恋愛メンタルマネジメント

 彼が笑う。だがふと笑みを引いて言う。
「もう一つ謝りたいんだけど、去年の台風の日、知り合いを送ってたまたま会社の傍を通ったっていうのは嘘なんだ」
「え?」
 恩田を家まで送り届けてくれた夜のことだ。
「『じぶん絵日記』を見て恩田さんが一人で職場ビルに残っているようだって分かったから、ダメ元で迎えに行ってみようかと思ってね。ごめん。怖いかな?」
「いえ。あの夜、凄く助かったから」
 ついでにそのとき恩田は完全に王子に惚れてしまった。
「ありがとう。で、その夜僕は恩田さんへの気持ちを自覚してしまったんだ」
 何故か王子が恩田の気持ちと同じことを言う。
「好かれるようなことなんて一つも」
「ううん」
 水槽にぶつかるのではないかと思うほどギリギリまでやってくるエイにも、王子はちらりと目を向けただけで落ち着いたままだ。
「傘の水滴を拭いてくれたこと、覚えている?」
「あれは……」
 元彼に叱られて染みついた行動。そう言おうとしたが、王子の言葉には続きがある。
「言葉のニュアンスから元恋人が男性なんだろうなって分かった。そうしたら悔しくなってね。水滴くらいで怒る男が恩田さんの恋人だったなんてって。少し遅れて、これは嫉妬だって気づいて、恩田さんをそういう意味で好きなんだなって自覚したんだ。それからは職場で恩田さんと話ができるのが嬉しくて」
 嬉しいのは恩田の方だった。そんな風に思ってくれていたなんて知らなかった。胸が一杯の恩田に王子の話は続く。
「ゆっくり好きになってもらえればいいと思っていたけど、立成くんが現れたから」
「立成さん?」
 奇人の話は縁起が悪い。
「彼は僕の社会人経験の中でも珍しいほど特異な男性だからね。彼のせいで恩田さんが苦しむのを見たくない」
 奇人への評価も美しい顔で口にしてしまえるのが流石だ。
「職場で堂々とフォローしたいし、恩田さんが傷つくことがあるならプライベートでも癒しの存在になりたい。だから予定より早く告白することになった。どう? 何か質問はある?」
「……いえ。でも手の届かない人だと思っていたので、現実感がなくて」
「王子という評価は嬉しいけど、僕はどこにでもいる人間だよ。いや、違うな。姫を迎えて普通の家族を作ることはできそうになくて、できれば好きになった同性と暮らしていきたい。その相手が恩田さんだといいと思っている」
 そんな上手い話があるかと思った。ストレートだと思っていた王子が同類で、恩田を好きだと言ってくれる。夢なら覚めないでくれと思うが、これは現実だと分からせるように、エイが水槽にぶつかってドンと音を立てる。大丈夫か? と思って目を向けるが、彼はまた悠々と水槽の中央に戻っていく。いつのまにかもう一枚のエイがじゃれ合うように泳いでいる。オスとメスの見分け方を知らないが、パートナーなのかもしれない。
「返事は急がないからゆっくり考えて」
「……っ」
 そう言って次の水槽に向かう彼のジャケットの袖を掴んでいた。
「すみません」
「ううん」
 子どものような行動が恥ずかしくて俯く。その様子に呆れることもなく、王子は足を止めて恩田の言葉を待ってくれる。
「俺も冥賀さんが好きです。王子だと思うくらいに。でも隠して諦めないといけない気持ちだって、ずっと思っていて」
「隠さなくていいことは分かった?」
「……はい」
 恐る恐る顔を上げれば王子が泰然と微笑んでいた。そういえば王子の下の名前は泰人だ。よく似合う。告白の返事に怯えることもない。恩田が断ることはないと思っているのか、ここで振られればまた新しい相手を見つければいいと思っているのか。後者なら、そんなもったいないことをして堪るかと思う。
「冥賀さんが嫌でなければ恋人にしてください」
「僕が恋人になってほしいと言ったんだから、嫌な訳がないでしょう?」
 そう言って水槽の前で抱き寄せられた。腕を回された肩が熱い。戯れで髪や腕に触れられることはあったが、こんな風に力を籠めて、誤解のしようもなく触れられるのは初めてだ。ドクドクと鼓動が速まる。王子はそんな風に恩田に触れるのが嫌ではない。それが分かって漸く現実感が湧いてくる。ガヤガヤと団体客がやってくるのに気づくまで、王子は恩田を抱いていた。
「海中トンネルを潜ろうか。アトラクションも乗ってみよう」
 腕を引いてくれた王子がご機嫌に見えるのが、自惚れでないといい。顔色がバレにくい空間で思う存分頬を染めながら、彼と二人で目一杯楽しむ時間になった。
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