恋愛メンタルマネジメント
「そう。よかったね」
冷静なフリで返して、そのまま執務室を出るのが精一杯だった。王子はそんなことをする男ではないと分かっているのに、元恋人との恋愛が甦る。お前なんか恋人になれる訳がないと言われた。他に相手がいると分かっていても、黙って耐えるのが当たり前の恋だった。言い返してスッキリ別れた筈が、気持ちが弱れば過去が恩田を苦しめる。エレベーターで手早くラインを打てばいいと分かっていた。立成くんが言っていたことは嘘ですよね? そう送れば五時過ぎには返信がある。王子が呆れながら返事をくれる。会おうと言ってくれるかもしれない。だができなかった。思いがけず早く二階に着いてしまったエレベーターのせいにしてスマホをしまい込む。彼は酷い言葉を返すことはないだろう。けれど「どうしてそんなことを聞くの?」と質問で返されたら、恩田の心は挫けてしまう。奇跡みたいに始まった恋だから、現実に戻る瞬間を想像してしまう。王子とただの上司と部下に戻る現実。それが怖くて仕方ない。
「戻りました」
「あ、恩田さんお帰りなさい。悪いけど待ち呼が出ちゃって。受電に入ってくれる?」
「了解」
よかった。定時まで悩む暇もないほど忙しそうだ。そう安堵してしまう自分は恋愛弱者なのだろうと、また実感させられた。
熊田とは話ができて、「異動なんて話はないし、入ったばかりの立成を主任にする筈がないだろう」と笑われた。だが「奴の嘘に惑わされるほど疲れているのか?」と聞かれて少し凹んだ。冷静な判断を失っていると指摘されたようなものだ。ご指摘通り惑わされている。仕事だけならなんとかなったが、そこに恋する男が絡んでいるから厄介なのだと、流石にそこまで熊田に話すことはできない。教育担当課の主任だというのに情けない。こんなことでどうすると自分を叱咤して、与えられたコールの仕事を熟していく。
金曜に漸く王子と食堂で向き合うことができた。王子の方もバタバタしていて時間が作れなかったという。多忙を案じなければならないのに、そのバタバタは仕事のせいだろうかと考えてしまう自分が嫌になった。同時進行で奇人と付き合うことにしたから忙しいのでは? 最後には奇人を選ぶのでは? という不安が消えてくれない。
「食欲なさそうだね。体調悪い?」
「いえ。ちょっとぼんやりしていて」
素直に聞きたいことを聞けばいいのに、嘘を返してしまうのは怖いからだ。だって性格はともかく、奇人はアイドルのように華やかな見た目をしている。自分の見た目を不満に思ったことはないが、圧倒的に優れた人間と戦わなければならない状況では流石に苦しい。
そもそも奇人は王子が好きな訳ではない。気に入らない恩田を痛めつけるために迫っているだけだ。けれどもし何かの拍子に気持ちが変わってしまったら。本気で王子を好きになってしまったらどうだろう。普通の人間が驚くような愛情表現で相手に向かっていけば、王子も思わず受け入れてしまうかもしれない。いや、未来の話ではなく既にそうなっていたとしたら。
「アジフライ星人が泣いてしまうよ」
王子に控えめに指摘されて我に返る。久しぶりに正面から見た顔が苦笑している。恋人にそんな顔をさせて、自分は何をしているのだろう。
「仕事終わりにドライブでもと思ったけど、今日は家でゆっくりした方がよさそうだね」
「え……」
そうするうちに、彼と共に過ごせる幸せを一つ失ってしまった。
「ごめんね。ずっと僕のペースで連れまわして疲れさせちゃったかなって、心配していたんだ。たまには会わない休日っていうのも作ってみようよ」
それは気持ちが冷めてきたからではないか。そう、この状況でズバリ聞ける人間はいない。
「ほら、食べて栄養をつけて。今夜はアジフライ星人の日記を楽しみにしているからね」
言われて、せめて彼を待たせることはしないように箸を動かす。
「そうだ、恩田さん」
だがやけに油のきついフライを懸命に飲み込んだところで、彼がこちらに顔を寄せて言った。
「今夜のドライブをやめにする代わりに、来週温泉でも行かない? 一泊で」
何かを探すように辺りを見回してから、彼が微笑む。心配しなくても奇人は食堂にいないのにと不思議に思うが、今はそこではない。
「旅行?」
「そう。連休の週は混むだろうけど、一週間前の週末は逆に空いていると思うんだよね。ほら、ここ。前から行ってみたくて」
見せられた旅館のホームページに瞬いてしまった。絶望的だった気持ちが浮上する。
「恩田さんがいいなら予約しちゃうけど、どう?」
冷静なフリで返して、そのまま執務室を出るのが精一杯だった。王子はそんなことをする男ではないと分かっているのに、元恋人との恋愛が甦る。お前なんか恋人になれる訳がないと言われた。他に相手がいると分かっていても、黙って耐えるのが当たり前の恋だった。言い返してスッキリ別れた筈が、気持ちが弱れば過去が恩田を苦しめる。エレベーターで手早くラインを打てばいいと分かっていた。立成くんが言っていたことは嘘ですよね? そう送れば五時過ぎには返信がある。王子が呆れながら返事をくれる。会おうと言ってくれるかもしれない。だができなかった。思いがけず早く二階に着いてしまったエレベーターのせいにしてスマホをしまい込む。彼は酷い言葉を返すことはないだろう。けれど「どうしてそんなことを聞くの?」と質問で返されたら、恩田の心は挫けてしまう。奇跡みたいに始まった恋だから、現実に戻る瞬間を想像してしまう。王子とただの上司と部下に戻る現実。それが怖くて仕方ない。
「戻りました」
「あ、恩田さんお帰りなさい。悪いけど待ち呼が出ちゃって。受電に入ってくれる?」
「了解」
よかった。定時まで悩む暇もないほど忙しそうだ。そう安堵してしまう自分は恋愛弱者なのだろうと、また実感させられた。
熊田とは話ができて、「異動なんて話はないし、入ったばかりの立成を主任にする筈がないだろう」と笑われた。だが「奴の嘘に惑わされるほど疲れているのか?」と聞かれて少し凹んだ。冷静な判断を失っていると指摘されたようなものだ。ご指摘通り惑わされている。仕事だけならなんとかなったが、そこに恋する男が絡んでいるから厄介なのだと、流石にそこまで熊田に話すことはできない。教育担当課の主任だというのに情けない。こんなことでどうすると自分を叱咤して、与えられたコールの仕事を熟していく。
金曜に漸く王子と食堂で向き合うことができた。王子の方もバタバタしていて時間が作れなかったという。多忙を案じなければならないのに、そのバタバタは仕事のせいだろうかと考えてしまう自分が嫌になった。同時進行で奇人と付き合うことにしたから忙しいのでは? 最後には奇人を選ぶのでは? という不安が消えてくれない。
「食欲なさそうだね。体調悪い?」
「いえ。ちょっとぼんやりしていて」
素直に聞きたいことを聞けばいいのに、嘘を返してしまうのは怖いからだ。だって性格はともかく、奇人はアイドルのように華やかな見た目をしている。自分の見た目を不満に思ったことはないが、圧倒的に優れた人間と戦わなければならない状況では流石に苦しい。
そもそも奇人は王子が好きな訳ではない。気に入らない恩田を痛めつけるために迫っているだけだ。けれどもし何かの拍子に気持ちが変わってしまったら。本気で王子を好きになってしまったらどうだろう。普通の人間が驚くような愛情表現で相手に向かっていけば、王子も思わず受け入れてしまうかもしれない。いや、未来の話ではなく既にそうなっていたとしたら。
「アジフライ星人が泣いてしまうよ」
王子に控えめに指摘されて我に返る。久しぶりに正面から見た顔が苦笑している。恋人にそんな顔をさせて、自分は何をしているのだろう。
「仕事終わりにドライブでもと思ったけど、今日は家でゆっくりした方がよさそうだね」
「え……」
そうするうちに、彼と共に過ごせる幸せを一つ失ってしまった。
「ごめんね。ずっと僕のペースで連れまわして疲れさせちゃったかなって、心配していたんだ。たまには会わない休日っていうのも作ってみようよ」
それは気持ちが冷めてきたからではないか。そう、この状況でズバリ聞ける人間はいない。
「ほら、食べて栄養をつけて。今夜はアジフライ星人の日記を楽しみにしているからね」
言われて、せめて彼を待たせることはしないように箸を動かす。
「そうだ、恩田さん」
だがやけに油のきついフライを懸命に飲み込んだところで、彼がこちらに顔を寄せて言った。
「今夜のドライブをやめにする代わりに、来週温泉でも行かない? 一泊で」
何かを探すように辺りを見回してから、彼が微笑む。心配しなくても奇人は食堂にいないのにと不思議に思うが、今はそこではない。
「旅行?」
「そう。連休の週は混むだろうけど、一週間前の週末は逆に空いていると思うんだよね。ほら、ここ。前から行ってみたくて」
見せられた旅館のホームページに瞬いてしまった。絶望的だった気持ちが浮上する。
「恩田さんがいいなら予約しちゃうけど、どう?」