呪い師は半年後皇后になる。

 彼を想うときにいつも声にしてしまう言葉を今日も零す。名も知らぬ若い男。架夭より十は上だろう。背丈は六寸程余計にあった。後ろで無造作に縛った髪が月明かりを受けて輝いていた。その彼が一夜の気紛れで架夭を求めてくれた。もう四年も前のことだというのに、その夜を忘れられない。
 物思いに耽るうちに陽が落ちていた。呪いに日の光を使うから、陽が落ちればその日の商売は終わり。乞われれば月明かりで呪うこともできなくはないが、体力の消耗が激しく、精度も落ちるから滅多にやらない。翌日に改めてもらうか、月明かりの呪いを得意とする人間の家まで案内する。一人の客に執着はしない。それが上手くやっていく秘訣。
 という訳で、夜は一人静かに過ごすことが常だった。依頼人が報酬代わりに置いていった本を読む。物心ついたころから母子二人の質素な暮らしだったが、母親が最低限の読み書きを教えてくれたことは幸運だった。本を読んで知識を広げる。家に籠もっているから世間知らずではあるが、最低限の善悪の区別くらいは分かるつもり。そんな生活に満足している。
 午前の客が金銭の他に分けてくれた包み飯つつみいいで食事を済ませて、身体を清めて眠ろうと思った。粗末な家だが家の前には小さな井戸がある。村の多くの家では何軒かで一つの井戸を使うが、架夭の家は他の家から離れた場所にあるため独り占めできていた。呪いに来る客に、井戸が混み合っているときは使いに来ていいと言ってみるのだが、何故かみな、この家の井戸は恐れ多いと言って近づこうとしない。粗末なのにどんな雨風でも壊れない家といい、誰も使おうとしない井戸といい、この家の敷地は何か目に見えないものに護られているのかもしれない。
 つらつらと考えながら、桶に水を汲んで濡らした布で身を清めていく。清い身体は呪いに必須。その教え通り、架夭は日々身を清めることを怠らない。幸い一応の四季はあっても一年中穏やかな気候の国だから、漸く冬が明けたばかりの季節でも肌を晒すことが辛くない。
 質素な暮らしに慣れた目は、細い三日月の光でも辺りの様子を知ることができる。細やかな灯りの下で身を清め終えて衣服を戻す。さわさわと草の根を分けてやってくる足音に気づいたのはそのときだった。
「時機を誤ったようです。このような時間になってしまったことをお許しください」
 随分と礼儀正しい男が架夭の前に跪く。肌を晒していたことを言っているのだろうが気にすることでもない。
「私は男性ですから詫びる必要はありません。それよりなんの用です? 知らないようなら言っておきますが、私の商売は昼間だけです。助言を求めにやってきたのなら、手数でも明日改めた方がいい」
「いえ。私は呪いの客ではありません」
 頭の上で綺麗に髪を纏めた、身形の正しい男だった。位の高い官吏かんりか、高貴な身分の人間の側近だろう。そんな人間がこんな小さな村の呪い師になんの用だ。
燦汪さんおう様の命で参りました。約束通り妻として迎え入れる。こちらはいつでもいいから、支度ができ次第来い、と」
「燦汪様……?」
「ええ。この国の皇帝、てい燦汪さんおう様です」
 あっさりと返されて戸惑う。ここから首都改果かいかまでは五里もある。流石に皇帝の名前は知っているが、それでも生涯皇帝の姿を見ることなどないであろう村の民に、一体何を言っているのだ。それも、彼は今妻と言わなかったか。
「この国の主が何故私のところに使いを寄越すのです?」
 問えば男が意外そうに瞬いた。
「覚えがないのですか? 燦汪様は契りを交わしたと仰っていたのですが」
 そこで漸くハッとした。まさか、四年前に一晩だけ架夭の家に泊まった男が皇帝だったというのか。燦汪が父帝から皇位を譲り受けたのは八年前だ。では架夭と過ごしたときにはもう皇帝だったということだ。あの夜は敵に追われていて分からなかったが、それにしてもなんて男と一夜を過ごしてしまったのだろう。
「どうやら思い出したようですね」
 片膝をついて見上げる姿勢にも慣れているのか、彼がじっくりと架夭の表情を観察して笑う。
「そうだ、大変失礼をいたしました。私は燦汪様の側近、透尽とうじんと申します。今後架夭様の身を護るように言われていますので、なんなりとお申しつけください」
「側近……、透尽様」
 あまりのことに頭が追いつかなかった。だが次第に、自分が四年の間想ってきた男が約束を果たそうとしてくれていると気づいて、胸に嬉しさが込み上げる。いや、喜ぶ前に聞いておかなければならないことがある。
「透尽様に聞いて分かることかどうか分からないのですが」
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