シリアルラブ

 真中が貢のキーボードにコーヒーを零すことは分かっていた。だが今度は、水分を抜いて掃除をすれば、修理に出すまでもなく復旧する。
「穏がすみませんでした」
 水曜の残業中、海原が頭を下げた。貢のキーボードが復活したから、海原も貢の隣に戻っている。
「直ったからいい。というか、恋人のミスを詫びるんだな」
 それが結構なダメージになると初めて知った。お遊びの恋人ならそんなことはしない。家族みたいじゃないかと、無表情を保つのに苦労する。
「そういうことはしない方がいいと思っていましたけど、一昨日のコーヒーは酷すぎでしたから」
 呆れたような言い方に、あれ? と思う。
「そんな言い方していいのか? 可愛い恋人なんだろ?」
 何を傷を抉るようなことをしているのだろう。貢の捨て身の台詞にも、彼の反応はよろしくない。
「不思議なんですよね」
 モニターを見たまま彼が言う。
「好きで恋人になった筈なのに、違和感がずっと消えない」
「……何を、言っているんだ?」
 両腕の火傷以上に、怖い話を聞いてしまいそうな気がした。
「俺は宝木さんみたいな人がタイプなのに、どうして穏の告白を受け入れてしまったんだろうって、いつも考えて」
 背中にざらりとした感覚が走る。
「冗談はよせ。どうせ喧嘩でもしたんだろ。新しいタイプの惚気だ」
「だといいんですけどね」
 二人ともキーボードを打ちながら会話していたのに、そこで彼が手を止めて椅子を回す。目を遣れば彼が何か小さなものを摘まんでいる。
「分かります? 穏がクリップで作ったハートです」
 記憶が甦って胸に痛みが走った。前の世界で海原の書類に真中がつけたもの。クリップを左右に開いて作ったハート型。あのとき海原の心変わりの証のように思えたものが、また貢の前に現れる。
「仕事も覚えないうちから何をしているんでしょうね」
 ハートに力を籠めて、彼がただのクリップに戻してしまう。
「おい、いいのか? 恋人が作ったものだろ?」
 何故か貢が焦ってしまう。
「ただのクリップじゃないですか。というか、これも会社の備品なんだから玩具にしちゃいけないのに」
「錆びたり歪んだりしたものは捨てる。そういうので作ったんだろ」
 何故自分が真中を庇っているのか分からない。だが海原の気持ちをマズい方向に暴走させてはいけないという危機感に襲われる。
「とにかく惚気は余所でやってくれ。俺に惚れた腫れたは分からない」
「惚れた腫れたは当座の内。実はネガティブな諺ですよね」
 ピタリと動きが止まる。前に貢が言った台詞。
「お前……」
「ネガティブっていうか皮肉ですよね。盛り上がっている二人にそんないい方しなくてもいいのに」
「……だな」
 話の流れが変わったことに安堵して、その後は黙って仕事を勧める。もうなるべく話さない方がいい。そう思ってさっさと帰ろうとするのに、彼が貢を呼び止めてしまう。
「一緒に帰りましょう。同じ電車なんだから一緒に帰らない方が不自然でしょう? どうして今まで、意地みたいに別々に帰っていたんでしょうね」
 貢がこの世界に来てからは意識して避けていた。また好きになってしまわないように。
「悪い。仕事以外は一人にならないとメンタルが持たないんだ。じゃあ、お疲れ」
 逃げるように離れて駅に向かう。これでいい。だって彼には恋人がいる。哀しみを救うように一つ席が空いていて、座って本を開く。だがそこで電車が急停車して、足元に本を落としてしまう。
「どうぞ、宝木さん」
 顔を上げて驚く。そこに彼が立っている。前の世界で五月に起こったことが六月にやってきた。そんなサービスはいらないのに何故。
「意外な本を読むんですね。非科学的なことは嫌いかと思っていました」
 その台詞も同じ。アナウンスで急停車の理由が流れているのに、そんなものに構っていられないほど動揺している。
「なんとなくな」
 量子力学の話になるのは避けようと思った。彼に過去を打ち明けて、シリアルの方の恋人になろうと言ってもらった。その事実をこちらの世界に持ち込む訳にはいかない。
「そのチャームも可愛いです」
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