恋愛メンタルマネジメント

「え?」
 席が遠いから気づかなかったが、言われてみれば二十分も前に執務室を出た彼女の姿がなかった。筆記用具や細かな私物はそのままだ。体調でも悪くなったか? いや、それよりずっと嫌な予感がするのは何故だろう。
「お手洗いとか見てきて。残りのメンバーを全員帰してから俺も探すから」
 そう江左と別れて松島を探し始める。だが休憩室にも研修室にもいない。合流した江左が手洗いやロッカー室にもいないと言う。
 食堂、休憩室、ロッカー室は三階に纏まっている。二階の簡易休憩室と執務室にもいないのならあとはどこにいるだろう? そこでふと、彼女も新人時代に四階で導入研修をしていることを思い出す。
「俺、四階を見てくる」
 江左に断って、この時間は一基しか稼働していないエレベーターで四階に向かう。嫌な予感は当たるもので、何故か研修室の隣の会議室に明かりが点いていた。ドアに近づけば何やら言い争う声が聞こえてくる。男女二人だ。もうこのまま放置して帰ってしまいたいが、一人が松島だとしたらそうもいかない。
「入りますよ」
 ノックもせずに言葉と一緒に入ってやれば、そこに想像通り奇人と松島がいた。涙ぐみながら訴える彼女の向かいで、恩田に向けるのとはまた違う嫌な顔で腕を組む姿が目に映る。
「わざわざ四階まで来て何やっているの。というか立成さんは定時で冥賀さんと一緒だったんじゃないの?」
 しまった。王子と一緒だったことまで言わなくてよかったと思うが今更だ。
「なんだ。俺と冥賀さんが一緒に帰るのを見ていたんだ」
 相変わらず蔑むように言われるが、開き直った恩田の思考はクリアだ。今ここにいるということは、彼も王子とディナーなどしていない。それでいて何故そう上から目線でいられるのだろう。いや、今はそれより松島だ。
「松島さん、何があったか知らないけど、今日は遅いからもう帰ろう。明日、江左さんかコールの他の上司と話せばいいし。待って、今、江左さんを呼んで……」
「この人、私にスパイをさせたんです!」
 女性がいた方がいいだろうと、江左を呼びに行こうとして物騒な言葉に引き止められた。スパイ。まさか顧客情報ではないだろうなと血の気が引きかけたが、続いたのは予想外の言葉だ。
「冥賀さんの情報を集めろって言われたんです。恩田さんとただの同僚じゃないっていう証拠とか、会う約束とか、なんでもいいから集めたらデートしてやるって言われて」
「……は?」
 非常識すぎて何を言われたか分からなかった。だが少しずつ理解していく。旅館の写真はそういう訳だ。そう言えば松島に水を掛けられた。そのときに王子のスマホから情報を盗み見たのだろう。王子を見かけたら連絡をくれるように言って、いつでも王子に近づけるようにしていたのかもしれない。だとすれば、恐らくスパイを命じられたのは松島だけではない。理解するにつれて身体が熱くなっていく。
「他にもコールのスタッフに頼んだのか?」
 最早奇人に礼儀正しく接しようという気は消えていた。ふつふつと怒りが湧いていく。
「あと二人かな。一年目の女と八月入社の女。名前は知らないけど、二人ともちょっと優しくしたらなんでもするって言って」
「ふざけるな」
 静かな声音と裏腹に感情は爆発寸前だった。スタッフをなんだと思っているのだ。
「成果がないんだからデートなんてできないって言ったら、泣いて辞めると言い出した奴もいたな」
 人の気持ちをなんだと思っているのだ。会社がどれだけ手間暇をかけて一人の人間を育てると思うのだ。元人事が聞いて呆れる。そんな風に大切なスタッフをボロボロにする人間など栗原企画には不要だ。役員の親戚がなんだ。自分が追い出してやる。そんな恩田の胸の内を恐れたように、松島がそっと部屋を出ていく。
「あ、そうだ」
 わざとらしく彼の言葉が続く。
「冥賀さん、俺に付き合ってほしいって」
 そう言えば恩田が取り乱すとでも思っているのか、嬉々として語る男が滑稽に見えた。何故こんな男を脅威に感じていたのだろう。何故自分が逃げなければならないと思っていたのだろう。以前の自分が腹立たしい。
「冥賀さん言ってたな。恩田さんはマグロで嫌になるって。俺の方が楽しめるからこれからが楽しみだって」
 そんなことを羞恥もなく言い触らす非常識さが奇人なのだ。
「恩田さんに悪いって言ったんだけど、気にしなくていいって言うし。主任の座も恋人も奪って悪いなって」
「言いたいことはそれだけか」
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