恋は乗り越えられない試練を与えない。

 声を上げても内村は笑ったりしなかった。バッターとの勝負が続いてフルカウント。映像ではないから、文字が出てくるのを待つしかない。
『空振り三振、三アウト』
 ポンとその結果が表示されたとき、思わず内村に抱きついていた。
「やった。安井が抑えた」
「……うん。でもまだ八回だから勝った訳じゃない」
「もう勝ったみたいなものです」
 ごめんと言って身体を離すが、特に彼が拘る様子はなかった。スッと綺麗な姿勢のままスマホを見続ける様子に安堵する。野球のこととなると周りが見えなくなってしまうのは昊の悪い癖だ。
『四対一。Kオリオンズの勝利』
「やった!」
 昊の言葉通りKオリオンズは勝った。勝ったことも嬉しいが、安井投手がピンチを抑えたことが嬉しい。城壁みたいだった書類も片づいて清々しい。ルンルンと帰り支度を始めて、そこでふと腕時計に目を遣った。まだ八時半。それなら多少寄り道をしてもいい。
「内村さん、ご飯に行きませんか? Kオリオンズが勝ったから奢りますよ」
「……いいけど」
 嫌だと言われれば引くつもりだったが、戸惑いつつも拒否はされなかった。飲み会は全て欠席するという噂だが、他人と食事をするのが嫌な訳ではないらしい。
「別に奢られなくていいよ。寧ろあの女から助けてもらったお礼に俺が奢る。結局仕事の手伝いもできなかったし」
「何を言っているんですか。内村さんのお陰でKオリオンズも勝ったし、俺が奢るのは当然でしょう? なんでも奢るから安井投手の話を聞いてください」
「あ、そういうこと」
 下心を隠さず晒せば、彼がまた微かに口角を上げる。
「内村さん相手ならベスハラにならないだろうし」
「何、ベスハラって?」
「ベースボールハラスメント。今は気軽に若い女性に野球の話をしたらそれだけでハラスメントらしいから」
 大真面目に答えれば、彼がまた耐え切れないというように笑い出した。
「面白いな、原田さん。無能な上司に逆らえない大人しキャラだと思っていたのに」
 彼の言い方も随分だ。
「褒めてくれてありがとう。じゃあ、行きましょう。何食べます? 俺、残業しまくっているからお金持ちです。明日も激務だからお酒は無理ですけど」
「長話しても怒られない店がいいんじゃない?」
 そんなこんなで彼と食事に行くことになった。
 驚いたことに彼が希望したのはファミレス。ついでに、一人静かに和定食を食べていそうな彼が選んだメニューはハンバーグドリアだ。美しい男は何を食べてもサマになるからいいが、それにしても可愛らしいチョイスだ。因みに昊は野菜の天ぷら御膳。
「これ、うまい」
 ドリンクバーで調達してきた緑色のソーダにしみじみと言う彼を凝視した。なんというか、ずっと飲みたかったものを飲んで嬉しさを噛みしめる子どものような顔。いつもいいものを飲み食いしていて、ドリンクバーのジュースが珍しかったのだろうか。まぁ、ここで突っ込んで空気を悪くする必要はないし、食事中にジュースを飲むなと野暮なことを言うつもりもない。それより昊には目的がある。
「十分くらい安井投手について語ってもいい?ですか?」
「十分で足りる?」
「足りないけど、内村さんの反応を見てから決めます」
 素直に言えば、彼がまたクッと笑う。これなら三十分話しても大丈夫そうだ。
「まず内村さんの知識を確認したいんですけど、安井投手についてどれくらい知っています?」
「去年まで別のチームにいて、今年からKオリオンズにに来たってことくらいかな。前のチームでは先発だったんだろ?」
「そう。そうなんです」
 彼が安井に悪いイメージを持っていないことに安堵して、遠慮なく語り出す。
 安井やすい君人きみとは去年はCブルータスの先発ピッチャーだった。成績もよくローテーションに不可欠な人材。その頃、昊はまだ特別ファンという訳でもなくて、敵チームにいるちょっと顔が好みの投手という感じだった。
 そんな彼が気になり出したのは去年の七月。彼が病気の家族の傍にいたいという理由で休みをとったことがきっかけだった。普通の会社と違って、野球選手が家庭の事情で休暇を取ることは珍しい。過激なファンが「ローテーションが崩れた」と言って彼を責め始めた。おまけに本人が家族としか言っていないのに、ネット民が彼の家族は妻しかいないと暴いてしまう。それでも彼は詳細を語らず妻を護る。
 結局、登録抹消を経て彼は一ヵ月で復帰した。とりあえずは家族の病状は落ち着いた。ニュースに出た彼のコメントを見て、昊は単純によかったと思っていたのだ。
 だが復帰後の彼はそれまでのようなピッチングができなくなった。ストライクが入らず、立て続けにヒットを打たれ、一打逆転の場面でホームランを打たれる。彼の実力を知る監督は一度で見限ることはなく二度三度と起用した。だがそのたびに失点して、次第に彼が先発の日は試合前からヤジが飛ぶようになった。
 もう一度二軍に落として様子を見ればよかったのかもしれない。だが復活を信じて使い続けた監督のせいで、彼はチームのファンから集中攻撃を受けるようになった。チームは順位を落とし、確実だと思われていたリーグ優勝を逃す。その鬱憤が全て彼に向いた。
『優勝できなかったのは安井のせいだ』
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