恋は乗り越えられない試練を与えない。
激務続きでなかなか食事には行けなかったが、その代わり連絡先を交換して、帰宅してからぽつぽつと野球トークをするようになった。大抵楽しいKオリオンズトークだが、たまにどうしてもしんどいときには愚痴も零す。
『あの課長、たまに消しゴムを投げてやりたくなる』
『消しゴムでいいのか? 俺は無言で近づいて殴ってやりたくなる』
昊より更に酷いことを言ってくれる気遣いがありがたい。
『内村さんなら本当に無表情のままやりそう』
『お望みならやるぞ。俺の課じゃないけど、近くで見ているだけで苛々する』
『いや、やめて。あの人、大怪我をしたと騒いで休みそう』
『あー、そうか。いないよりはいた方がいいからな』
無能な課長でも判子を押すくらいはできるのだ。とまぁ、そんなやりとりに救われる。
『明日からナイトゲーム三連戦だから、それを楽しみに残業します』
『じゃあ、明日、試合チェックに付き合ってやる』
『ほんと? 嬉しい。本気で』
絶望の時間に光が差す。
『お菓子準備して待ってる』
『ふわチョコロール。俺、あれ好物』
『了解』
大の大人のやりとりではないだろうと思うが、一時の現実逃避だからいいのだ。明日も明後日もその次も昊の残業は決まっている。何故ってお盆期間中で、家族のいる者が当然の権利とばかりに休みを取るから。いや、その言い方は刺がある。みな一日か二日ずつしか取っていないが、五人にそうされれば毎日が人手不足なのだ。昊は夏季休暇などとうに諦めた。お盆になど興味はないからいい。だが二年以上は繰り越せず、給料に変換することもできない有休を、いつか使える日は来るのだろうか。家族との思い出作りと曰って四日も有休を取りやがった課長のデスクに出刃包丁を置いてきたい。そんな恐ろしげな妄想を振り払って、激務に備えてベッドに入る。
翌日、お前らに慈悲の心はないのかと言いたくなるほどすっからかんになった定時後の執務室で、約束通り内村が残業に付き合ってくれた。
「ヒットだけじゃなく、守備でナイスプレーをしたときも教えてください」
前と同じように、隣の椅子に座る彼にスマホを預ける。
「分かった。てか、課長はお盆期間中丸々いないんだろ? 俺が書類を手伝ってもよくない?」
その言葉が胸に沁みる。沁みるほどありがたいが顧客事務課のルールは厳しいのだ。
「課長はいないけど部長もその点は厳しいんです。伊達に部長になった人じゃないし、バレたとき内村さんに迷惑をかけたくないから」
「ふーん。伊達じゃなきゃ、仕事もやればいいのに」
昊が表示しておいたテキスト速報のページを見ながら彼が呟く。試合開始まであと十分。画面には今日のスタメンと先発ピッチャーが表示されている。
「オペレーション課の主任はなんで早く帰れているの? 同じ課長なのに」
「ああ。あっちは上席がいないところで作業を進めてはいけないルールがあって」
だから部課長が帰れば主任も帰れるのだ。日中のノルマは厳しいが、昊のように一人で残業することはない。
「なんか貧乏くじだな、原田さん」
「定時までに終わらせろというプレッシャーの方が大変だと思うから」
内村のお陰で穏やかな自分でいられた。出刃包丁を持って出勤することもなさそうだ。
「あ、ふわチョコロール買ってきました」
朝のうちに仕入れておいた大容量パックを差し出せば彼が面食らった。食べきりサイズを買ってくると思ったらしい。だが残念ながら食べきりサイズでは残業の役に立たないのだ。
「優秀な内村さんに期待しているから。それを食べながら頑張って。はい、イチゴ味もどうぞ」
「……イチゴ味なんて初めて見た」
「ではイチゴ味を食べながら、今日もいい仕事を期待しています」
「仕事するのはそっちだろ?」
言い合ううちに試合が始まり、テキスト観戦を彼に任せて、昊は要塞のような書類に向かう。崩しておかなければ明日の自分がやられてしまう。Kオリオンズの選手以上に頑張らなければならない。
その日は両チームとも先発ピッチャーが好調で、ヒットもホームランも出さずにサクサクと試合が進んだ。声を掛けられることがないから、仕事のスピードも上がっていく。
「安井が出てきた」
彼の言葉と最後の書類チェックを終えるのが同時だった。
「ナイスタイミング。どんな感じ?」
「二アウト一三塁。安井は三人目。八回から代わった二人目がピンチを作った」
Kオリオンズコーチ、マウンドに向かう。ピッチャー交代、沢田→安井と表示されている。テキスト速報は映像がない分、こうして文字で説明してくれる。
「うーん、また嫌なタイミング。素直に八回頭から安井さんを出しておけばいいのに」
椅子を転がして、彼に身体を寄せて画面を見つめる。
「このところ連投だからな。中継ぎとはいえ、休ませないとダメだと思ったんだろ」
『あの課長、たまに消しゴムを投げてやりたくなる』
『消しゴムでいいのか? 俺は無言で近づいて殴ってやりたくなる』
昊より更に酷いことを言ってくれる気遣いがありがたい。
『内村さんなら本当に無表情のままやりそう』
『お望みならやるぞ。俺の課じゃないけど、近くで見ているだけで苛々する』
『いや、やめて。あの人、大怪我をしたと騒いで休みそう』
『あー、そうか。いないよりはいた方がいいからな』
無能な課長でも判子を押すくらいはできるのだ。とまぁ、そんなやりとりに救われる。
『明日からナイトゲーム三連戦だから、それを楽しみに残業します』
『じゃあ、明日、試合チェックに付き合ってやる』
『ほんと? 嬉しい。本気で』
絶望の時間に光が差す。
『お菓子準備して待ってる』
『ふわチョコロール。俺、あれ好物』
『了解』
大の大人のやりとりではないだろうと思うが、一時の現実逃避だからいいのだ。明日も明後日もその次も昊の残業は決まっている。何故ってお盆期間中で、家族のいる者が当然の権利とばかりに休みを取るから。いや、その言い方は刺がある。みな一日か二日ずつしか取っていないが、五人にそうされれば毎日が人手不足なのだ。昊は夏季休暇などとうに諦めた。お盆になど興味はないからいい。だが二年以上は繰り越せず、給料に変換することもできない有休を、いつか使える日は来るのだろうか。家族との思い出作りと曰って四日も有休を取りやがった課長のデスクに出刃包丁を置いてきたい。そんな恐ろしげな妄想を振り払って、激務に備えてベッドに入る。
翌日、お前らに慈悲の心はないのかと言いたくなるほどすっからかんになった定時後の執務室で、約束通り内村が残業に付き合ってくれた。
「ヒットだけじゃなく、守備でナイスプレーをしたときも教えてください」
前と同じように、隣の椅子に座る彼にスマホを預ける。
「分かった。てか、課長はお盆期間中丸々いないんだろ? 俺が書類を手伝ってもよくない?」
その言葉が胸に沁みる。沁みるほどありがたいが顧客事務課のルールは厳しいのだ。
「課長はいないけど部長もその点は厳しいんです。伊達に部長になった人じゃないし、バレたとき内村さんに迷惑をかけたくないから」
「ふーん。伊達じゃなきゃ、仕事もやればいいのに」
昊が表示しておいたテキスト速報のページを見ながら彼が呟く。試合開始まであと十分。画面には今日のスタメンと先発ピッチャーが表示されている。
「オペレーション課の主任はなんで早く帰れているの? 同じ課長なのに」
「ああ。あっちは上席がいないところで作業を進めてはいけないルールがあって」
だから部課長が帰れば主任も帰れるのだ。日中のノルマは厳しいが、昊のように一人で残業することはない。
「なんか貧乏くじだな、原田さん」
「定時までに終わらせろというプレッシャーの方が大変だと思うから」
内村のお陰で穏やかな自分でいられた。出刃包丁を持って出勤することもなさそうだ。
「あ、ふわチョコロール買ってきました」
朝のうちに仕入れておいた大容量パックを差し出せば彼が面食らった。食べきりサイズを買ってくると思ったらしい。だが残念ながら食べきりサイズでは残業の役に立たないのだ。
「優秀な内村さんに期待しているから。それを食べながら頑張って。はい、イチゴ味もどうぞ」
「……イチゴ味なんて初めて見た」
「ではイチゴ味を食べながら、今日もいい仕事を期待しています」
「仕事するのはそっちだろ?」
言い合ううちに試合が始まり、テキスト観戦を彼に任せて、昊は要塞のような書類に向かう。崩しておかなければ明日の自分がやられてしまう。Kオリオンズの選手以上に頑張らなければならない。
その日は両チームとも先発ピッチャーが好調で、ヒットもホームランも出さずにサクサクと試合が進んだ。声を掛けられることがないから、仕事のスピードも上がっていく。
「安井が出てきた」
彼の言葉と最後の書類チェックを終えるのが同時だった。
「ナイスタイミング。どんな感じ?」
「二アウト一三塁。安井は三人目。八回から代わった二人目がピンチを作った」
Kオリオンズコーチ、マウンドに向かう。ピッチャー交代、沢田→安井と表示されている。テキスト速報は映像がない分、こうして文字で説明してくれる。
「うーん、また嫌なタイミング。素直に八回頭から安井さんを出しておけばいいのに」
椅子を転がして、彼に身体を寄せて画面を見つめる。
「このところ連投だからな。中継ぎとはいえ、休ませないとダメだと思ったんだろ」