恋は乗り越えられない試練を与えない。

 仄暗い地下通路を恋人と並んで職場に向かう。地上駅から降りて、職場最寄りまで地下道を歩く十五分。多くの人間は地下鉄で乗り継ぎをするから、くねくねと歩いていくのは変わり者だけ。だが変わり者も悪くない。帰宅時間は一緒にならないから、朝二人でいられる時間は貴重なのだ。
「実は近くの会社に通っていたのに、再会するまで朝一度も会わなかったのは不思議だな」
「俺、かなり早く出ていましたから」
 満員電車のピークに遭わないように早く出て、オフィスで時間を潰していたのだ。内村と出勤すると決めてから少し気持ちが楽になって、無駄に早い電車に乗ることもなくなった。電車トラブルで満員になると少し怖いが、耳栓代わりのイヤホンがあればなんとかなる。大丈夫、慣れた通勤ルートだからキレたりしないと思えるようになった。油断は禁物だが、前より心に余裕が持てるようになった。後遺症はなくならない。けれど怯えて今を潰すようなことはやめようと思う。大きな進歩だ。
「今日はヤバいかなって思う日は連絡して。昊の家まで迎えに行ってもいいし、二人でタクシーに乗ってもいい」
「ありがと。でも最近は割と落ち着いているんです。透輝に望むのは、俺がキレても嫌わないでいてくれること」
「だからそれはあり得ないって」
 足を止めた彼が眉を寄せて、ああ、怒らせてしまったなと思う。まぁ、怒ったところで神様に丹精込めて作られたような美しい男なのだから、見惚れるだけだ。
「昊はメロンソーダも童貞も嫌わなかった。だからキレるくらいで嫌わない」
「……メロンソーダを童貞と一緒にするのもどうかと思いますけど」
「とにかく俺は昊が好きだから」
「う……」
 美しすぎる顔で微笑むのは反則だ。以前微笑みで部課長をフリーズさせたことがあったが、その攻撃は恋人の昊にも有効だから困ったものだ。何度食らっても耐性ができない。
「仕事中、体調が悪くなったら電話して。俺、早退して迎えに行くから」
「いや、職場には兄さんがいるし」
「それも!」
 せっかく歩き出した彼がまた足を止めて昊を見つめる。
「いずれ、お兄さんより頼ってもらえる存在になるから。そして広い部屋を借りて俺が昊と暮らす」
「……兄さんが結婚でもすることになったら避難させてください」
「俺は本気だから」
 そう言って、すたすたと地上出口の階段に向かってしまう。
「待って、透輝」
 早足で追いかけながら、恋の主導権は完全に彼に移ってしまったなと思う。それも悪くない。
「昊」
 石階段を上っていけば陽の光が差し込んできた。冬の太陽に照らされて、美しい男が更に美しい姿で昊に手を伸ばす。光を反射するアスファルトの上で、周りに見つからないように三歩だけ手を繋いで歩いて、ふと笑う。
「俺も昊の職場に行きたくなってきた」
「転職しますか? 兄さんは仕事に厳しいですけど」
「そっか。昊だけじゃないからな」
 互いの会社に分かれていく横断歩道の前で、少しでも赤が長く続けばいいと、周りの会社員に恨まれそうなことを願う朝。
「じゃあ、また帰りに」
「うん。今日も頑張って」
 気紛れで途方もなく美しい男を作り出してしまった神は、その他大勢にも慈悲深かった。乗り越えられない試練を与えはしない。昊に降ってきたものも、決して乗り越えられない試練ではない。恋が助力になれば更に人は強くなる。
 一度振り向いて手を振る恋人ににそんなことを思いながら、昊も手を振り返すのだった。

✽end✽

→あとがき
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