしていないと無邪気を装い笑った。だがそうしながら、その事件の後、友聖は体調が悪くなくても極力家族と食事を共にしなくなった。家族が家にいる日は誰かしら呼びにくることもあったが、体調が悪いと何度か拒むうちに何も言われなくなって、友聖が一人で食事をするのは高月家の暗黙のルールになった。
 直哉には野球の名門校への推薦の話が持ち上がり、母親の思考はますます彼で占められた。練習や遠征、学校見学や野球部の親たちとの付き合いで休日も家を空けることが多くなって、その頃から母親がいない日は自分で料理をするようになった。直哉がこの家で快適に過ごしてくれることが望みだったから、自分を不幸だと思ったことはない。
 忙しい人だった父親が、たまの休日に友聖と二人になると、宿題を見てくれたり本屋に連れていってくれたりした。彼の分も昼食を作れば喜んで、そして時々ごめんなと言う。その気持ちだけで充分だった。
 中学高校と、できるだけ体調を崩さないよう、家族の手を煩わせることがないよう静かに過ごした。家から通える公立の大学に進学して、授業が終わった後は体調の許す限り学習塾のアルバイトをするようになったから、両親と顔を合わせることも少なくなった。
 卒業後は就職先を見つけて家を出た。実家から通えない距離ではなかったが、安くはない家賃を払ってでも、心穏やかな生活が欲しかった。
 直哉は高校卒業と同時にプロの世界に入り、二軍での調整を経て、一流と呼べる選手に成長していた。一軍に上がるときに球団の寮を出て一人暮らしを始めた彼は、忙しい合間を縫って食事や酒に誘ってくれた。だがそれは理由をつけて、かなりの割合で断っている。彼には会いたい。だがどうしても過去に母親に投げられた言葉が友聖を躊躇わせる。会えばまた迷惑を掛けてしまうような気がして、正直怖い。
 それでも会えば彼は優しくて、年に二、三度会う時間が、友聖にとって掛け替えのないものになっていた。
「ご実家に帰ることは?」
 話し終えれば、佐々木が静かに聞いてきた。
「法事でもなければ帰らないかな。お盆やお正月も、旅行に行くとでも言えば煩く言われないし。嘘だってことはばれているんだろうけど」
「そうですか」
 言いながら、彼が友聖の腰に腕を回してくる。
「こら」
 やんわり咎めてみるが、離すどころか更に腕に力を籠めてしまう。
「嘘はよくないですから、来年のお正月は本当に二人で旅行に行きましょうね」
「まずそこなの?」
 実は少しだけ彼の反応に怯えていたから、予想外の台詞にふっと肩の力が抜ける。佐々木もそれが分かるのか、友聖の髪に触れて撫でてくれる。そんな風にされれば、仲のいい恋人の隣にいるみたいに、穏やかな気持ちになってしまう。
「温泉でもいいし、ベタにハワイとかグアムでも、とにかく暖かいところがいいですね」
「意外。格好よくスキーとかやっていそうなのに」
「できないことはないですけど、この歳になると寒さが身に染みますよね」
「この歳って」
 その言い方に笑ってしまう。
「関節が痛むんですよ」
 更に友聖を笑わせるようなことを言い、一頻り笑い合った後で、佐々木がなんでもないことのように言った。
「もう、歩み寄ってもいいんじゃないですか」
「うん。自分でもそう思うよ」
 仰向けに戻って、何故か素直に答えることができた。
「恨んではいないんでしょう?」
「全く」
 本音だった。
 彼女は彼女で追い詰められていたのだ。地方大会の遠征費用は学校や地域の寄付金からも出ていたし、他のポジションに比べて替えのきかないピッチャーを、風邪なんかで欠場させる訳にはいかないと思ったのだろう。それに、一年生からエースで活躍する直哉をよく思わない親たちもいただろうし、彼らとの付き合いも楽ではなかった筈だ。
 当時は分からなかったが、大人になってから分かったことが沢山ある。母親が余裕をなくすのも無理はない。最近はそう思うようになった。ただ、長く家族と距離を置いてきたから、今更どう接していいのか分からないのだ。
 考え込んでしまう友聖の耳に、佐々木の静かな声が届く。
「友聖がご家族と仲よくしてくれないと、僕がご挨拶に行けないじゃないですか」
「ご挨拶?」
「友聖さんを僕にくださいって」
「ちょっと……! こんなときまで何を言ってるの」
 頬を膨らませて抗議すれば、佐々木が目を細めて笑う。なんだか彼の手のひらで転がされているようだ。だが別に嫌な気持ちではない。久しぶりに帰った息子が同性の恋人を連れていたら、両親はさぞ驚くだろう。逆に過去の気まずさなど一度に吹き飛んで、それはそれでいいかもしれないと、想像して笑ってしまう。
「僕は本気ですよ」
 油断していたら、ごく自然に唇が触れた。
「もう、また!」
「好きです、友聖」
 そのまま頬や首筋にキスが降りてくる。
「ちょっと!」
 彼がふふと笑って、抵抗する友聖を腕に包み込む。
「ありがとう。僕に話してくれて」
「そんな。お礼を言うのはこっちだし」
 彼の胸に顔を寄せる形になって、もごもごと言う。そんな友聖の髪に、また彼の手が触れてくる。優しく撫でられれば、三つしか離れていないのに、なんだか親に甘えさせてもらっている気分になる。
「僕はこれからもずっと、友聖の傍にいます」
「佐々木さん」
 なんだか泣きそうになって、堪えるのに苦労した。ダメだ。ここで泣いたら襲われる。わざとそんなおかしな思考で、気持ちを逸らしてみる。
「……好きにすれば」
 漸く出てきたのは、我ながら素直じゃない言葉だった。できればずっと一緒にいてほしい。そんな本音はまだ言葉にする勇気がない。それでも、佐々木はその答えに満足してくれたらしい。
「寝ましょうか」
「うん」
「腕枕なしで寝られます?」
「寝られるって」
 彼に話してよかった。ただ静かに生きてきた自分の人生が、これから少し変わるのかもしれない。そんなことを思って目を閉じた。
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