シリアルラブ

 今まで貢と海原のデスクが隣で、向かいの二席は空いていた。貢の前に真中が座って、その隣に海原が移動する。
「じゃあ、静脈認証設定から始めますね。参考までにパソコンの知識はどれくらい?」
「文字を打つことができる程度です」
「そう。じゃあ一から説明しますね。あ、宝木さん、他部署から呼ばれたときは俺行きますから、任せてください」
「いや、今日は真中くんの研修に集中でいい」
「すみません、お時間をいただいて」
 貢の方にぺこりと頭を下げる彼に、いい子なのだろうと思う。ちょっと世間知らずなだけで性格はいい。そう思おうとするのに、言い表せない嫌な感覚が払えない。海原と彼がセットで、部外者の貢に気遣うようだ。古株の貢が部外者なんてありえないのに、この疎外感はなんだろう。今まで経験のない感情に苦しむことになりそうだと、嫌な予感が消えない。嫌な予感はよく当たる。
 支部対応システム使用開始の六月初週を過ぎたというのに、貢はまた激務に襲われることになった。なるべく研修に集中させてやろうと、呼び出しには全て貢が応じる。支部からの電話対応もして、必要ならリモートでシステムの説明をする。そんなことをしていれば本来の仕事は業後にに押しやられる。自分の仕事ができないのは海原も同じで、彼の仕事もいくつか引き受ける。
 真中は素直でいい子だが、仕事仲間としては困るタイプだった。世間知らずを通り越して、浮世離れしている。貢と海原が不在中に電話が鳴れば、電話の相手に「どうしたらいいでしょう?」と聞いてしまう。過去の社内報の破棄を頼めば、読み始めて記事の感想を話し始める。バタバタと忙しい時間に手間暇かけてコーヒーを淹れる。言われたことしかしない不愛想なバイトの方がマシ。出会って三日でそう思う。棚橋が彼を気に入ってしまったことも厄介だった。実務をしないから当たり前だが、これまで一人ぽつんとしていた彼が、真中という仲間を得て生き生きする。コーヒーに大袈裟に喜ぶから、彼も家からお高いコーヒーを持参して淹れ続ける。部長が許しているものを貢たちが止める訳にもいかず、ぶつけようのないもやもやが溜まっていく。
「みなさんお忙しそうなので、明日はお菓子も持ってきますね」
 そう言って五時に帰っていく彼の姿が見えなくなったところで、思わずため息が零れた。十分だけ我慢していた海原も、棚橋が返ったところでデスクに突っ伏してしまう。
「……ブラックな職場の方がマシって気がしてきました」
「それは大袈裟だろ」
 高価なお菓子が食べられるし、おいしいコーヒーが飲めるのだ。そして彼は、各部署への出動記録の入力くらいはできる。
「大袈裟じゃないですよ。この行動に時間を使えば、相手の残業時間が伸びてしまうという想像できないんでしょうね」
「まともに働いたことがないみたいだからな」
「なんか、二人のときより大変な気がしてきました。いつまでいるんでしょう?」
「部長が相当気に入っているからな。三年くらいいるんじゃないか」
「勘弁してください」
 珍しく弱気の恋人を慰めてやる余裕が貢にもなかった。残業時間は減るどころか増えて、業後デートの夢も散る。
「とにかくタスクは熟さないと。身体がしんどいならいくつか貰う」
「いえ。宝木さんの方が忙しい筈ですから」
 彼が隣のデスクに戻ればほっとした。
「またコツコツ仕事をして、彼にももう少し使えるようになってもらうしかないな。使えるようにって、言い方は悪いかもしれないけど」
「いえ、合っていますよ。いっそ性格も最悪なら遠慮なく怒れるのに、性格はいいから困るんですよね。このご時世珍しいくらい純粋で邪気がないっていうか」
「……」
 客観的な感想だ。そう分かるのに、胸をチクリとやられた気がした。その気持ちを決して海原に知られてはいけないという、謎の焦りに襲われる。
「宝木さん?」
 彼に顔を向けられて、らしくもない半端な笑みを返してしまう。
「ああ、悪い。とにかく仕事してしまおう。限度は九時だから、急いで帰れば充分寝られる」
「ですね」
 モニターに視線を戻す彼に安堵して、無心でキーボードに向かった。途中で今日は貢が二人分の烏龍茶を買い、仕事終わりは一緒に駅に向かう。些細な日常が、胸にあったもやもやを消していく。
「また明日」
「ああ」
 先に降りる彼を見送って、残り二駅電車に揺られた。
 大丈夫。なんにせよ一人増えたのだ。慣れれば全部上手くいく。消えない不安が仕事のことだけでないと分かっていながら、それを封じ込めて、心で大丈夫を繰り返す。
 大丈夫、だといい。仕事も恋も。不慣れな恋で上手く立ち回る自信はない。だから、どうか厄介事が起こりませんように。仕事ならいくらでも激務に耐えるから。
 降りたホームが意外に寒くて、柄でもなく弱気な自分に負けてしまいそうだった。
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