恋は乗り越えられない試練を与えない。

 ネットにそんなコメントが並ぶようになった。部外者ながら目にするたびに心を痛めた。だが過激なファンは止まらない。
『安井が抑えられなくなったのは妻のせいだ』
 チームがCSで敗退したあと、コメントの流れはそんな風に変わった。
『安井の妻はかなり我が侭らしい』
『夫をダメにする疫病神』
 球団ホームページのコメント欄や、野球応援サイトにそんな言葉が並ぶ。それをネットニュースで取り上げるから悪い方に盛り上がる。熱心なファンでも流石に酷すぎる。そう思って、昊は違反報告やバッドボタンで応戦した。一つでも彼の目に入る酷い言葉を消したかった。昊と同じ思いの人間は少なくなかった筈だ。だがネットの過激さはそれを簡単に超えていく。
「ストライクが取れなくなったのは全部僕の責任です」
 最終的に安井はテレビの前でそう言って頭を下げた。妻を護るために、自らマスコミに出演交渉をしたのだと、あとから聞いた。
「妻は今、静かに身体を休めなければならない時期です。僕のことはどれだけ叩いてくれても構いません。どうか、妻への攻撃はやめてください」
 そう言って頭を下げる彼の姿に堪らない気持ちになった。結局、昊の応戦は役に立たず、彼は妻を護るために離婚した。
 その後安井はKオリオンズに移籍することになった。先発ではなく中継ぎとして。ずっと先発でやってきた投手にとって苦しい条件だった筈だが、彼はそれを受け入れた。
 その後四月五月は二軍で過ごし、六月に一軍に合流した彼は、少しずつ成績を上げていった。Kオリオンズのファンから「いい投手が来たね」と喜ばれるようになって昊も安堵した。ずっと彼を見ているうちに、すっかりファンになってしまったという訳だ。
「ふーん。結構きつい過去があった訳だ」
 デザートの白玉団子を食べながら彼が彼が言った。ドリアとメロンソーダで充分驚かされたから、もう白玉団子くらいでは驚かない。
「えっと、俺のも食べます?」
 彼に合わせて注文してしまったチョコタルトを差し出せば、くれるなら貰うと、白玉用のスプーンをフォークに持ち替える。甘いものは和も洋も好きらしい。美しい男がタルトにフォークを入れる様は絵になる。
「それで復調している訳ですが、今度はそこを叩く人間がいるんです」
 彼に止められなかったから話を続けた。
「なんで?」
「初めからKオリオンズに移籍したくて、わざと酷い投球をしていたんじゃないかって」
「言いがかりだな」
「でしょう?」
 野球に命を懸けているようなファンはそこが怖い。
「ああ。だから安井君人のコメントパトロールを頼まれた訳か」
「そういうことです。何も移籍した人間を追いかけてまで叩かなくていいのにって」
「だな。けど今日は彼に対する酷いコメントはなかったな。褒めるコメントがちらほらあったから、グッドボタンを押しておいた」
「優秀です」
「それはどうも」
 そこで一旦安井君人の話は終わりになった。こんなに詳細に語ったのは久しぶりで、満足感に包まれる。彼が綺麗に食べ終えた器も清々しい。料理のチョイスには驚かされたが、美しい男に相応しく食事の作法は完璧だった。また少し彼に好感を持つ。
「出ましょうか」
「だな」
 彼もこの時間に満足したようで嬉しかった。店を出て駅までの道を帰っていく。
「支払いどうも」
「いいえ、たかがファミレスですし。安井さんの話を聞いてもらえてストレス解消になったし」
 本心を告げれば彼がクッと笑う。
「なんですか?」
「いや、ほんとに安井君人が好きなんだなと思って。俺のおかしな料理のチョイスには突っ込みもしない」
 どうやらおかしいと自覚はあったらしい。
「突っ込んだ方がよかったですか?」
「いや、いらない。原田さんと食事に行けば、好きなものを気兼ねなく頼めそうだと思った」
「他の人の前では違うんですか?」
「それは一応大人だから、それらしいメニューを選ぶだろ」
 では何故昊の前では違ったのか。その疑問を読んだように返される。
「なんでだろうな。こいつなら人の好みにケチをつけたりしないだろうなって思った。安井君人のことを語ると宣言されていたから尚更」
「別に誰の前でも好きなものを好きに食べればいいじゃないですか。というか、ドリアとメロンソーダと白玉団子が好きなんですね」
 彼とこんなに会話が続いているのが不思議だった。弱い風が湿度を取り払って、七月だというのに過ごしやすい夜。
「好きだけど、それより子ども時代の願望を叶えているというか、昔の自分に与えたい気分になるんだろうな」
「昔の自分に与えたい?」
「まぁ、好きに食べるってだけだけど」
 そう話は終わってしまった。複雑な幼少期だったのだろうか。深く聞いてはいけないことかもしれないから、代わりに別のことを言う。
「一緒にKオリオンズを応援してくれるなら、俺の前で何を食べても構いませんから、また一緒にご飯に行きましょう?」
「いいけど、どうせ安井君人のファンになるのが条件なんだろ?」
「え? あれだけ聞いておいて、まだファンになっていなかったんですか?」
 割と本気で言ってやれば彼が声を上げて笑う。あ、笑うと眉が上がるタイプ。破顔という言葉があるが、彼は笑っても綺麗さが崩れない。そんな男の意外な一面を見てしまった。ドリアとメロンソーダと白玉団子とチョコタルト。現実感がないほど美しいけれど、彼はごく普通の人間だ。そう知れたことが嬉しい。
「またファミレスがいい。他にも食べたいメニューがあるから」
 他の人間の前で頼めない料理があるなら、昊の前で存分に頼めばいいと思った。
「今度はパフェとか頼みましょう。俺、あれ全部は食べられないので、上の方だけ食べて譲ります」
「は? あれを全部食べられないって、子どもかよ」
 どっちがだよと突っ込む前に笑ってしまう。お酒も飲んでいないのに、駅までの道がこんなに楽しいのは何故だろう。分からないけれど、久しぶりに翌日の仕事を忘れられた時間だった。
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