シリアルラブ
気がつけば、もう見慣れてしまった夜空の世界にいた。青い炎が浮いて、その下からいくつも道が伸びている。道の数は可能性の数。だが二度失敗してきた貢が、その道を選ぶことはない。
「保育園のときのも含めると失敗三回か」
三度も失敗した人間は、きっと正解など選べない。だから最後に望むことは決まっている。腕と背中を焼かれたから、次に焼かれるのは顔か。もう次の世界に行くことはないから怖くない。じっと炎を見つめて近づく。
「宝木貢が存在しない世界へ」
唱えた途端に炎が大きくなって貢の顔を包んだ。想像通り顔を焼かれながら、瞬かず熱さと痛みを受け入れる。
鏡がないからどんな火傷ができたか見ることができなかった。問題ない。対価を払い終えて白い道の方へと進んでいく。いくつも伸びる道のお陰で下が見えなくなっていたが、隙間がない訳ではない。近づけば道と道の間から夜空の空間が見える。ここから落ちれば望みが叶う。
三つの世界に飛んだことで、それぞれの世界に歪を生んでしまった。保育士はいなくなり、真中が事故に遭い、海原は妻子を捨てると言った。貢が消えることで全て元には戻らないかもしれない。それでもきっと、少しはいい方に回復する。
暗い空間の下に何があるのか想像できない。だが怖さはない。一本の道を進んで途中で足を止める。そこから下を見ないようにして一歩足を踏み出す。
「宝木さん!」
だがそこで声がした。振り向いて驚く。
「海原さん、どうして……」
「宝木さん、ダメだ。早く戻って」
状況が呑み込めないで動けずにいれば、駆けてきた彼に手を引かれた。そのまま強い力で炎の場所まで引き戻される。
「ああ、酷い顔になって。どれだけ熱くて痛かったか」
頬を撫でられて思わず顔を逸らす。嫌だったのではない。火傷の顔を彼に見られたくなかった。どんな惨状か分からないが、酷い顔になっているのは確かだから。
「ごめんなさい」
貢の反応に焦れたように抱きしめられた。
「ごめんなさい。俺が誤解されるような態度を取ったから。何度でも誤解を解く努力をすればよかったのに。嫌われるのが怖くて、そのせいでこんな目に遭わせてしまった」
「……何を言っている?」
まるで一番目の海原が、貢の世界移動を知っているかのような言い方だった。
「俺もよく分からないけど、でもこれ以上宝木さんを失いたくない」
「そんな、まさか」
そんなことがあるかと思った。並行世界にいる自覚があるのは移動した貢だけだ。他の人間は当たり前にその世界を生きている。それが何故。
「言ったでしょう?」
抱きしめた身体を離して彼が顔を見せる。その顔が困ったように、けれど少し悪戯っぽく笑っている。いつかも見た顔。
「俺は一度見たり聞いたりしたことはすぐできてしまうって」
ああ、そうだったと思う。仕事もピアノも料理も、彼はすぐにできてしまった。だがまさかこんなことまでできるようになるとは思わない。
「ごめんなさい。二度目も三度目も苦しませて。なんでも一度でできていたのに、宝木さんとの一度目の恋が上手くいかなくて」
そうじゃない。なんでも一度で成功させる海原の力を以ってしても上手くいかなかった恋。その原因は貢。だから彼は悪くない。
「ここを出ましょう。俺と一緒ならどうにかなる筈ですから。もう知らない世界に行くのはやめましょう?」
元々新しい世界に行くつもりはなかった。その世界の海原をまた苦しめてしまうことになるから。だが今目の前にいる彼と戻るつもりもない。そこで長くこの場に滞在することに怒ったように、青い炎が大きくなる。このままでは彼まで炎に焼かれてしまう。そんなことはさせない。その思いが貢を強くする。
「大丈夫。海原さんは元の世界に帰れる。俺のことを忘れて穏やかに暮らしていける。俺が落ちれば歪みも元に戻るから」
貢が消えれば貢だけがいない世界が上手く回る。貢だけが、自身の苦しみから逃れるために世界を移動した罰を受ける。
「……! 宝木さん!」
渾身の力で彼の身体を突き放した。そのまま地面の端まで走って、道と道の間の空間に飛び込んだ。ズッと身体が沈んで、直後に自由が利かなくなる。ただ下から強く引かれるように身体が落ちていく。次に身体の感覚を取り戻すのは、どこかに叩きつけられたときか、それともその前に貢の存在ごと消えてしまうのか。次第にそれも考えられなくなる。
「宝木さん!」
そこで声がした。
「宝木さん、待って、一人で行かないで」
何故か貢と同じように落ちてきた彼が手を伸ばす。
「どうして……」
「一度では上手くいかなかったけど、でも俺、人より抜群に順応性が高いから」
なんだその理屈はと思う。だが不思議と目一杯背負っていた苦しみが解けていく。
「掴んでください。きっと大丈夫だから」
巻き込んでいいのだろうかと迷ううちに身体が落ちて、彼との距離が開いていく。
「宝木さん、早く。ダメならまた考えればいい」
その言葉に押されて手を伸ばす。彼も懸命に腕を伸ばして指先が触れる。
「……っ」
電気のようなものが走って、そこで意識が途切れた。
「保育園のときのも含めると失敗三回か」
三度も失敗した人間は、きっと正解など選べない。だから最後に望むことは決まっている。腕と背中を焼かれたから、次に焼かれるのは顔か。もう次の世界に行くことはないから怖くない。じっと炎を見つめて近づく。
「宝木貢が存在しない世界へ」
唱えた途端に炎が大きくなって貢の顔を包んだ。想像通り顔を焼かれながら、瞬かず熱さと痛みを受け入れる。
鏡がないからどんな火傷ができたか見ることができなかった。問題ない。対価を払い終えて白い道の方へと進んでいく。いくつも伸びる道のお陰で下が見えなくなっていたが、隙間がない訳ではない。近づけば道と道の間から夜空の空間が見える。ここから落ちれば望みが叶う。
三つの世界に飛んだことで、それぞれの世界に歪を生んでしまった。保育士はいなくなり、真中が事故に遭い、海原は妻子を捨てると言った。貢が消えることで全て元には戻らないかもしれない。それでもきっと、少しはいい方に回復する。
暗い空間の下に何があるのか想像できない。だが怖さはない。一本の道を進んで途中で足を止める。そこから下を見ないようにして一歩足を踏み出す。
「宝木さん!」
だがそこで声がした。振り向いて驚く。
「海原さん、どうして……」
「宝木さん、ダメだ。早く戻って」
状況が呑み込めないで動けずにいれば、駆けてきた彼に手を引かれた。そのまま強い力で炎の場所まで引き戻される。
「ああ、酷い顔になって。どれだけ熱くて痛かったか」
頬を撫でられて思わず顔を逸らす。嫌だったのではない。火傷の顔を彼に見られたくなかった。どんな惨状か分からないが、酷い顔になっているのは確かだから。
「ごめんなさい」
貢の反応に焦れたように抱きしめられた。
「ごめんなさい。俺が誤解されるような態度を取ったから。何度でも誤解を解く努力をすればよかったのに。嫌われるのが怖くて、そのせいでこんな目に遭わせてしまった」
「……何を言っている?」
まるで一番目の海原が、貢の世界移動を知っているかのような言い方だった。
「俺もよく分からないけど、でもこれ以上宝木さんを失いたくない」
「そんな、まさか」
そんなことがあるかと思った。並行世界にいる自覚があるのは移動した貢だけだ。他の人間は当たり前にその世界を生きている。それが何故。
「言ったでしょう?」
抱きしめた身体を離して彼が顔を見せる。その顔が困ったように、けれど少し悪戯っぽく笑っている。いつかも見た顔。
「俺は一度見たり聞いたりしたことはすぐできてしまうって」
ああ、そうだったと思う。仕事もピアノも料理も、彼はすぐにできてしまった。だがまさかこんなことまでできるようになるとは思わない。
「ごめんなさい。二度目も三度目も苦しませて。なんでも一度でできていたのに、宝木さんとの一度目の恋が上手くいかなくて」
そうじゃない。なんでも一度で成功させる海原の力を以ってしても上手くいかなかった恋。その原因は貢。だから彼は悪くない。
「ここを出ましょう。俺と一緒ならどうにかなる筈ですから。もう知らない世界に行くのはやめましょう?」
元々新しい世界に行くつもりはなかった。その世界の海原をまた苦しめてしまうことになるから。だが今目の前にいる彼と戻るつもりもない。そこで長くこの場に滞在することに怒ったように、青い炎が大きくなる。このままでは彼まで炎に焼かれてしまう。そんなことはさせない。その思いが貢を強くする。
「大丈夫。海原さんは元の世界に帰れる。俺のことを忘れて穏やかに暮らしていける。俺が落ちれば歪みも元に戻るから」
貢が消えれば貢だけがいない世界が上手く回る。貢だけが、自身の苦しみから逃れるために世界を移動した罰を受ける。
「……! 宝木さん!」
渾身の力で彼の身体を突き放した。そのまま地面の端まで走って、道と道の間の空間に飛び込んだ。ズッと身体が沈んで、直後に自由が利かなくなる。ただ下から強く引かれるように身体が落ちていく。次に身体の感覚を取り戻すのは、どこかに叩きつけられたときか、それともその前に貢の存在ごと消えてしまうのか。次第にそれも考えられなくなる。
「宝木さん!」
そこで声がした。
「宝木さん、待って、一人で行かないで」
何故か貢と同じように落ちてきた彼が手を伸ばす。
「どうして……」
「一度では上手くいかなかったけど、でも俺、人より抜群に順応性が高いから」
なんだその理屈はと思う。だが不思議と目一杯背負っていた苦しみが解けていく。
「掴んでください。きっと大丈夫だから」
巻き込んでいいのだろうかと迷ううちに身体が落ちて、彼との距離が開いていく。
「宝木さん、早く。ダメならまた考えればいい」
その言葉に押されて手を伸ばす。彼も懸命に腕を伸ばして指先が触れる。
「……っ」
電気のようなものが走って、そこで意識が途切れた。