目覚めたら傍にいて

「あ、また」
 友聖ゆうせいは気づいて足を止めた。
 このところ誰かにつけられていると思うことが続いて、今夜もそれを感じていた。多分スニーカー。少し引き摺るような足音が特徴的。いつも同じ人間だと思うが、振り向けば誰もいない。
 小さくため息が零れる。女性ではないからそう怖がることもないだろうが、やはり気持ちのいいものではない。
 立ち止まったついでに携帯を確認すれば八時を少し過ぎていた。まっすぐ部屋に帰る気になれずに来た道を引き返す。駅まで戻ってさっきと逆の路に曲がって、ファストフード店やコンビニが並ぶ明るい通りを帰ることにする。遠回りになるが、こちらは人通りも少なくない。
 マンション近くの十字路まで戻ったところで、ふと思い出して慣れたコンビニに入った。歯磨き粉とペットボトルの水を買い、バイトの女性に会計をしてもらう。自動ドアを出る頃には小さな不安も消えていた。残業で疲れているのだ。早く部屋に帰って休みたい。そうマンションに続く細い道を入っていく。
 周りは住宅地で、商店街よりはひっそりとしていた。マンションのすぐ向かいにある小さな公園も、今は誰もいなくてシンとしている。
 念のため周りに誰もいないことを確認して、外付けの集合ポストから中身を取り出した。五階建てで十部屋あるマンションだが、一階の友聖の部屋だけは集合玄関を使わず入れる造りになっている。道路に面した自室のドアだけ開ければいいのだ。防犯面で劣るから、他の部屋より少しだけ家賃が安い。
 庶民中の庶民のような自分が防犯に神経質になることもないだろうと、勧められるまま契約した物件だったが、まさかそれを後悔する日が来るとは思わなかった。集合玄関は暗証番号式だから、他の部屋なら部外者が勝手に部屋の前まで来る心配もないのにと、今更なことを思う。
 まぁ、つけられていると決まった訳ではない。考えてみれば部屋に大金や高価なものがあったりもしないし、自分はごく平凡な会社員だ。襲ってもなんの得にもならない。
 そう思い直して部屋の鍵を開けた。明かりを点けて、中から鍵を掛けてしまう。
 そこで突然ピンポーンとドアチャイムが鳴った。
 狙ったようなタイミングにビクリとして、手にしていたものをばさばさと落としてしまう。
 なんだ? 誰だ?
 ばくばくと治まらない胸を抱えたまま、下駄箱の前で頭をフル回転させた。後をつけてきた(と思われる)人物だろうか。まさか強盗がインターホンを鳴らしてやってくるとは思わないが、この時間に部屋を訪ねられる心当たりはない。
 ピンポーンと、もう一度チャイムが鳴る。仕方なくドアスコープに顔を近づけてみれば、ドア越しに柔らかな声が届いた。
「こんばんは、高月さん」
 声だけ聞けばセールスでも強盗でもなさそうだ。
「探偵事務所の佐々木といいます。少しだけお時間をいただけないでしょうか?」
 丁寧な言葉遣いでそんな台詞が続く。
「……探偵事務所?」
 そんな珍しい職業の知り合いはいないし、友人にもピンとくる人間はいない。ドアスコープからぼんやり見える顔にも覚えがなくて、着ているスーツが高そうだと、そんなどうでもいいことを思う。
「高月さん。怪しい者ではありません。少しだけお話できないでしょうか」
 また穏やかな声が響いてくる。これまで生きてきた経験上、悪人の声には聞こえない。
「はい。今開けます」
 急にただの来客を警戒する自分が恥ずかしくなってドアを開けた。そこに長身で整った顔立ちの男が立っている。彼がこちらに優しく微笑んでみせる。
「こんばんは、高月さん」
「……こんばんは」
 とりあえず挨拶を返しながら、じっと観察してしまった。
 長身だがひ弱な印象はない。顔立ちは綺麗だが、作りものめいた綺麗さではなく、笑うと親しみやすさが溢れる。長めに切られた前髪が少しも嫌みでなく、上質なスーツと共に知的な印象を作り出している。簡単に言うと『いい男』だ。
「夜分にすみません。どうしても今日中に一度ご挨拶をしておきたくて」
 無言で観察する友聖に気を悪くすることもなく、彼が丁寧に言った。姿形もいいがこの男はやはり声がいい。
「なかなか開けてくれないので、不審者に間違われて警察でも呼ばれたかと思いました」
 穏やかな表情が更に砕けた感じになって、なんだか見惚れてしまった。
「すみません。ちょっと驚いて」
「こんな時間に突然現れれば当然ですよね。あ、どうやらかなり驚かせてしまったみたいですね」
 玄関に散らばるチラシに気づいた男が、素早く身体を屈めて拾い集めてくれる。
「あ、えっと、そんなことをしてもらわなくても」
「いえ。やっぱり夜はチャイムを押さなければよかったですね。はい、どうぞ」
 丁寧に揃えられたチラシを受け取って礼を言う。割とよく喋る男らしいが、なんというか、仕種や言葉の一つ一つに嫌味がない。とりあえず強盗でも悪質なセールスでもなさそうだと、手のひらを室内に向ける。
「どうぞ。部屋でお話を伺いますから」
「……いえ」
 彼が一瞬戸惑いの表情を見せる。だがすぐに笑顔に戻って、遅くなりましたが、と名刺を差し出してきた。
「佐々木探偵事務所 佐々木雅紀ささきまさき
 シンプルな名刺だった。なんとなく文字を読み上げてみるが、やはりその名前に覚えはない。
「ある人から、あなたの護衛を依頼されています。本日からの契約でしたので、取り急ぎご挨拶に伺いました。詳しいことはまた改めてお話ししますので、そうだな、明日の昼休みを空けておいてもらえますか? 名刺に僕のプライベートの携帯番号を書いておきましたので、何かあれば遠慮せずに連絡してください。では、今夜はこれで」
「ちょっと待って」
 簡潔に用件を話し、一礼して去っていこうとする佐々木雅紀なる男の腕を掴んで引き止めた。
「護衛って何? ある人って誰? いきなり現れたあなたにそんな漠然としたことを言われたって、そもそもその話のどこまでが本当なのか分からないし、どうしていいか分からないじゃないですか」
 至極真っ当なことを言ったと思う。
「名刺まで出して嘘は吐かないですよ」
 だが彼は動じることなく、柔らかく微笑んで正面から友聖の肩に触れてくる。
「高月さんは今まで通り、普通の生活をしていてくれて構いません。安心してください。僕は優秀ですから」
「えっと」
「では、明日お会いできるのを楽しみにしています」
 全く答えになっていないことを言い、佐々木はまた軽く頭を下げてから背を向けた。迷う素振りも見せずに商店街の方へ帰っていく。
「あ」
 と思ったら、突然振り向いて戻ってきた。
「あなたのような人が、どこの誰とも知れない男を気軽に部屋に入れようとしてはいけませんよ。どんな危険があるか分かりませんから」
「え?」
「では、今度こそ」
 どこの誰とも知れないのはお前ではないか、と呆れる友聖を残して、彼は今度こそ去っていった。
「なんなんだ……」
 手にした名刺を見ながら、玄関に立ち尽くしてしまう。
 会ったことはない、筈だが。護衛とは一体どういうことだろう。しばらく考えていたが、そのうち答えなど出る筈もないと思い直した。
「まぁ、いいか」
 とりあえず危険なことはなかった。悪人なら堂々と名刺を置いていったりしないだろうし、明日も会うらしいから、分からないことはそのとき聞けばいい。
 軽く伸びをしてもう一度玄関の鍵を掛ける。
 余計な緊張をしたせいで疲れた。だが珍しいくらいに綺麗な人で、眼福だったのかもしれない。同性に対してその思考はおかしいだろうか。つらつらと考えながら、遅い夕食の仕度に掛かるのだった。
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