恋愛メンタルマネジメント
「うちって、コールの契約社員ではなく人事部にですか?」
「そう。しかも人事課じゃなく教育担当課に」
それは驚いた。導入研修とフォローを担当して、コールが多忙ならヘルプにも入る教育担当課は多忙ではあるが、他の部課からは暇だと思われている。特に隣の人事課から二人で充分だと思われているから人員補充がない訳で、そこに新たな人材が来るとはどういうことだ。そんな恩田の疑問を読んだ熊田が小さく手招きする。
「役員の親戚なんだと」
声を潜めて告げられたのはいかにもの話だ。
「俺も詳しく聞けなかったけど、前の会社を諸事情で退職した彼に、ちょっといい格好をしたくなった役員が声をかけたということだな」
それは厄介なことをしてくれた。役員のポジションは権限を振り翳すためにあるのではないぞと言ってやりたい。もちろん思うだけだ。実行すれば主任の恩田など一瞬でクビだ。
「歳はお前と同じ二八で、人事部で長く働いていたから、また人事部がいいと言ったんだと。前職も結構いい会社だったから問題はないと思うけど」
何故その『結構いい会社』を辞めているのかというところに引っ掛かるが、追及しても仕方ない。
「人事課も異議を唱えられなくて、せめてもの抵抗でこっちによこしたって感じじゃないか」
「なるほど」
きっと言いなりになったのは冥賀のもっと上の役席だろう。役員とも上手くやらなければならないポジションは大変だ。
「ま、人手不足は人手不足だから、ありがたく人員補充を喜んでおこうと思ってな」
「ですね」
熊田のこういうポジティブさが好きだ。できるだけ人を悪く言わない。そんなポリシーが人事部に向いている。本当は人事課で社員の評価や異動を担当してほしい実力者なのだが、教育担当課の優秀な上司でもあるから、仕事についていくことで彼の評価に協力するつもり。彼がいいと言うなら恩田に反対する理由はない。
「慣れるまでお世話係の仕事が増えると思うけど」
「問題ありません」
「助かる」
彼がやってくる日にちと、大まかな仕事の割り振りを確認して自席に戻った。前職を辞めたあと親戚に次の仕事先を任せるということは、キャリアアップが理由の退職ではなかったのだろう。やはり少し引っ掛かるが、ここで普通に働いてくれれば問題ない。それに男性なら隣の課の冥賀に惚れる可能性も低い。そんな個人的な感情は隠して、その日の仕事を終えてしまう。
電車を乗り継いで帰る1Kで、簡単に作った食事を摂りながら眺めるのは『じぶん絵日記』というスマホアプリだ。その名の通り絵日記を書いて楽しむ、ごくごくシンプルなアプリだ。コミュニケーションが目的ではなく、あくまで日記を書いて自己満足するためのものだから、登録者数も少なく、コメント機能をオンにしていても批判コメントが皆無なのだ。恩田は『スキャナー、直描き、写真アップどれでも可』という大らかなシステムに惹かれて登録したが、今では一日一度は必ず触れる癒しアイテムになっている。
「あ、イイネがついている。珍しい」
誰とも友達登録していないから、ひと月に一度イイネがあるかないかの恩田のページに、新着のイイネがついていた。数日前に描いた『コピー機星人』というイラストを気に入ってくれたらしい。自己満足とはいえ、誰かが楽しんでくれたと思えば嬉しい。嬉しくて、食事の片付けを終えたあと、またお絵描きノートに向かう。
「トナー星人、王子に会って喜ぶ」
絵を描いて、文字を読み上げて一人笑う。一応SNSのようなものだから、職場であったことをそのまま書く訳にはいかない。だがお気に入りの彼がトナー交換をしてくれたことは残しておきたい。そんな望みを叶えるのが『星人イラスト』で、どうでもいいように見えて色々考えているのだ。黒い筒状のトナー星人が王子に抱き上げられて喜んでいる。これなら誰がどう見てもコンプラ違反にはならない。そんな風に職場の出来事を書いていくのが楽しいのだ。アプリのためにスキャナーを買うのもどうかと思ったので、恩田はどこまでもアナログに、紙に色鉛筆で絵を描いて写真を撮ってアップするという手法を取っている。
「王子か……」
本音はトナーではなく自分が彼に近づきたい。彼は人間なのだから、王子とトナーより遥かにアプローチが簡単なのだ。だが理屈ではない。恩田と冥賀の距離は王子と消耗品以上に離れている。ああ、現状維持でいいと納得している筈が、今日も少し凹んでしまう。それに気づいてまた小さく笑う。
「そう。しかも人事課じゃなく教育担当課に」
それは驚いた。導入研修とフォローを担当して、コールが多忙ならヘルプにも入る教育担当課は多忙ではあるが、他の部課からは暇だと思われている。特に隣の人事課から二人で充分だと思われているから人員補充がない訳で、そこに新たな人材が来るとはどういうことだ。そんな恩田の疑問を読んだ熊田が小さく手招きする。
「役員の親戚なんだと」
声を潜めて告げられたのはいかにもの話だ。
「俺も詳しく聞けなかったけど、前の会社を諸事情で退職した彼に、ちょっといい格好をしたくなった役員が声をかけたということだな」
それは厄介なことをしてくれた。役員のポジションは権限を振り翳すためにあるのではないぞと言ってやりたい。もちろん思うだけだ。実行すれば主任の恩田など一瞬でクビだ。
「歳はお前と同じ二八で、人事部で長く働いていたから、また人事部がいいと言ったんだと。前職も結構いい会社だったから問題はないと思うけど」
何故その『結構いい会社』を辞めているのかというところに引っ掛かるが、追及しても仕方ない。
「人事課も異議を唱えられなくて、せめてもの抵抗でこっちによこしたって感じじゃないか」
「なるほど」
きっと言いなりになったのは冥賀のもっと上の役席だろう。役員とも上手くやらなければならないポジションは大変だ。
「ま、人手不足は人手不足だから、ありがたく人員補充を喜んでおこうと思ってな」
「ですね」
熊田のこういうポジティブさが好きだ。できるだけ人を悪く言わない。そんなポリシーが人事部に向いている。本当は人事課で社員の評価や異動を担当してほしい実力者なのだが、教育担当課の優秀な上司でもあるから、仕事についていくことで彼の評価に協力するつもり。彼がいいと言うなら恩田に反対する理由はない。
「慣れるまでお世話係の仕事が増えると思うけど」
「問題ありません」
「助かる」
彼がやってくる日にちと、大まかな仕事の割り振りを確認して自席に戻った。前職を辞めたあと親戚に次の仕事先を任せるということは、キャリアアップが理由の退職ではなかったのだろう。やはり少し引っ掛かるが、ここで普通に働いてくれれば問題ない。それに男性なら隣の課の冥賀に惚れる可能性も低い。そんな個人的な感情は隠して、その日の仕事を終えてしまう。
電車を乗り継いで帰る1Kで、簡単に作った食事を摂りながら眺めるのは『じぶん絵日記』というスマホアプリだ。その名の通り絵日記を書いて楽しむ、ごくごくシンプルなアプリだ。コミュニケーションが目的ではなく、あくまで日記を書いて自己満足するためのものだから、登録者数も少なく、コメント機能をオンにしていても批判コメントが皆無なのだ。恩田は『スキャナー、直描き、写真アップどれでも可』という大らかなシステムに惹かれて登録したが、今では一日一度は必ず触れる癒しアイテムになっている。
「あ、イイネがついている。珍しい」
誰とも友達登録していないから、ひと月に一度イイネがあるかないかの恩田のページに、新着のイイネがついていた。数日前に描いた『コピー機星人』というイラストを気に入ってくれたらしい。自己満足とはいえ、誰かが楽しんでくれたと思えば嬉しい。嬉しくて、食事の片付けを終えたあと、またお絵描きノートに向かう。
「トナー星人、王子に会って喜ぶ」
絵を描いて、文字を読み上げて一人笑う。一応SNSのようなものだから、職場であったことをそのまま書く訳にはいかない。だがお気に入りの彼がトナー交換をしてくれたことは残しておきたい。そんな望みを叶えるのが『星人イラスト』で、どうでもいいように見えて色々考えているのだ。黒い筒状のトナー星人が王子に抱き上げられて喜んでいる。これなら誰がどう見てもコンプラ違反にはならない。そんな風に職場の出来事を書いていくのが楽しいのだ。アプリのためにスキャナーを買うのもどうかと思ったので、恩田はどこまでもアナログに、紙に色鉛筆で絵を描いて写真を撮ってアップするという手法を取っている。
「王子か……」
本音はトナーではなく自分が彼に近づきたい。彼は人間なのだから、王子とトナーより遥かにアプローチが簡単なのだ。だが理屈ではない。恩田と冥賀の距離は王子と消耗品以上に離れている。ああ、現状維持でいいと納得している筈が、今日も少し凹んでしまう。それに気づいてまた小さく笑う。