恋は乗り越えられない試練を与えない。

 取りようによっては酷い言い方になってしまったが、彼が不機嫌になることはなかった。
「この間、ウザい女から助けてもらったからお礼」
 なるほど、貸し借りはなしにしておきたいタイプか。それでも部課長に見捨てられた人間には染み入るようにありがたい。ありがたいが顧客事務課には他部署の人間に仕事を任せてはいけないというルールがあった。仕事をしない課長は、そんなルールだけは嬉々として語るから、たまに本気で殺意を覚える。
「ありがとう。でもうちは役席の許可を取らずに他部署の人間に書類を触らせてはいけないルールがあって」
「ああ。あの仕事してますアピールだけは上手い課長が言いそうだな。イクメンを気取って帰ってるけど、育児なんてしいてる訳がない」
「それは分からないでしょう?」
「いや、分かる。顔に書いてある」
「そっか」
 堪らず吹き出してしまった。彼が昊よりずっと酷いことを言ってくれるから気持ちが軽くなる。そこでハッと閃いた。
「早く帰らなくていいなら一つお願いがあります」
「何?」
 聞く前から、彼は隣のデスクの椅子を引いて座ってくれる。ボロボロの状況でそんな些細な行動が嬉しい。なんだ、変人でもコミュ障でもないじゃないか。テンションが上がって、恥じることなく彼に自分のスマホを差し出す。
「Kオリオンズの試合をリアルタイムテキストで見て、いい情報だけ教えてほしい」
「……は?」
 彼が呆気にとられるのは想像通り。
「Kオリオンズが好きなの?」
「大好き。地獄みたいな生活の唯一の希望」
 言ってやれば彼もクッと笑う。
 Kオリオンズは、じゃない方のリーグだから、ファンが多い訳ではないし、地上波中継も滅多にされない。勝っても負けても気にされないチームだが、数年前に新球場を作って本拠地を移し、選手もスタッフも一丸となってホーム球場をアピールしたお陰で、これまでにない盛り上がりをみせている。最下位が定位置だったのに、今年はリーグ三位と健闘している。全く違う地域に住んでいるが、昊はそんなチームが好きなのだ。
「安井投手が登場したら絶対に教えて。それと、同時進行で野球ニュースをチェックして、安井さんの悪口が書かれていたらバッドボタンを押しておいて。酷すぎる悪口なら違反報告もお願い。もちろん誉めるコメントにはグッドボタン。俺のアカウントと内村さんのアカウントで二回ずつね」
 もうこの際だと希望を全て告げれば、きょとんとした彼がまた笑い出した。綺麗な人間は笑うと綺麗さが増す。大量の書類とKオリオンズが大半を占めていた思考に、内村透輝が入り込んでくる。
「無理?」
 試すように聞いてやれば、彼も悪戯っぽい表情を返す。
「まさかだろ」
 不敵顔の彼が鞄から自分のスマホを取り出す。なんだ、表情豊かじゃないか。ふっと笑って、積み上げられた書類の敵に向かっていく。
 誰かが傍にいる心強さで、書類のチェックはサクサクと進んだ。内村は本当に昊の指示を熟しているらしく、時々自分のスマホに持ち替えながら画面をタップしている。スマホが禁止されている執務室ではないが、残業中は集中力を落とさないために触らないようにしていた。家に帰ってから、球団が上げてくれるハイライト動画をチェックする。試合に勝った日はホームランやヒットのシーンを上げてくれるから、その短い動画をリピートすることが日々の癒しだった。だが今日は彼が観て、いい報告だけしてくれる。テキスト速報でもリアルタイムなら充分楽しめるのだ。
「あ、ヒット」
「誰? 一塁?」
「岡部。二塁」
 時々そんな会話を挟んで、一人の日よりずっと仕事は進んだ。
「よし。今日の分は終了」
「安井が出てきた」
 伸びをしたタイミングに彼の報告が重なる。
「どんな状況?」
 椅子を転がして彼に身体を寄せた。顔を近づけてスマホを覗き込めば、ピッチャー交代、川田→安井と表示されている。
「八回から変わったピッチャーが連続ヒットを打たれて一、三塁。三番手の川田がデッドボールを出して一アウト満塁」
 四対一と出ている。一打逆転の嫌な場面。Kオリオンズ一年目の安井に負けの責任を押しつけるつもりか。そう思って、いやいやと首を振る。今の監督はそんなことはしない。単純に安井を信頼しているのだ。そう信じて、白い画面に黒テキストというシンプルな画面を見つめる。
『サードゴロ、二アウト』
「よし!」
6/11ページ
スキ