恋愛メンタルマネジメント

 偶然だ。たまたまうっかり好きでもないものを買ってしまって、恩田にでもあげておこうと思ったのだ。舞い上がりそうな心を静めて大人の対応を取ってみるが、王子は更に王子らしく微笑むだけだ。さっき立成に鋭い言葉を向けたのと同じ男とは思えない。
「じゃあ、こういうのはどう?」
 胸倉を掴まれたとき落ちた缶コーヒーを拾って、王子が缶の凹みを撫でる。
「このコーヒーは縁起が悪いから僕が飲んでおくよ。コーヒー代の代わりにそのグミを受け取って? 物々交換だね」
「えっと、その理論で言うなら縁起が悪いものを冥賀さんに飲ませるのは悪いというか」
「大丈夫」
 そこで王子が微笑んだ。大袈裟でなく、微笑みで敵を倒してしまいそうな神々しさ。彼に恋をしている恩田さえ、敵としてうっかり降伏してしまいそうだ。
「僕は縁起の良し悪しに左右されるタイプじゃないから。あんな非常識な人間が関わるものは特にね」
 美しい微笑みが、美しいまま強い意思を持ったものに変わる。
「立成くんのことは僕も対策を考えておくよ。これから彼の話を聞くために恩田さんを呼び出すことがあるかもしれないけど」
 王子の呼び出しなら歓迎だ。
「何かあったら遠慮なく相談して」
 そう言って小さく手を振って去っていく。そのさりげなさが格好よすぎて、その場でしばし呆然としてしまった。落ち着こう。身に起こったことを整理しよう。コーヒー缶を叩きつけた立成に胸倉を掴まれて、王子に助けられた。そうか、王子は恩田を哀れだと思ったのか。だからお菓子をくれたのか。だとしても、王子の格好よさを間近で体験できた自分は幸せだ。それにしても格好よかった。
 人が増えてきた休憩室で立ち尽くしているのは邪魔になると気づいて、漸く廊下に出ていく。
 最早奇人立成にされたことなどどうでもいいと思っているのだから、自分はいい性格をしている。王子に抱きしめてもらえて、逆に奇人に感謝だ。執務室に戻って熊田に報告しなければならないというのに、そんな平和なことを思っていた。


 王子が隣の課にやってきたのは去年の四月だった。初めは変わった名字だなと思う程度だったが、同じ部署にいれば親しくもなるものだ。恩田が人事課のコピー用紙やクリアファイルを発注していることもあって、割と簡単に仲よくなった。
 髪も目もグレー系に色素の薄い彼は純日本人で、容姿は突然変異だと言う。多分美しいからこその嫌な思いもしてきただろうに、そんな風にさらりと言える彼が素敵だと思った。どちらが先と聞かれれば、内面に先に惹かれたのだ。
 コール部門からスタートして経理部を経て人事課にやってきたという彼は、聡いだけでなく柔軟な考えの持ち主だった。役席と社員の間に不穏な空気が生まれそうになるたびに、課長代理の彼がさりげなく芽を摘んでいく。隣の課の恩田だからこそ、彼の能力を冷静に見ることができた。
 それでも一度うっかり彼のさりげない努力を褒め称えてしまった。
「冥賀さんはマンガから出てきたみたいに素敵」
 そう言えば彼が花が咲くみたいに笑う。
「敵わないな、恩田さんには」
 花が美しすぎて、そのまま宝石になったみたいな顔。おかしな表現だが本気でそんな風に思って、そこで、好きだと思った。彼が綺麗なのは内面を磨く努力を怠らないからだと、そう思えたのだ。
 恩田は男性が好きだが、同類を見抜く力は皆無だ。だが多分王子はストレートだ。気持ちがバレれば気味悪がられて距離を置かれる。だから恋心は厳重に隠していく。人事部の飲み会に王子が行くと分かっていても恩田は欠席。彼の新たな一面を知って、恋心を暴走させるようなことになってはならない。適度な距離を保とうと思っていたのだ。
 だが神は試練を与えるものだ。あるとき、恩田が新人スタッフのために描いたイラストを彼が褒めてくれたのだ。
 当時カーペット敷きの床の下の通気口にピンヒールが嵌って、転んだ社員が爪を剥がすという事故があった。普通の靴なら問題ないが、ヒールが細すぎてカーペットを突き破ってしまったのだ。初めての事態で職場のドレスコード表にも注意事項がなく、恩田が急遽書類を作って配ることになった。ベタ打ちの書類は読まないだろう。そう思ってカーペット星人とピンヒール星人の絵を描いた。ヒールが一センチより細いものはこのビルで禁止です。怪我をすることがあります。簡潔な文章の下に描いたイラストが好評で、その書類は社内回覧ページに一ヵ月間貼りつけられることになった。自分が描いたと言うつもりはないし、どこからか引っ張ってきた画像だと思われればいい。そう知らん顔をしていたのに、何故か王子にはバレてしまう。
「絵、上手だね。可愛らしくて、見た人が注意事項を守ろうって気分になる」
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