恋愛メンタルマネジメント
立て込んだ仕事が一段落して、一人ぽつんと休んでいたところに言われて、自分は疲れすぎて幻覚を見ているのかと思った。
「えっと、どうして俺が描いたと分かったんですか? あ、熊さんに聞きました?」
我に返っておずおずと聞けば、彼がとても優しく笑う。
「分かるよ。だって恩田さんが描くものはみんな恩田さんに似ているから」
意味を考えるよりも、謎の台詞も王子が言うと素敵なのだと思った。王子は言い触らすような人間ではない。だから彼がくれた「上手だね」という言葉を宝物にしようと、そう思ったのだ。
仲よくなれるのは嬉しいが、恋心を抑えられなくなるのは困る。さて、どうしようかと思っていたところに決定的なことが起こった。最早神が恩田の忍耐力を試しているのではないかと思うほどの、幸運で試練。
去年の八月。大型台風が突然進路を変えて、帰宅時間帯に直撃した日だった。駅まで歩くのも大変な雨風。突然の台風の中、とにかく帰りたいのはみな同じだからタクシーも捕まらない。そんな状況で恩田は早々に帰るのを諦めた。正確には外が落ち着くまで三、四時間待とうと思った。どうせ今駅に向かったところで間引き運転の満員電車だ。乗れるかどうか怪しい。それならしばらく職場にいればいい。幸い九時まで休憩室や食堂を開けておいてくれるという。
同じように帰るのを諦めた社員がぱらぱらと残る中、恩田は休憩室の隅で絵を描いていた。何故か職場に置いてある色鉛筆で、その日描くのは傘星人だ。
暴風の中で開かれたらひっくり返って折れてしまう。だからもう少し、風が弱くなるまで建物の中にいて。風が弱まれば、雨からちゃんと護ってあげるから。
帰れない自分の状況を傘のせいにして、そんなメルヘンな絵日記を書いた。スマホで写真を撮ってアップしてアプリ内で完成させる。二八の会社員が書いたと知れたら盛大に引かれそうな内容だが、どうせ誰ともフォローし合っていない。アプリ内のランキングや掲示板を使ったこともないから訪問者など日に一、二人だ。ついでにプロフィール欄には『カイ』という名前と性別しか公開していない。偶然絵日記を見た誰かが恩田に辿り着く可能性はゼロだ。だから好きなように描く。昔から絵本の中のような世界を妄想するのが好きだった。日記というより短い物語のようだが、どう書こうと誰に咎められる訳でもない。
絵日記制作に夢中になるうちに、他の社員たちが軽く挨拶をして帰っていった。なんとかタクシーを呼べたのだろうが、窓から見ればまだまだ雨風が強い。
自分はずっとあとでいい。シンとした休憩室でそんな気持ちになって、今度はソファー星人の日記を書いた。
人間一人を乗せて、今夜は珍しく夜の景色を眺めている。いつも人間がいないときは灯りが消されて外が見えないから、今日は特別。物好き人間がいつまでも絵を描いている。
ソファー星人の気持ちで描いていれば何時間でも飽きなくて、警備員が九時を知らせにやってくるまで居座ってしまう。
「今タクシーは難しいかもしれませんね。休憩室はもう閉めないといけないんですけど、よければ警備員室にいますか? 上司に電話をして許可を取りますから」
中年の親切な警備員は念のため泊りになったという。ありがたい言葉だが、仮眠を取ったり食事をしたりする彼の邪魔になりたくない。
「ありがとうございます。でも、大丈夫。正面エントランスのソファーに座って過ごします。落ち着いたら帰りますので」
もう自動ドアの電源は切ってあるから好きなだけガラスドアに張りついて景色を眺めていられる。歩いて帰れそうになれば裏口から出て、そのときこの警備員に挨拶すればいい。
「何か心配事があったら遠慮なく警備員室に来てください」
「そうさせてもらいます」
もう一度礼を言って、言葉通りエントランスの一人掛けのソファーに向かった。ソファーで絵を描くことは難しいが、文字なら打てるので、スマホの電源がなくならない程度に日記を書いて過ごす。
どうせ明日は休日だ。たまにはこんな夜もいい。風星人は好きなだけ暴れればいい。でも十一時半に大人しくなってくれるといい。駅まで歩いて電車で帰るから。そんな、多少メルヘンでも自分の本音を言葉にして、スマホを鞄にしまって窓の外に目を向ける。分厚いガラスのドアを通して、ゴウゴウと風の音が聞こえてきそうな景色を眺めるうちに、少しうとうとしてしまった。傍のガラスがコツコツと叩かれた気がして顔を上げて、そこで見たものに目を瞠る。
「冥賀さん?」
「えっと、どうして俺が描いたと分かったんですか? あ、熊さんに聞きました?」
我に返っておずおずと聞けば、彼がとても優しく笑う。
「分かるよ。だって恩田さんが描くものはみんな恩田さんに似ているから」
意味を考えるよりも、謎の台詞も王子が言うと素敵なのだと思った。王子は言い触らすような人間ではない。だから彼がくれた「上手だね」という言葉を宝物にしようと、そう思ったのだ。
仲よくなれるのは嬉しいが、恋心を抑えられなくなるのは困る。さて、どうしようかと思っていたところに決定的なことが起こった。最早神が恩田の忍耐力を試しているのではないかと思うほどの、幸運で試練。
去年の八月。大型台風が突然進路を変えて、帰宅時間帯に直撃した日だった。駅まで歩くのも大変な雨風。突然の台風の中、とにかく帰りたいのはみな同じだからタクシーも捕まらない。そんな状況で恩田は早々に帰るのを諦めた。正確には外が落ち着くまで三、四時間待とうと思った。どうせ今駅に向かったところで間引き運転の満員電車だ。乗れるかどうか怪しい。それならしばらく職場にいればいい。幸い九時まで休憩室や食堂を開けておいてくれるという。
同じように帰るのを諦めた社員がぱらぱらと残る中、恩田は休憩室の隅で絵を描いていた。何故か職場に置いてある色鉛筆で、その日描くのは傘星人だ。
暴風の中で開かれたらひっくり返って折れてしまう。だからもう少し、風が弱くなるまで建物の中にいて。風が弱まれば、雨からちゃんと護ってあげるから。
帰れない自分の状況を傘のせいにして、そんなメルヘンな絵日記を書いた。スマホで写真を撮ってアップしてアプリ内で完成させる。二八の会社員が書いたと知れたら盛大に引かれそうな内容だが、どうせ誰ともフォローし合っていない。アプリ内のランキングや掲示板を使ったこともないから訪問者など日に一、二人だ。ついでにプロフィール欄には『カイ』という名前と性別しか公開していない。偶然絵日記を見た誰かが恩田に辿り着く可能性はゼロだ。だから好きなように描く。昔から絵本の中のような世界を妄想するのが好きだった。日記というより短い物語のようだが、どう書こうと誰に咎められる訳でもない。
絵日記制作に夢中になるうちに、他の社員たちが軽く挨拶をして帰っていった。なんとかタクシーを呼べたのだろうが、窓から見ればまだまだ雨風が強い。
自分はずっとあとでいい。シンとした休憩室でそんな気持ちになって、今度はソファー星人の日記を書いた。
人間一人を乗せて、今夜は珍しく夜の景色を眺めている。いつも人間がいないときは灯りが消されて外が見えないから、今日は特別。物好き人間がいつまでも絵を描いている。
ソファー星人の気持ちで描いていれば何時間でも飽きなくて、警備員が九時を知らせにやってくるまで居座ってしまう。
「今タクシーは難しいかもしれませんね。休憩室はもう閉めないといけないんですけど、よければ警備員室にいますか? 上司に電話をして許可を取りますから」
中年の親切な警備員は念のため泊りになったという。ありがたい言葉だが、仮眠を取ったり食事をしたりする彼の邪魔になりたくない。
「ありがとうございます。でも、大丈夫。正面エントランスのソファーに座って過ごします。落ち着いたら帰りますので」
もう自動ドアの電源は切ってあるから好きなだけガラスドアに張りついて景色を眺めていられる。歩いて帰れそうになれば裏口から出て、そのときこの警備員に挨拶すればいい。
「何か心配事があったら遠慮なく警備員室に来てください」
「そうさせてもらいます」
もう一度礼を言って、言葉通りエントランスの一人掛けのソファーに向かった。ソファーで絵を描くことは難しいが、文字なら打てるので、スマホの電源がなくならない程度に日記を書いて過ごす。
どうせ明日は休日だ。たまにはこんな夜もいい。風星人は好きなだけ暴れればいい。でも十一時半に大人しくなってくれるといい。駅まで歩いて電車で帰るから。そんな、多少メルヘンでも自分の本音を言葉にして、スマホを鞄にしまって窓の外に目を向ける。分厚いガラスのドアを通して、ゴウゴウと風の音が聞こえてきそうな景色を眺めるうちに、少しうとうとしてしまった。傍のガラスがコツコツと叩かれた気がして顔を上げて、そこで見たものに目を瞠る。
「冥賀さん?」