目覚めたら傍にいて

 それから一週間、友聖は普段通り仕事に行き、佐々木はそれまで以上に友聖の前に現れた。もう、傍にいるのが当たり前になってしまっている。
 流石に彼の告白が悪ふざけなどでないことは理解したが、友聖は未だ彼に対する気持ちを上手く形にできないでいた。
 恋愛がしたくない訳でも、しないと決めている訳でもなかった。短い間だが付き合った女性もいる。だが身体の弱い総務部員という立場が引っ掛かって、友聖の方から距離を置いてしまった。もし相手が結婚を考えていたら、自分はそれに応えられる男だろうか。もし子どもができたら、大人になるまで育ててあげられるだろうか。営業部のように成果に応じたプラスアルファがある訳ではないし、友聖の職場の総務は昇給も一番控えめな部署なのだ。一人静かに生きていく分には問題なくても、一家を養っていくとなると話は違う。そもそも自分が長生きできる体質だとも思わない。そんなことを悩むうちに、見切りをつけた女性の方から別れを告げられてしまう。女性に迷惑を掛ける訳にはいかないから、自分はもう恋人は諦めた方がいいのかもしれない。そう漠然と思っていた部分はあった。
 でも、だからといって男性と恋愛がしたいと思ったことはない。もし友聖が佐々木を好きになったとして、その先男同士でどんな関係になればいいのか。そんなことも考えるし、そもそも彼が言う『護衛』について何も分かっていない。だが分からなくても困らないほど現れて愛情をくれるから、なんというか危機感を持つことがない。
 このままでいいのだろうかと思いながら、余計なことを言って彼が来なくなるのも寂しいから、現状維持でいようかと、少し狡いがそんな風に思って過ごしていた。
「お先に」
「お疲れさまです」
 その日は定時で仕事が終わり、広瀬が先に席を立った。友聖も片付けを終えて社員証をタイムレコーダーに翳したところで、一人の社員が駆けてくる。
「高月さん」
 ピ、と機械が音を立てると同時に慌てた声で呼ばれた。執務室の出入り口に目を遣れば、広瀬がちょうどドアを抜けるところだ。目の前の彼も、やはり総務部長に叱られるのを避けたかったのだろう。
「お願いがあります」
「何?」
 できれば退勤処理をする前に来てほしかったと思いながらも、帰る社員の邪魔にならないように彼を総務のスペースに誘導してやる。販促課二年目の遠野という男性社員。顔を見ただけで名前も部署も分かってしまうほど、自分もベテランになったのだなと、改めて感じる。
「広瀬さんには内緒の話?」
「はい」
 冗談めかして聞いたが、彼が真面目な顔で認めてしまうから、ふっと笑ってしまう。
「俺、昨日の帰りに一分早く打刻しちゃったんです」
「うん。そうみたいだね」
 上席以外の勤怠管理は総務部で担当しているから、彼がうっかりミスで早退扱いになってしまったことは知っていた。昼に彼のデスクに申請書を置いておいたのだが、提出がないから明日にでも催促に行こうと思っていたのだ。
「なんとかなりませんか?」
「ごめん。無理かな」
 ベテラン総務で、後輩の頼みに甘い自覚もある友聖だが、できないことはできなかった。この職場のタイムレコーダーは絶対で、定時より数秒早くカードを翳してしまっただけでもアウトなのだ。当然、急な早退扱いということで勤怠評価にも影響する。彼はそれを恐れているのだろう。
「俺、今月遅刻が多くて、これじゃまずいと思って心を入れ替えたんです。それが、昨日は友達と約束があって浮かれていて、つい帰りにミスっちゃって」
「うん。気持ちは分かる。でも、一度打ってしまった数字は誰にも動かせないんだ」
「そこをなんとか」
「えっと。だからね」
 お前が悪い。諦めろ。そう言えないのが友聖のいいところで、悪いところだとも思う。
「俺にできるのは、遠野くんが書いてくれた勤務変更申請書を明日の朝一で上司に回すことくらいだよ。書類は早いほど印象がいいからね。今のうちに書類を書いて、明日は気持ちをリセットして仕事に来たらどう? 大丈夫。この会社はそう簡単に若い社員をクビにしたりしないから」
「俺はもうダメかも。悪い前例になりそう」
「そんなことないよ。遠野くんが可愛いものだと思えるくらい、勤怠が守れない社員もいたんだから。名前は教えないけど。その人たちも今は立派な戦力になっているんだよ。だから大丈夫」
 嘘だった。いや、正確には話を百倍くらいに盛っている。だがこれは許される嘘だろう。
「今日は早く寝て、明日はいつもより少し早めに出勤してみたら?」
 そんな言葉に漸く納得してくれた彼にもう一度申請書を出してやり、最後に「迷惑を掛けてすみませんでした」と頭を下げてくれた彼を、手を振って見送った。
「……俺はお母さんか」
 誰もいない総務スペースで呟いて、そんな自分に笑ってしまう。腕時計を持ち上げて見れば定時から三十分過ぎていた。こっちはサービス残業だと独り言ちる。だが長年の生き方のせいか生まれつきか、怒りが湧くという感覚にはならない。それがいいことなのかどうか分からないが、とりあえず総務に向いている性格のような気はしている。
 いいことだ。自分に合う部署で、いい上司と仕事をしている。自分は幸せだ。不満も不足も一つもない。それは本心だ。だが時々これでいいのかと思うこともある。
 何かを手に入れるために必死になる情熱が、自分にはない。抑えている訳ではなくて、本当に何が望みなのかが分からないのだ。
 ずっと家族に引け目を感じて生きてきた。欲しいものを欲しいと言えなかった。何もいらないフリを続けているうちに、本当に欲しいものがなくなってしまった。
 綺麗な色のパプリカとか、たまに発泡酒じゃないビールとか、コンビニで一番高いデザートとか。そんなもので自分の奥にあるものを誤魔化していることは分かっている。だが分かったところでどうしていいか分からない。付き合っていた女性に別れを告げられたとき、うん、分かったと静かに返して、少しは哀しくないのかと、中身の入ったペットボトルを投げられた。大事にしてあげたいとは思ったが、今思えば、多分その女性のことも本当に欲しい訳ではなかったのだろう。そんな自分が哀しい。
 ピンポーンとエレベーターのドアが開く音で我に返った。途端に、たかが三十分の残業で何を感傷的になっているのだと笑ってしまう。
 コンビニで一番高いビールを買って帰ろう。新商品のデザートがあればそれもつけよう。
 そんなことを思いながら一人のエレベーターで一階まで下り、職場のビルを出る。
 遅くなっても問題ない。どうせ自分は独り身だ。そう癖のように考えてしまったところで、ふと足が止まった。
 いや、最近そうでもない。いやいや、今日も来られて堪るか。一体彼は自分のなんなのだ。彼のことを考えた途端に、感情がそれまでと逆方向に動く。
 今夜は彼が現れないうちに部屋に鍵を掛けて寝てしまおう。そう思い、つい駅に向かう足が速くなる。二度の乗り換えをして慣れた駅に帰り着き、自動改札を抜ける。今日はコンビニにも帰り路にも家の前にも現れなければいい。そんな気持ちで部屋に帰ろうとして、そこで視界の隅に映ったものに足が止まる。
「あ……」
 振り向けば駅の傍の自販機の囲いに背を寄せて、彼が本を読んでいた。本に夢中でこちらに気づいていない。友聖に冗談を言うときとは違い、その顔は静かで綺麗だった。秋の弱い風に、長めの前髪が静かに揺れる。きっと読んでいるのは友聖が理解もできないような本なのだろう。彼がページを捲る姿に見惚れて、駅の前に立ち尽くしてしまう。
「あの、佐々木さん?」
 しばらく見ていたが、諦めて声を掛けた。途端に彼の肩が細かく震え出す。
「漸く声を掛けてくれましたね」
 どうやら友聖の存在などとっくにお見通しだったらしい。
「本を読みながら愛する人を待つ。理想のシチュエーションですよね。素敵男子バージョンの僕はどうでした?」
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