シリアルラブ

 浮かぶまま言葉にして、頬を撫でる彼の手を受け入れた。目を閉じて指先を感じる。本当は二つ前の世界でこんな幸せを積み上げて、ずっと彼の傍にいたかった。
「ストップ」
 唇が触れそうになったところで我に返った。彼には妻と、これから産まれる子どもがいる。どんな事情でも、その人生を奪っていい筈がない。
「宝木さん」
 離れようとすれば抱き寄せて止められる。だが今度は応じず、そっとその手を外してやった。
「俺たちがこの世界で上手くいくことはない」
「どうして」
「どうしてって、お前に家族がいるからだろ」
「家族と離れれば宝木さんと一緒にいられますか?」
「馬鹿を言うな!」
 思わず声を上げてしまったのは、馬鹿なことをしそうな自分を律するため。海原が貢も真中も好きにならない世界を望んだのは自分だ。その世界の他の人間を不幸にしてまで道を変える気はない。多分、変えたらひずみが生じて、いずれ自分に返ってくる。海原をそれに巻き込みたくない。
「タオルありがとう。あの二人じゃ何もできないから執務室に戻ってくれ」
 そう言って、彼に背を向けて着替え始めた。ボディシートで身体を拭いて新しいシャツに袖を通す。貢がもう振り向かないと分かったのか、彼が無言で去っていった。ドアが閉まったところでため息が零れる。
 歪はとっくに生じている。そうでなければ、何故この世界で生きている海原が貢の並行世界を知るようなことを言う? 確証はなくて漠然とした感覚なのかもしれない。けれど貢と親しくすればその感覚は大きくなる。今いる家族に違和感を覚えて、何をするか分からない。そんなことはさせない。
 自分で望んだ世界の秩序くらい護ってみせる。彼に貰ったタオルで汚れたシャツを包んで、きっちり縛ってしまう。
 その日から、彼に何を言われようと無表情を貫いた。雑談も秒で切り上げるし、二人で帰ることもしない。とにかく彼の妻が無事出産するまでは厳しい態度でいよう。自分の子が産まれれば、彼も流石に馬鹿なことは考えなくなる。そうして仕事に追われるうちに月が変わる。
 七月に入った途端に大型台風が上陸した。貢にとって三度目の台風。一度目も二度目も徒歩で帰って、途中で海原の車に迎えに来られた。それを回避するにはどうしたらいいか。数日前から考えて、会社近くにホテルを取っていた。明日はホテルから出勤すればいい。会社の傍から動かなければ、海原の車に乗ることも、そこで真中の事故を知ることもない。社内で帰宅命令が出てからも仕事を続ける。
「電車も止まってタクシーも捕まらないだろうから、仕事をしながら様子を見て、あとから帰る」
 そう言って三人を帰して一人になった。海原も配車アプリでタクシーの予約ができるまで残ると言ったが、奥さんが不安だろうからさっさと帰れと言って、真中の家の車で帰ってもらう。これでいい。ホテルに向かって一晩眠れば、漸く七月二日に進める。ずっと時間を戻ってばかりで、今年の七月二日を経験したことがない。
 海原が絶対に戻ってこない時間まで仕事をしてパソコンを落とした。以前恋人だったというのに、これじゃ彼の存在に怯えているみたいだと、ちょっとおかしくなって、同時に言いようのない苦しさに襲われる。
「あ、まだいた。もうコール部も終わりにしてビルを閉めるらしいから、早く帰れ。帰る方法あるか?」
 社員の確認のために残っていたらしい人事部の上司だった。
「大丈夫です。近くにホテルを取ったので」
「そうか。流石に用意がいいな。じゃあ、お疲れさん」
 さっぱりした態度に救われて、手早く帰り支度をして職場を出る。
 風は強いが雨はやんでいた。すぐにでも降り出しそうな湿度の中、徒歩五分とかからないホテルに向かう。こんな天気でバタバタしているだろうに、親切に接してくれた受付スタッフに礼を言い、五階のツインルームに向かった。予約が数日前でシングルが空いていなかったのだが、別にベッドが二台あろうと問題ない。清潔で機能的な部屋に安堵して、鞄を置いてすぐ窓側のベッドに横になる。
 久しぶりに静かな気分だった。残業をしなくていい。海原にわざと冷たい態度を取る必要もない一人の世界。だいぶ疲れていたのだと自覚して苦笑する。七月の五時前だというのに、窓の外は薄暗くなっていた。その暗さに誘われるように眠りに落ちる。浅く一時間程眠っただろうか。部屋のドアを叩く音に目を覚ました。
「……誰?」
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