目覚めたら傍にいて

 女々しいと分かっていながら、朝起きたとき、彼がもういないのではないかと不安になった。これまで友聖に言ったことはみんな嘘で、一度抱いたら満足して去っていく。そんな、いつか観たドラマのようなことを想像する。
 だが彼はいた。十時近くまで寝てしまった友聖のために朝食を買ってきてくれていて、寝起きのぼんやりとした頭で、ありがたくいただくことになる。どこで調達してきたのか、珍しいパプリカとブロッコリーのサラダが綺麗で、どこまでセンスのいい人間なんだと感心してしまう。
「申し訳ないのですが、片付けなければならない仕事があるので一度事務所に戻ります。夕方には帰ってきますので」
 簡単にバスルームの掃除までしてくれた彼は、そう言って部屋を出ていった。
「……いや、別に帰ってこなくていいし」
 昨夜の衝撃を引き摺りながら呟いてみる。恋人でもないし、同棲をしている訳でもない。もちろん、抱いた翌日は一日中傍にいてくれなどと言うつもりもないのにと、そこまで考えてまた頬を染める。どうにも思考が乙女だ。
 一つ息を吐いて、いつもの休日と同じように掃除と洗濯にかかった。恐らく気を遣って出なかったのだろうが、朝食の間に彼の携帯が着信で震えているのに気づいていた。昨夜だって急遽ここに来ることになったのだし、仕事があるのだろう。時間が余っている訳ではない筈だ。
 昨夜のことは怒ってはいない。忘れてくれと言うなら忘れる。彼が今夜ここに来なくても、この先態度が余所余所しくなっても、それならそれでいい。大人なのだ。人生に一度くらいこんなハプニングがあってもいい。だがそれにしても、自分は一体なんてことをしてしまったのだろう。結局思考はそこに辿り着く。
 家事が済めば、ソファーで横になってしまった。巡る思考と裏腹に、身体はソファーに沈んだまま動かない。考えすぎて体力を消耗しているのだ。
 そもそも彼は護衛だと言ったじゃないか。それがどうしてこんなことになっているのだ。肝心の護衛については何も聞かされていないというのに。
 落ち着かないまま佐々木のことばかり考えていれば、時間はさっさと過ぎてしまう。
「お待たせしました」
 そう、当たり前のように彼が戻ってきたのは、まだ空が暗くなる前だった。
「自分の車を持ってきてみたんです。よければドライブでもしませんか?」
 いつもながら綺麗な微笑みで言われて、断る理由がないので彼の車に収まることになる。
「朝のサラダを気に入ってくれていたみたいなので、色々な野菜が食べられるレストランに行ってみませんか? 珍しいパンや大豆のハンバーグなんかもあるので」
 今夜は重いものは食べられないと思っていた友聖には文句なしのチョイスだった。うん、ありがと、と短く言って窓の外に顔を向けたのは、彼が特に頓着することなく運転しているのが、結構な高級車だったから。日本有数の自動車メーカーのもので、四、五百万はすると、ほとんどペーパードライバーの友聖にも分かる。少し珍しいメタリックブルーの外装も似合っていて、これで迎えに来られれば若い女性ならいちころだろうと思ってしまう。若くもない男の友聖でさえ、くらくらしているのだ。
「どうかしました? 気分でも悪くなったのなら言ってくださいね」
 信号待ちで向けられるのは優しげな表情と気遣いで、もう、お前はどこかの少女漫画から出てきた男かと聞いてやりたくなる。
「昨日は初めての経験をさせてしまいましたから。まだ身体が驚いたままなんじゃないかと、心配していたんですよ」
 いや、少女漫画の男はこんなことを言ったりしない。
「……別に、身体は平気」
「それならよかった。では少しずつ慣れてもらって、そのうち最後まで愛し合いましょうね」
「ちょっと!」
 綺麗な顔で運転しながら言う台詞ではない。そもそもまた抱くつもりなのかと、心の中の突っ込みは尽きない。
「あ、もちろん身体が目的ではありませんから安心してください」
 さらりとそんな言葉を続けるから、もうどうしていいか分からなかった。
「愛していますよ、友聖」
 彼が満足げに言ったところでレストランに到着して、言い返せないまま、素朴な内装のテーブル席に案内される。
 絵本のようなメニューには彼が言うように沢山の野菜料理が並んでいて、蓮根とパプリカの炒めものと鶏肉のリゾットを選んでみた。職場の同僚との食事なら控えめすぎて笑われてしまいそうなチョイスだが、もう佐々木の前なら何を恥じることもないだろうと、堂々と好きなものを頼んでやる。想像通りというのか、佐々木は友聖のチョイスにプラスアルファをして楽しんでくれる。
 単に彼の適応力が高いだけなのかもしれないが、それにしても、友聖にとって彼の傍は居心地がいい。居心地がよすぎて小さなことはどうでもよくなってしまうから困りものだ。
「……おいしい」
「よかった。事務所の後輩はがっつりした食べものが好きなので、この店には誘いづらかったんですよ。いつか誰かを誘って来てみたかったんです」
 彼が頼んだ蓮根のはさみ揚げを一つくれながら、彼がしみじみと言う。こんな女性が好きそうな店なら、恋人でも作って連れてくればいいじゃないかと言う勇気が、もう友聖にはなかった。「そうですね。男性と遊んでいる場合ではないですよね」などと返されたら、落ち込んでしまう自分を知っているから。自分のものだと宣言する気はないのに、いなくなるのは惜しい。勝手な気持ちだと思う。だが本当にどうしていいのか分からないし、急いで答えを出すようなものでもない気がする。
「もう少し一緒にいてもいいですか?」
 店を出たところで聞かれて頷けば、車で十分程走った小さな公園に連れていかれた。
「少し行ったところに新しく大きな公園ができたので、ここはあまり人が来ないんですよ」
 コインパーキングに車を駐めた彼と並んで向かった先は、その言葉通り外灯とベンチが一つずつあるだけの場所だった。けれどベンチの奥にはメタセコイアの木が並んでいて、もうすぐ綺麗な紅葉が見られるだろうと思う。友聖好みの場所だ。
「花火をしましょう」
「花火?」
「そう。コンビニに寄ったら売っていたんです。派手なものは残っていなかったんですけど」
 そう言って鞄から花火の細い袋を取り出した彼は、ついでに携帯で手早く時間を確認した。
「この公園は夜十時以降は花火禁止なんです。でもまだ大丈夫」
「そんな細かなルールがあるんだね」
「ええ。大抵は公園の所有者によって決められているんです。今は全面禁止のところも多いですけどね」
「流石」
 ユーティリティライターまで買ってきてくれた彼に、ぽつりと零れた。短い時間でもきちんとコインパーキングに駐めるところも、花火の時間も、彼はみんなきちんとしている。レストランやコンビニ店員への態度にも文句のつけようがない。ここまでできた人間が、どうして自分の傍にいてくれるのだろう。それとも、今この時間も護衛の仕事中なのだろうか。それを思えば少し哀しい。
「弁護士の仕事もしていますからね。法律や条例は守らないと」
「護衛と言って俺に近づいて、了解もなく抱いたのは違反だけどね」
 しんみりしてしまった気持ちを散らすように言ってみれば、彼がふふと笑った。綺麗だけれど、そこに反省の色は全くない顔。その顔に密かに安堵している。
「訴えますか?」
「弁護士さんを訴えて敵う訳がないでしょう?」
「僕は構いませんよ。法廷で友聖への愛を語るのも素敵ですし。僕はこんなにも彼を愛しているんです、って」
「佐々木さんが言うと、どれが本気でどれが嘘か分からない」
 呆れたように言ってやれば、花火を一本くれながら彼がまた笑う。
「全部本気ですよ」
「そう」
「だから安心して僕のものになってくれればいいんですけど」
 その言葉を信じてしまうのはまだ怖くて、何も言えない。それでも佐々木が友聖を急かすようなことはない。
「友聖のを先に点けますね」
「あ、うん。ありがと」
「揺らさないでくださいね。どちらが長く保っていられるか競争しましょうか」
 そう言われて彼と並んでしゃがみ込んだ。ジジ、と膨らんで小さな火花を散らす花火を見つめながら、思ったよりずっと近くにいる彼を感じている。この花火が落ちる前に答えを出さなければならないとしたら、どうするだろう。そんなことを思いながら指先に集中していれば、先に佐々木の花火の火が落ちた。あ、と声を上げた瞬間友聖の花火も落ちて、ああ、失敗したなと思う。
「友聖の勝ちですね」
「うん。なんか、小さいことでも佐々木さんに勝てるって嬉しいかも」
「僕に勝てることなんて、友聖なら沢山あるでしょう? ……友聖」
 呼ばれて顔を向ければ、ごく自然に唇が触れた。
「あ……」
 瞬く間に彼の顔が離れて、文句を言うタイミングを逃してしまう。
「勝者にご褒美です」
「俺が負けたら、自分のご褒美って言うつもりだったんじゃないの?」
「ふふ。ばれてしまいましたか」
 悪びれもなく言う彼に、友聖も次第に難しいことはどうでもよくなる。
「では二回戦」
「うん」
 楽しんでしまおうと思った。とりあえず、抱いた翌日も彼は傍にいてくれた。いくら仕事熱心な探偵でも、仕事で護衛対象と花火をしたりしないだろう。だから、今この時間は友聖のための特別だと信じていたい。
 袋の花火がなくなるまで楽しんで、何度かキスをされて、だいぶ遅れた青春みたいな時間を過ごした。また高級車で送られて、家まで帰ってくる。
 ここまでしてもらったのだ。一度家に上がってもらってお茶くらい飲んでもらうのが筋だろうかと、部屋の前で悩んでしまった。だがまた昨夜と同じことになるのが怖い。彼が嫌なのではなく、自分の気持ちも分からないままずるずると繰り返すのが怖かった。いや、それは自意識過剰で、彼はそこまで執着はないだろうか。
「今夜は紳士のフリをして帰ります」
 家の前で車のドアを開けてくれた彼が、こちらの迷いを見透かすように言った。
「あの……」
「友聖は友聖の思うままに進んでくれて構いません。思うままに進めば、いずれ僕のことを好きになる筈ですから」
「凄い自信」
「僕の長所です」
 そんな宣言に笑えば、心がすっと軽くなる。
「また会いに来ます」
「うん」
 もう、護衛に来ているんじゃないのかと突っ込むのも野暮な気がした。
「じゃあ、また」
「佐々木さん」
 最後くらい素直な言葉を伝えたくなって、車に戻りかけた彼を呼び止めてしまう。
「今日、一緒にいてくれてありがとう。昨日も……っ」
「友聖」
 たどたどしく告げた途端に抱きしめられた。額にキスをされて瞬くうちに、唇も奪われてしまう。
「お休みなさい」
 こちらの心拍数を上げるだけ上げて、彼は涼しい顔で帰っていった。
 然程時間も置かずに『また会いに行きます』というメッセージが届いて、その抜かりのなさにまた困ってしまう。
 彼がいない時間の代わりのひよこの傍で、携帯を握りしめて眠る夜になった。
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