恋愛メンタルマネジメント

 仲のいい彼女に声を掛ければ、じゃあ、お言葉に甘えて十分だけと言って彼女が離れていった。彼女は今日通し勤務で九時から二十時までだ。ヘルプに来ているから少しでも負担を減らしてやれたらいい。もう電話のピークも過ぎただろう。そう思って受電ではなくフォローに入る。だがプライベートがついていないときは仕事もということなのか、江左がいない十分の間に厄介ごとがやってきた。
「恩田さん、すみません。エスカレを出してしまいました」
 エスカレを出す、はコールセンター用語なのか分からないが、要は怒らせて上に代われと言われましたということだ。何故こんなときにと思うが、『上』が恩田しかいないのだから仕方ない。手の上がった席に向かえば、この間恩田に水を掛けた松島だ。
「すみません」
「ううん。代わるから大丈夫。どんな感じ?」
 ざっと聞いて顧客情報を見てから電話を引き継いだ。代わった途端に怒鳴られるが不思議と怖くない。あれ? と首を傾げたが理由はすぐに分かった。
 攻撃的になる理由がある人間なら怖くない。なんせここ二ヵ月、奇人に理由もなく攻撃され続けてきたのだ。彼は奇人だ。大奇人だ。彼より嫌なものなど存在しない。そう思えば、電話の向こうで怒る相手にどこまでも穏やかに接することができる。何を言っても動じないと分かれば、相手も落ち着いていく。クレームの内容もごくありふれたものだ。返済日の十四日より前に返済すると、繰り上げ返済扱いになって、その月にもう一度返済日が来てしまう。それをお怒りだったが、噛み砕いて説明して、その分返済が早く終わると言ってやれば納得してくれる。
「あなた、いい声ね」
 通話終わりにお詫びのように言われて拍子抜けした。クレームに動じない心を手に入れてしまった。その発見にふっと笑う。そこに休憩終わりの江左が駆けてくる。
「クレームだって? ごめん。大丈夫だった?」
「うん。俺、いい声だって褒められた」
 わざと自慢げに言ってやれば彼女も笑った。
「あの、すみませんでした」
 傍で様子を見ていた松島に頭を下げられてひらひらと手を振る。
「大丈夫。俺も受電は一通りできるから。それより怒られて大変だったでしょう? 少し休んできていいよ。いいよね、江左さん」
 江左がもちろんと応じれば、もう一度深々と頭を下げて松島が執務室を出ていく。
「そうだ、忘れるところだった」
 ぴたりと受電がやんでしまったから、江左がデスクから何かを取り出して戻ってくる。
「これ、沢田さんから。お詫びのお菓子だって。自分じゃ渡せないから渡してくれって」
「俺に?」
「そう。あの子、自分がSNS騒動を起こしたせいで恩田さんが教育担当課の仕事ができなくなったんじゃないかって心配していてね。そんなことはないし、あなたが辞めずに続けることが彼の力になるからって言っておいたけど」
 意外な贈り物を手にすれば、綺麗な箱に入ったお菓子だった。チョコに包まれたグミだ。恩田のグミ好きを知っていた訳ではないだろうが、些細な偶然にまた少し心が回復する。
「立成さんっていったっけ? あの人に酷いことを言われながら、沢田さんはよく辞めずに続けてくれたと思いますよ。明日会ったらお菓子のお礼を言ってあげてくださいね」
「……もちろん」
 そこでプライベートのごたごたと絡み合っていたものが一つ解けた。自分は教育担当課の主任だ。コールスタッフを受け入れて、ここで長く働いてもらえるよう手助けをする。十月にはまた新しいメンバーが入ってくる。彼らに精一杯向き合うために、ギリギリまで八月メンバーのフォローをする。奇人になんと言われようとそれが恩田の仕事だ。悩んで立ち止まっている場合ではない。
 職場で食べてしまうのはもったいなくて、グミの箱をしまったところで江左が二十時の受電終了を告げる。なんだか久しぶりに心が満たされる。
 大丈夫。王子のことはともかく、自分は仕事を失ったりしない。熊田の言葉を信じていればいい。奇人の力でコールに異動になるなら喜んで異動してやる。SVを超えて課長にでもなってやる。久しぶりにそんな強気が戻ってきて、てきぱきと片づけを終える。今日は絵日記も書けそうだ。奇人のことを忘れて思い切り幸せな日記を書いてやろう。そう思って帰ろうとするが、何やら江左がバタバタし始める。
「どうかした?」
「うん。松島さんが戻ってこない」
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