恋愛メンタルマネジメント
何故か窓の外に王子がいた。ジェスチャーで裏に回るように言われて向かえば、夢でも幻覚でもない彼が社員通用口で微笑んでいる。
「知り合いを家まで送って、ちょうど近くまで来たから職場ビルの様子でも見ていこうかと思って。恩田さんがいるとは思わなかったな。よかったら家まで送るよ」
「いえ、そんな」
王子の車なら興味はある。だが狭い空間で二人きりでいればボロを出してしまう。隣の課の大人しい恩田さん。彼からの認識はその程度でいい。欲を出して今あるものを手放すようなことはしたくない。そう、彼を意識しているからこそのネガティブ思考に襲われる。だが王子は半端な拒絶でめげるタイプではなかった。
「タクシー捕まらないでしょう? 駅まで行けたところで、間引き運転でホームが入場制限になっているってネットに出ていたよ」
「う……」
やはりそうなのだ。電車がやってきても一人、二人しか乗れない状況で待つ絶望的な時間。ぎゅうぎゅうのホームはさぞ蒸し暑いだろう。それで体調不良者が出て更に電車の運行が遅れる。混雑路線ユーザーの性で想像できてしまう。
「十一時過ぎまで待てば混雑も落ち着くと思うので」
「あと二時間も待つつもり? 早く帰れて損はないでしょう?」
王子は意外に強引だった。
「荷物はそれだけ? じゃあ、警備員さんに挨拶をしてこのまま出てしまおう」
驚いたことに、彼は泊まり込みになる警備員に差し入れまで用意していた。すぐに食べられるお握りや飲み物を手渡された彼の顔がぱっと明るくなる。
「急な要請で申し訳ありません。朝までよろしくお願いします」
そう頭を下げる姿に、課長代理ともなれば有事の対応も仕事なのだと思った。とにかく彼がそこまでした以上、十一時までビルに残りたいとも言えなくなって、彼の車に乗ることになる。
「……こんな立派な車を台風の中走らせていいんですか?」
身体を縮こまらせて乗った助手席で聞けば、彼が声を上げて笑った。
「車は雨風を凌いで移動するためにあるものでしょう?」
確かにそうだが、彼の車は高級車なのだ。然程車に詳しくない恩田にも五百万以上すると分かる。ついでにエコカーで環境にも配慮している。メタリックブルーのボディーは晴れの日にはさぞ美しいだろう。そんな車は、汚れると分かっている日には大事に車庫にしまっておくものではないのか。そこでハッとして鞄からハンドタオルを取り出す。ビルから車まで移動するときに開いた傘から水滴が流れ落ちる。車内を汚さないように拭いておこうと思ったのだ。
「恩田さん、そこまでしなくていいよ。それ、濡れちゃうでしょう?」
ミラー越しに恩田の行動を見た彼に止められた。
「いえ。これは家に帰ってすぐ洗濯機に放り込めばいいし、車が好きな人って車内が汚れるのを嫌がるかなって」
「それは過去の経験から?」
「はい。前に凄く怒られたことがあって」
「恋人?」
「そう、ですね。もうだいぶ前に別れたんですけど」
謎の角度の質問に戸惑い、失言に気づいたのは全部答えてしまったあとだった。助手席に乗せて、当たり前のように恩田を叱る相手。元恋人が男性だとバレてしまっただろうか。だが探るように目を遣った彼の横顔におかしなところはない。そうか、今時は女性の運転も普通なのか。そう、とりあえず安堵する。
「とにかく僕は水滴ぐらいで怒ったりしないし、定期的にプロの車内清掃にも出しているから気を遣わないで。快適に家まで送ってあげたいのに、ずっと緊張されていると落ち込む」
「すみません。そんなつもりじゃ……」
「冗談だよ」
そう、大らかに笑う彼に送ってもらった晩は、恩田の人生で一番の宝物になった。人生の一番は更新を繰り返す。けれどこの一番を超える経験はもうないだろう。まずいことに、もう言い逃れできないほど惚れてしまった。だが今日の思い出があれば胸に秘めて暮らしていける。そう、いつのまにか雨風のやんだ夜空の下で、彼の車が去っていくのを見つめていた。
直前までの風雨を忘れたフリで、けろりと出ていた月が綺麗だった。とにかくその晩から恩田は王子が好きで仕方ない。恋愛感情で好きだと自覚して引き返せない。
だが隠すと決めたのだ。王子を困惑させるようなことはしない。王子がいつか素敵な女性と結婚すると言ったら、披露宴の受付をすると申し出よう。そして彼を慕う部下のフリをして、ずっと想っていけばいい。
だが王子に相応しい姫が現れることはなく、彼はいつまでも恩田に親切なのだ。これではどこまでも好きになってしまうではないかと困り果てている。
「恩田さん、ちょっといいですか?」
「知り合いを家まで送って、ちょうど近くまで来たから職場ビルの様子でも見ていこうかと思って。恩田さんがいるとは思わなかったな。よかったら家まで送るよ」
「いえ、そんな」
王子の車なら興味はある。だが狭い空間で二人きりでいればボロを出してしまう。隣の課の大人しい恩田さん。彼からの認識はその程度でいい。欲を出して今あるものを手放すようなことはしたくない。そう、彼を意識しているからこそのネガティブ思考に襲われる。だが王子は半端な拒絶でめげるタイプではなかった。
「タクシー捕まらないでしょう? 駅まで行けたところで、間引き運転でホームが入場制限になっているってネットに出ていたよ」
「う……」
やはりそうなのだ。電車がやってきても一人、二人しか乗れない状況で待つ絶望的な時間。ぎゅうぎゅうのホームはさぞ蒸し暑いだろう。それで体調不良者が出て更に電車の運行が遅れる。混雑路線ユーザーの性で想像できてしまう。
「十一時過ぎまで待てば混雑も落ち着くと思うので」
「あと二時間も待つつもり? 早く帰れて損はないでしょう?」
王子は意外に強引だった。
「荷物はそれだけ? じゃあ、警備員さんに挨拶をしてこのまま出てしまおう」
驚いたことに、彼は泊まり込みになる警備員に差し入れまで用意していた。すぐに食べられるお握りや飲み物を手渡された彼の顔がぱっと明るくなる。
「急な要請で申し訳ありません。朝までよろしくお願いします」
そう頭を下げる姿に、課長代理ともなれば有事の対応も仕事なのだと思った。とにかく彼がそこまでした以上、十一時までビルに残りたいとも言えなくなって、彼の車に乗ることになる。
「……こんな立派な車を台風の中走らせていいんですか?」
身体を縮こまらせて乗った助手席で聞けば、彼が声を上げて笑った。
「車は雨風を凌いで移動するためにあるものでしょう?」
確かにそうだが、彼の車は高級車なのだ。然程車に詳しくない恩田にも五百万以上すると分かる。ついでにエコカーで環境にも配慮している。メタリックブルーのボディーは晴れの日にはさぞ美しいだろう。そんな車は、汚れると分かっている日には大事に車庫にしまっておくものではないのか。そこでハッとして鞄からハンドタオルを取り出す。ビルから車まで移動するときに開いた傘から水滴が流れ落ちる。車内を汚さないように拭いておこうと思ったのだ。
「恩田さん、そこまでしなくていいよ。それ、濡れちゃうでしょう?」
ミラー越しに恩田の行動を見た彼に止められた。
「いえ。これは家に帰ってすぐ洗濯機に放り込めばいいし、車が好きな人って車内が汚れるのを嫌がるかなって」
「それは過去の経験から?」
「はい。前に凄く怒られたことがあって」
「恋人?」
「そう、ですね。もうだいぶ前に別れたんですけど」
謎の角度の質問に戸惑い、失言に気づいたのは全部答えてしまったあとだった。助手席に乗せて、当たり前のように恩田を叱る相手。元恋人が男性だとバレてしまっただろうか。だが探るように目を遣った彼の横顔におかしなところはない。そうか、今時は女性の運転も普通なのか。そう、とりあえず安堵する。
「とにかく僕は水滴ぐらいで怒ったりしないし、定期的にプロの車内清掃にも出しているから気を遣わないで。快適に家まで送ってあげたいのに、ずっと緊張されていると落ち込む」
「すみません。そんなつもりじゃ……」
「冗談だよ」
そう、大らかに笑う彼に送ってもらった晩は、恩田の人生で一番の宝物になった。人生の一番は更新を繰り返す。けれどこの一番を超える経験はもうないだろう。まずいことに、もう言い逃れできないほど惚れてしまった。だが今日の思い出があれば胸に秘めて暮らしていける。そう、いつのまにか雨風のやんだ夜空の下で、彼の車が去っていくのを見つめていた。
直前までの風雨を忘れたフリで、けろりと出ていた月が綺麗だった。とにかくその晩から恩田は王子が好きで仕方ない。恋愛感情で好きだと自覚して引き返せない。
だが隠すと決めたのだ。王子を困惑させるようなことはしない。王子がいつか素敵な女性と結婚すると言ったら、披露宴の受付をすると申し出よう。そして彼を慕う部下のフリをして、ずっと想っていけばいい。
だが王子に相応しい姫が現れることはなく、彼はいつまでも恩田に親切なのだ。これではどこまでも好きになってしまうではないかと困り果てている。
「恩田さん、ちょっといいですか?」