恋は乗り越えられない試練を与えない。
一泊して家に帰ったあとは忙しく動き回った。休みの残りで家中の掃除をして、病気になってから買った本や開運グッズを処分する。何かに縋りたい一心で買った怪しげなお札やぬいぐるみが消えると、その分心も軽くなった。
ちょうど病院に行く週だったので、主治医にこれまでの薬に追加で、心がざわつき始めたときに飲む薬が欲しいと頼んでみた。本で知識はあったのに、薬を増やせばそれだけダメ人間になりそうで避けていたのだ。だが今は自身の状態をコントロールするためならなんでも利用してやろうと思う。今時の薬は、馬鹿みたいに肝臓に負担をかけたりしない。緊急時の薬を一種類増やすくらいなんでもない。よくなればまた減らせばいいのだ。
「原田さんから希望を聞くのは初めてかもしれないですね」
そう言って飲み合わせのいい薬を出してくれた医師には感謝だ。自分でも予想できないタイミングで感情を爆発させてしまう。そんな一昔前なら信じてもらえなかったような後遺症にも根気強く付き合ってくれた。心の調子がよくなると、それまでただ目に映してきたものに感謝できるようになる。
安井の三者三振はなかなか観られなかったが、焦ることなく日々を過ごした。会社のホームページに男児用ヘルメットをデザインしてほしいというコメントが十件入って、大地の指示でフォーマルシーンでも使えるヘルメットをデザインすることになった。昊は総務部員だが、各部署からメンバーを集めた合同企画にされてしまったから仕方がない。
「こっちの仕事は任せて思う存分やってきて」
そう言ってくれた遠藤には感謝だ。だが前の会社の経験もちゃんと糧になっているから、彼女に仕事を任せきりにするようなことはしない。周りと話しながら、自分なりにバランスを取ってやっていく。大地の会社で、一人残業する社員など出しはしない。そんなことも考えられるようになった。
「男の子って言ったら車ですよね。車のデザインなら喜びそう」
「でもそれじゃフォーマルシーンに使えない」
「確かに。社長、結構な難題を押しつけてきましたね」
「お世話になっている社長ですからね。社長にいい思いをさせてあげましょう」
昊が大地の弟だと知らないメンバーの間で、そんなやりとりが交わされているのが嬉しい。
「首で固定するベルトだけデザインしてみましたけど、どうですか?」
「わ、素敵」
昨夜描いたデザインを見せればメンバーの女性社員が声を上げる。
「どのくらい細くできるか実験が必要ですね。落ちちゃったらヘルメットの意味がないし」
「そこはいつもの製作会社さんにお願いできるって」
「流石。仕事が早い」
そんなことを言い合う企画会議。前の職場で大量の書類と格闘していた頃、まさか自分が仕事を楽しむ日が来るとは思わなかった。もちろん楽しむだけでは終わらせない。大地に一番世話になっているのは昊だ。ヒット商品を生み出して、経営者としての名を上げてもらう。それが昊の夢だ。
通常業務と企画会議で忙しくするうちに日々は過ぎて、いつのまにか九月も末になっていた。九月の最終土曜日。大地は外出すると言うので、リビングのテレビの前を陣取ってプレイボールから野球観戦に勤しむ。
昊との約束のあと、安井は出番も多く負けなしだった。だが打たせて取るパターンが多くて三者三振は拝めない。プロだから昊との約束に惑わされるようなことはない。だから運だ。三者三振の結果にならなければ、まだ内村に会わない方がいいということ。ならばそのときが来るまで待てばいい。
二回にKオリオンズが六点を取って、今日はもう安井の出番のないかなと思った。だが何故かそのあとポロポロと点を返されていく。Kオリオンズの守備ミスが続いて不思議に思ってテレビの音量を上げた。いつもはそれだけで胸がざわざわするが、今日はそれがない。大きな画面でテレビを観ても不快感がない。回復しないと言われたが、昊の身体なりに回復しているのかもしれない。それとも、今日は野球が観たすぎて後遺症が鳴りを潜めているのだろうか。それならその幸運をありがたく享受しよう。
『球場に厄介な風が吹いて、守備の選手たちが苦しめられています』
実況の言葉に得心した。ごく小さな音で観ていても試合の動きは分かるが、やはり解説まで聞けば得られるものが違う。こうして少しずつできることが増えていけばいい。キレて怒る前に気の利いた言葉が出てくるような、そんな人間になれたらいい。
二点差まで追い上げられて迎えた八回裏、コールされたのは安井ではなく川田という投手だった。残念。それなら安井の出番はないと思っていたのに、川田が一点返されて、猶もノーアウト一三塁というピンチを作る。そこでピッチャー交代を告げるコーチがマウンドに向かう。
『ピッチャー交代。安井』
ちょうど病院に行く週だったので、主治医にこれまでの薬に追加で、心がざわつき始めたときに飲む薬が欲しいと頼んでみた。本で知識はあったのに、薬を増やせばそれだけダメ人間になりそうで避けていたのだ。だが今は自身の状態をコントロールするためならなんでも利用してやろうと思う。今時の薬は、馬鹿みたいに肝臓に負担をかけたりしない。緊急時の薬を一種類増やすくらいなんでもない。よくなればまた減らせばいいのだ。
「原田さんから希望を聞くのは初めてかもしれないですね」
そう言って飲み合わせのいい薬を出してくれた医師には感謝だ。自分でも予想できないタイミングで感情を爆発させてしまう。そんな一昔前なら信じてもらえなかったような後遺症にも根気強く付き合ってくれた。心の調子がよくなると、それまでただ目に映してきたものに感謝できるようになる。
安井の三者三振はなかなか観られなかったが、焦ることなく日々を過ごした。会社のホームページに男児用ヘルメットをデザインしてほしいというコメントが十件入って、大地の指示でフォーマルシーンでも使えるヘルメットをデザインすることになった。昊は総務部員だが、各部署からメンバーを集めた合同企画にされてしまったから仕方がない。
「こっちの仕事は任せて思う存分やってきて」
そう言ってくれた遠藤には感謝だ。だが前の会社の経験もちゃんと糧になっているから、彼女に仕事を任せきりにするようなことはしない。周りと話しながら、自分なりにバランスを取ってやっていく。大地の会社で、一人残業する社員など出しはしない。そんなことも考えられるようになった。
「男の子って言ったら車ですよね。車のデザインなら喜びそう」
「でもそれじゃフォーマルシーンに使えない」
「確かに。社長、結構な難題を押しつけてきましたね」
「お世話になっている社長ですからね。社長にいい思いをさせてあげましょう」
昊が大地の弟だと知らないメンバーの間で、そんなやりとりが交わされているのが嬉しい。
「首で固定するベルトだけデザインしてみましたけど、どうですか?」
「わ、素敵」
昨夜描いたデザインを見せればメンバーの女性社員が声を上げる。
「どのくらい細くできるか実験が必要ですね。落ちちゃったらヘルメットの意味がないし」
「そこはいつもの製作会社さんにお願いできるって」
「流石。仕事が早い」
そんなことを言い合う企画会議。前の職場で大量の書類と格闘していた頃、まさか自分が仕事を楽しむ日が来るとは思わなかった。もちろん楽しむだけでは終わらせない。大地に一番世話になっているのは昊だ。ヒット商品を生み出して、経営者としての名を上げてもらう。それが昊の夢だ。
通常業務と企画会議で忙しくするうちに日々は過ぎて、いつのまにか九月も末になっていた。九月の最終土曜日。大地は外出すると言うので、リビングのテレビの前を陣取ってプレイボールから野球観戦に勤しむ。
昊との約束のあと、安井は出番も多く負けなしだった。だが打たせて取るパターンが多くて三者三振は拝めない。プロだから昊との約束に惑わされるようなことはない。だから運だ。三者三振の結果にならなければ、まだ内村に会わない方がいいということ。ならばそのときが来るまで待てばいい。
二回にKオリオンズが六点を取って、今日はもう安井の出番のないかなと思った。だが何故かそのあとポロポロと点を返されていく。Kオリオンズの守備ミスが続いて不思議に思ってテレビの音量を上げた。いつもはそれだけで胸がざわざわするが、今日はそれがない。大きな画面でテレビを観ても不快感がない。回復しないと言われたが、昊の身体なりに回復しているのかもしれない。それとも、今日は野球が観たすぎて後遺症が鳴りを潜めているのだろうか。それならその幸運をありがたく享受しよう。
『球場に厄介な風が吹いて、守備の選手たちが苦しめられています』
実況の言葉に得心した。ごく小さな音で観ていても試合の動きは分かるが、やはり解説まで聞けば得られるものが違う。こうして少しずつできることが増えていけばいい。キレて怒る前に気の利いた言葉が出てくるような、そんな人間になれたらいい。
二点差まで追い上げられて迎えた八回裏、コールされたのは安井ではなく川田という投手だった。残念。それなら安井の出番はないと思っていたのに、川田が一点返されて、猶もノーアウト一三塁というピンチを作る。そこでピッチャー交代を告げるコーチがマウンドに向かう。
『ピッチャー交代。安井』