シリアルラブ
職場から徒歩五分の地上駅から電車に乗って十三分。珍しく座席の端が空いていて、座って本を広げる。『パラレルワールドの夢』。胡散臭い自称科学者が書いた本だが、貢には精神安定剤で、いつも鞄に入っている。その日もぱらぱらと捲ってみるが、座れた安堵から眠気に襲われた。たった十分で着くから寝るとマズい。分かっているのに抗えない。内田が辞めたことで、気づかない疲れが溜まっていたのか。そう思ううちに意識が落ちていく。バタンと足元に本が落ちる感覚に我に返った。
「すみません!」
座席の前の男性の足の上に落ちた。慌てて拾おうとすれば、一瞬早く拾い上げて差し出される。
「どうぞ、宝木さん」
「海原さん」
少し前に別れたばかりの男と再会する羽目になった。
「同じ電車だったんですね」
「……だな。まさか会うとは思わなかったけど」
昼間散々彼の心配しておいて、自分が電車で眠るなんて大恥だ。だがそこで慌てて饒舌になるような貢ではない。別に相手に好かれようと思っていないから、恥は恥のままでいい。
「駅どこ?」
「高輪ゲートウェイ」
貢より二つ前の駅だ。この路線で一番最近できた駅で、駅前もまだ開発途中。未来ある駅というのが彼に相応しい。いくらでも未来を選べる若者。歳の差はたった一つなのに、何故かそう思ってしまう。
「宝木さんはどこですか?」
「大井町」
「え、いいな、大井町」
「そうか?」
意外な反応に瞬いた。便利な駅で貢は気に入っているが、それほど有名な駅ではない。ああ、社交辞令というやつか。業後まで気を遣わなくていいのにと、無言で考える貢に気を悪くする様子もなく、彼はさらりと話題を変える。
「意外な本を読むんですね。非科学的なことは嫌いかと思っていました」
手に持ったままでいた本を指されて困ってしまう。仕事の指示ならいくらでも出せるが、雑談が馬鹿みたいに苦手。この本を読んでいる理由を話す気はない。話したところで信じてもらえない。ではそんなときなんと応える? 当たり障りのない嘘を吐く? さて、当たり障りのない嘘とはなんだろう。
「……パラレルワールドは非科学的じゃない」
ぐだぐだ考えた末に出てきたのがそれだった。知らない者にとっては意味不明の台詞。全く、後輩相手にミスばかりだ。
「悪い。おかしなことを」
「いえ、量子力学のことでしょう?」
言われて驚いた。量子力学論でパラレルワールドの存在を肯定する物理学者がいる。と、そんな知識を持つ人間に出会う可能性はかなり低い。彼は一体何者なのだろう。
「学生時代に専攻していた?」
「まさか。以前何かのテレビで観たってだけですよ。詳しく解説していて」
だとしても記憶力はいい。不器用な会話を続けるうちに彼の最寄り駅に着いてしまう。
「少し仕事が落ち着いたら、ゆっくり話しましょう」
「シス管の仕事は落ち着かない」
「それは残念。あ、そのチャームも可愛いです」
言うだけ言って、軽く手を振って彼は降りていった。
「もってなんだよ」
他のどこに可愛いものがあるんだ。心で突っ込みながら、本をしまって、彼に目敏く見つけられたチャームに触れる。小さな鎖にクローバー型の飾りがついたそれは、貢が保育園時代に貰ったものだ。クローバー型なのにピンク色。四つのうち一片は、輝くことを諦めたように色がくすんでいる。その理由は考えたくない。いっそなくなってしまえと随分と雑に扱ったりしたが、クローバーは貢から離れようとしない。落ちてなくなることも、どこかにぶつかって壊れることもない。仕方がないので通勤用の鞄にぶら下げているという訳だ。
「あ……」
そこでピンク色の一片がきらりと光った。ドキリとするが、手のひらに乗せてみればいつもと変わらない。電車の揺れで錯覚しただけだろう。そう安堵したところで大井町に到着する。
多分、彼は明日、電車で見たことには触れずに仕事をしてくれるだろう。長いホームを歩きながら、何故か海原のことを思う。激務に動じる様子もない。ひと月以内に退職なんて絶望的なことにはならなそうだ。貢の不愛想にも順応してくれる。今のところ欠点が一つもない。逆に貢が欠点ばかり見せている。
「まぁ、完璧な先輩と思われるより楽か」
二人でシス管の仕事ができれば、別に彼に好かれる必要もない。ただ、貢ばかり彼のありがたさを享受している気がするから、何か返せたらいいと思う。
「量子力学、か」
イケメンでシゴデキで博識。随分と稀有な存在がやってきたものだ。珍しく他人のことを思いながら、長いエスカレーターで運ばれていくのだった。
「すみません!」
座席の前の男性の足の上に落ちた。慌てて拾おうとすれば、一瞬早く拾い上げて差し出される。
「どうぞ、宝木さん」
「海原さん」
少し前に別れたばかりの男と再会する羽目になった。
「同じ電車だったんですね」
「……だな。まさか会うとは思わなかったけど」
昼間散々彼の心配しておいて、自分が電車で眠るなんて大恥だ。だがそこで慌てて饒舌になるような貢ではない。別に相手に好かれようと思っていないから、恥は恥のままでいい。
「駅どこ?」
「高輪ゲートウェイ」
貢より二つ前の駅だ。この路線で一番最近できた駅で、駅前もまだ開発途中。未来ある駅というのが彼に相応しい。いくらでも未来を選べる若者。歳の差はたった一つなのに、何故かそう思ってしまう。
「宝木さんはどこですか?」
「大井町」
「え、いいな、大井町」
「そうか?」
意外な反応に瞬いた。便利な駅で貢は気に入っているが、それほど有名な駅ではない。ああ、社交辞令というやつか。業後まで気を遣わなくていいのにと、無言で考える貢に気を悪くする様子もなく、彼はさらりと話題を変える。
「意外な本を読むんですね。非科学的なことは嫌いかと思っていました」
手に持ったままでいた本を指されて困ってしまう。仕事の指示ならいくらでも出せるが、雑談が馬鹿みたいに苦手。この本を読んでいる理由を話す気はない。話したところで信じてもらえない。ではそんなときなんと応える? 当たり障りのない嘘を吐く? さて、当たり障りのない嘘とはなんだろう。
「……パラレルワールドは非科学的じゃない」
ぐだぐだ考えた末に出てきたのがそれだった。知らない者にとっては意味不明の台詞。全く、後輩相手にミスばかりだ。
「悪い。おかしなことを」
「いえ、量子力学のことでしょう?」
言われて驚いた。量子力学論でパラレルワールドの存在を肯定する物理学者がいる。と、そんな知識を持つ人間に出会う可能性はかなり低い。彼は一体何者なのだろう。
「学生時代に専攻していた?」
「まさか。以前何かのテレビで観たってだけですよ。詳しく解説していて」
だとしても記憶力はいい。不器用な会話を続けるうちに彼の最寄り駅に着いてしまう。
「少し仕事が落ち着いたら、ゆっくり話しましょう」
「シス管の仕事は落ち着かない」
「それは残念。あ、そのチャームも可愛いです」
言うだけ言って、軽く手を振って彼は降りていった。
「もってなんだよ」
他のどこに可愛いものがあるんだ。心で突っ込みながら、本をしまって、彼に目敏く見つけられたチャームに触れる。小さな鎖にクローバー型の飾りがついたそれは、貢が保育園時代に貰ったものだ。クローバー型なのにピンク色。四つのうち一片は、輝くことを諦めたように色がくすんでいる。その理由は考えたくない。いっそなくなってしまえと随分と雑に扱ったりしたが、クローバーは貢から離れようとしない。落ちてなくなることも、どこかにぶつかって壊れることもない。仕方がないので通勤用の鞄にぶら下げているという訳だ。
「あ……」
そこでピンク色の一片がきらりと光った。ドキリとするが、手のひらに乗せてみればいつもと変わらない。電車の揺れで錯覚しただけだろう。そう安堵したところで大井町に到着する。
多分、彼は明日、電車で見たことには触れずに仕事をしてくれるだろう。長いホームを歩きながら、何故か海原のことを思う。激務に動じる様子もない。ひと月以内に退職なんて絶望的なことにはならなそうだ。貢の不愛想にも順応してくれる。今のところ欠点が一つもない。逆に貢が欠点ばかり見せている。
「まぁ、完璧な先輩と思われるより楽か」
二人でシス管の仕事ができれば、別に彼に好かれる必要もない。ただ、貢ばかり彼のありがたさを享受している気がするから、何か返せたらいいと思う。
「量子力学、か」
イケメンでシゴデキで博識。随分と稀有な存在がやってきたものだ。珍しく他人のことを思いながら、長いエスカレーターで運ばれていくのだった。