恋愛メンタルマネジメント
声を掛けられて我に返った。顔を向ければコール部門のスタッフが申し訳なさそうに立っている。
「すみません。IDカードを破損してしまって」
「おっと、これは見事に割れたね」
見れば執務室やロッカー室に入るときに翳すカードが半分に割れている。
「すみません。落として椅子で踏んでしまって」
「まぁ、そういうこともあるよね」
可哀そうなくらい小さくなって詫びる彼女を安心させてあげたくて、努めて明るく言った。割れたものは仕方がないし、次から気をつけてくれればいい。
「再発行の手続きをしておくから、今日は他のスタッフと一緒に扉の出入りをしてくれるかな。明日の朝はゲストカードを借りてくれる? カードができたら内線で……」
「それって総務の仕事じゃないんですか?」
そこで奇人が声を上げた。今日は比較的大人しいと思ったのは幻想だった。
「うちは人事部なんですよね。あなたみたいな人がいるからうちの課の地位が下がる」
弱っている社員にそんな言い方をする必要があるかと思う。確かに総務の仕事だが、複数の部署に権限が与えられている仕事は、報告すればどちらがやってもいいことになっている。総務が忙しそうで声をかけ辛いなら、研修で会ったことのある恩田のところに来てくれればそれでいいのだ。
「分かったらさっさと総務に……」
「立成さん!」
恩田にしては鋭い口調で制して、彼に構わず彼女に言葉を向ける。
「大丈夫。俺が手続きしておくから気にせず仕事をして」
泣きそうな彼女に目一杯優しい声をかけて、出口の扉まで送ってやった。こんな些細なことでも気に病んで辞めてしまうスタッフがいる。そうなればコールスタッフとして彼女を育ててきたLDやSVの苦労が無駄になる。人事課を希望しながらそんなことも分からないのかと、奇人に対して怒りが湧く。だがここで感情のまま動いては彼の思う壺だ。大丈夫、怒るほどじゃない。一つ息を吐いて、少し奇人と離れるために出口側にあるコピー機に近づく。人事課も使うコピー機の上には、外したままのホチキスの芯やクリップが放置されている。今日はクリップだからちょっとマシだ。片付けておこう。
「そんなゴミを拾ってなんになるんですか?」
だがそこにわざわざ立ち上がった奇人がやってきた。多分、挑発に乗らない恩田が気に入らないのだ。
「コピー機の上は綺麗な方がいいし、俺もクリップを使えるからいいことだよ」
「出た。あんたのそういうところが嫌い」
うーん。やはり彼と分かり合うのは難しい。運悪く熊田が席を外しているから、奇人は攻撃をやめない。
「それを今ここで床に捨てたら、俺がお高いクリップを箱で買い与えてやるよ。どう? 悪い話じゃないだろ?」
お金を払ってでも恩田を従わせたいのかと呆れた。そういえば彼は役員の親戚なのだ。親もお金持ちで、彼の給料以上の買い物ができるのだろう。
「クリップは支給品があるから新しいものはいらないよ」
「だったらそれも捨てろよ」
「執務室の床は余計なものが落ちていない方がいい」
「そういうのは掃除の人間に任せておけばいいんだよ」
今気づいたが、奇人は悪い意味で器用だった。仲よく世間話でもしているような顔で容赦ないことを言う。初動が悪かったのか、彼は恩田をターゲットに決めたようだ。ストレスを与え続けて、降参した恩田が言うことを聞くのを待っている。だが降参するほどダメージを受けていないから、こちらも引く理由がない。
「コピー機、使うならどうぞ」
淡々と言ってデスクに戻ろうとすれば、行く手を封じられた。
「あんた、ほんとムカつく」
それは難儀なことで。同情しながら、さて、彼を躱すにはどうしたらいいかと思ったところで、恩田と奇人の間に男が割って入る。
「ちょうどクリップが欲しかったんだ。恩田さん、それくれる?」
「冥賀さん」
立成の楽しげな顔でカモフラージュされた悪口も、王子はちゃんと分かっていた。恩田からクリップを受け取ってにっこり笑う。
「これは人事課の冥賀さん、どうも」
途端に奇人の口調が変わった。先日の暴挙はなかったことにして、王子の前ではいい社員のフリをすることにしたらしい。だがそれに騙される王子ではない。
「嫌な性格だね、立成くん」
「なんの話?」
「世間話を装っても、恩田さんを攻撃していたことくらい分かるんだよ。随分と酷い言い方をしていたね」
「すみません。IDカードを破損してしまって」
「おっと、これは見事に割れたね」
見れば執務室やロッカー室に入るときに翳すカードが半分に割れている。
「すみません。落として椅子で踏んでしまって」
「まぁ、そういうこともあるよね」
可哀そうなくらい小さくなって詫びる彼女を安心させてあげたくて、努めて明るく言った。割れたものは仕方がないし、次から気をつけてくれればいい。
「再発行の手続きをしておくから、今日は他のスタッフと一緒に扉の出入りをしてくれるかな。明日の朝はゲストカードを借りてくれる? カードができたら内線で……」
「それって総務の仕事じゃないんですか?」
そこで奇人が声を上げた。今日は比較的大人しいと思ったのは幻想だった。
「うちは人事部なんですよね。あなたみたいな人がいるからうちの課の地位が下がる」
弱っている社員にそんな言い方をする必要があるかと思う。確かに総務の仕事だが、複数の部署に権限が与えられている仕事は、報告すればどちらがやってもいいことになっている。総務が忙しそうで声をかけ辛いなら、研修で会ったことのある恩田のところに来てくれればそれでいいのだ。
「分かったらさっさと総務に……」
「立成さん!」
恩田にしては鋭い口調で制して、彼に構わず彼女に言葉を向ける。
「大丈夫。俺が手続きしておくから気にせず仕事をして」
泣きそうな彼女に目一杯優しい声をかけて、出口の扉まで送ってやった。こんな些細なことでも気に病んで辞めてしまうスタッフがいる。そうなればコールスタッフとして彼女を育ててきたLDやSVの苦労が無駄になる。人事課を希望しながらそんなことも分からないのかと、奇人に対して怒りが湧く。だがここで感情のまま動いては彼の思う壺だ。大丈夫、怒るほどじゃない。一つ息を吐いて、少し奇人と離れるために出口側にあるコピー機に近づく。人事課も使うコピー機の上には、外したままのホチキスの芯やクリップが放置されている。今日はクリップだからちょっとマシだ。片付けておこう。
「そんなゴミを拾ってなんになるんですか?」
だがそこにわざわざ立ち上がった奇人がやってきた。多分、挑発に乗らない恩田が気に入らないのだ。
「コピー機の上は綺麗な方がいいし、俺もクリップを使えるからいいことだよ」
「出た。あんたのそういうところが嫌い」
うーん。やはり彼と分かり合うのは難しい。運悪く熊田が席を外しているから、奇人は攻撃をやめない。
「それを今ここで床に捨てたら、俺がお高いクリップを箱で買い与えてやるよ。どう? 悪い話じゃないだろ?」
お金を払ってでも恩田を従わせたいのかと呆れた。そういえば彼は役員の親戚なのだ。親もお金持ちで、彼の給料以上の買い物ができるのだろう。
「クリップは支給品があるから新しいものはいらないよ」
「だったらそれも捨てろよ」
「執務室の床は余計なものが落ちていない方がいい」
「そういうのは掃除の人間に任せておけばいいんだよ」
今気づいたが、奇人は悪い意味で器用だった。仲よく世間話でもしているような顔で容赦ないことを言う。初動が悪かったのか、彼は恩田をターゲットに決めたようだ。ストレスを与え続けて、降参した恩田が言うことを聞くのを待っている。だが降参するほどダメージを受けていないから、こちらも引く理由がない。
「コピー機、使うならどうぞ」
淡々と言ってデスクに戻ろうとすれば、行く手を封じられた。
「あんた、ほんとムカつく」
それは難儀なことで。同情しながら、さて、彼を躱すにはどうしたらいいかと思ったところで、恩田と奇人の間に男が割って入る。
「ちょうどクリップが欲しかったんだ。恩田さん、それくれる?」
「冥賀さん」
立成の楽しげな顔でカモフラージュされた悪口も、王子はちゃんと分かっていた。恩田からクリップを受け取ってにっこり笑う。
「これは人事課の冥賀さん、どうも」
途端に奇人の口調が変わった。先日の暴挙はなかったことにして、王子の前ではいい社員のフリをすることにしたらしい。だがそれに騙される王子ではない。
「嫌な性格だね、立成くん」
「なんの話?」
「世間話を装っても、恩田さんを攻撃していたことくらい分かるんだよ。随分と酷い言い方をしていたね」