恋は乗り越えられない試練を与えない。
彼はそれも知っていた。知っているなら隠す必要もないから白状する。
「脳腫瘍でした。手術は成功したんですけど後遺症が残って」
「聞いてもいいのかな?」
「はい。感情が制御できなく……、いえ、簡単に言うと公共の場でも構わずキレてしまうんです」
「それは大変だね」
大袈裟に哀れむこともなく、彼は昊の言葉を受け止めてくれた。自分も辛い思いをしたからだろうか。話しやすい彼に甘えてしまう。
「一瞬記憶が飛んだようになって、その間に酷いことをしてしまいます。前の会社で課長を引き倒して蹴り上げてしまって」
「それは凄いね」
どこまでも感じのいい言い方だった。投手には強いメンタルが必要だと聞くから、訓練しているのかもしれない。いや、元から人格者なのだろうか。
「でもそれは酷い扱いを受けてきたからなんじゃないの?」
「毎日一人で残業させられました。でも、やっぱり蹴っちゃいけない」
「だね」
悪戯っぽく笑われて、昊もふっと笑ってしまう。
「それで前の仕事を辞めて兄の会社に入りました。今思えば懲戒解雇じゃなくてよかった。兄さんに迷惑がかかったでしょうから」
「酷い上司なら、自分の悪事を暴かれたくないから解雇なんて言えなかったと思うよ。会社勤めをしたことのない俺が言っても説得力がないかもしれないけど」
「いえ。救われます」
そこで仲居がデザートの羊羹を運んでくる。
「お連れさまお二人はいらないと仰いましたので、お二つだけご用意しました」
「ありがとうございます」
店員にもきちんと礼をいう彼をまた少し好きになる。ブルータスにいる頃から、画面を通して彼の人柄に惹かれていた。見た目も好みだが、彼の性格に惚れこんでいる。もちろんそれは内村に対するのとは別の気持ちだ。
「それで?」
甘いものが好きなのは内村と同じ。羊羹を二口で食べてしまった彼に聞かれて、青色の綺麗な羊羹を眺めていた昊は首を傾げる。
「それでとは?」
「後遺症について悩んでいるようだけど、聞いたところ今は仕事にも生活にも困っていない。頼りになるお兄さんもいる。本当に悩んでいるのはどんなこと?」
「えっと、そこまで聞いてもらう訳には」
「ううん。しっかり聞いてやってくれって工藤さんに頼まれたんだ。工藤さんは僕のリハビリでお世話になっただけでなく、妻のことでもお世話になった人だから」
工藤のせいにして話しやすくしてくれるのがありがたかった。元妻ではなく妻と言う様子に彼の秘めた想いを知る。こちらも隠しごとをするつもりはないと言われたようで、気持ちが解けていく。
「すみません。明日も試合なのに」
「出番があるかどうか分からないから平気」
それが逆に酷なのだろうと思うが、彼の顔を見れば余裕そのものだった。誤解していた。スリーランを打たれて一週間は落ち込むだろうと思っていたが、落ち込んでいたのは昊だけで、本人は一度や二度の失敗でめげたりしない。
「二人が戻ってくるまであと三分。さ、なんでも話して。俺、こう見えてチームのメンバーの相談役なんだ」
本当にそんな気がした。こんなチャンスは二度とない。だから彼の意見を聞いてみたい。
「恋人がいました」
「うん。そこだろうと思ったよ」
彼の言葉に安堵する。
「後遺症のことを話しても、彼は傍にいたいと言ってくれました。でも、返事をしようと思った日、彼に会う前にコンビニで派手にキレてしまって。自信をなくして家に帰って、それきりです」
「そう」
彼がほうじ茶の湯飲みを持ち上げる。けれど何故か飲まずにふふと笑い出す。
「何か?」
なかなか笑いが収まらないから、大ファンの投手というのも忘れて訝ってしまう。ごめんごめんと言いながら、彼は猶も笑い続ける。
「しょぼんとして家に帰ってきたのに、まだその人のことを想っている。それが答えじゃない? 僕が答えるまでもない」
あっさりした答えだった。
「もう彼に会えないと思って帰ってきた。でもまた会いたいと思っている。それが君の気持ちでしょう?」
「……そう、ですけど」
会いたいが、会っていいのかと悩んでいるのだ。傍にいればきっと彼の人生の足を引っ張ってしまう。
「羨ましいな」
彼がぽつりと言って、一瞬だけ鋭く昊を見た。
「僕が妻に傍にいたいと言われたら、迷わず飛んでいくよ。それこそ、もう一度試合をお休みしてでもね」
彼はすぐに柔らかく微笑んだけれど、その言葉に頭を引っ叩かれた気分だった。彼は今でも元妻の女性を愛している。世間の批判から護り切れずに別れたことを死ぬほど後悔している。昊は馬鹿なことをしてしまったが、結果的に誰にも責められることはなかった。だが彼は理不尽な理由で責められ続けた。それでも、妻のためならもう一度試合を休んでもいいと言う。自分もその強さが欲しい。
「強いですね、安井さんは。野球だけじゃない」
「強くならないと理不尽には勝てないから」
「もう安井さんの周りに理不尽なことが起こらないといいって思います」
「脳腫瘍でした。手術は成功したんですけど後遺症が残って」
「聞いてもいいのかな?」
「はい。感情が制御できなく……、いえ、簡単に言うと公共の場でも構わずキレてしまうんです」
「それは大変だね」
大袈裟に哀れむこともなく、彼は昊の言葉を受け止めてくれた。自分も辛い思いをしたからだろうか。話しやすい彼に甘えてしまう。
「一瞬記憶が飛んだようになって、その間に酷いことをしてしまいます。前の会社で課長を引き倒して蹴り上げてしまって」
「それは凄いね」
どこまでも感じのいい言い方だった。投手には強いメンタルが必要だと聞くから、訓練しているのかもしれない。いや、元から人格者なのだろうか。
「でもそれは酷い扱いを受けてきたからなんじゃないの?」
「毎日一人で残業させられました。でも、やっぱり蹴っちゃいけない」
「だね」
悪戯っぽく笑われて、昊もふっと笑ってしまう。
「それで前の仕事を辞めて兄の会社に入りました。今思えば懲戒解雇じゃなくてよかった。兄さんに迷惑がかかったでしょうから」
「酷い上司なら、自分の悪事を暴かれたくないから解雇なんて言えなかったと思うよ。会社勤めをしたことのない俺が言っても説得力がないかもしれないけど」
「いえ。救われます」
そこで仲居がデザートの羊羹を運んでくる。
「お連れさまお二人はいらないと仰いましたので、お二つだけご用意しました」
「ありがとうございます」
店員にもきちんと礼をいう彼をまた少し好きになる。ブルータスにいる頃から、画面を通して彼の人柄に惹かれていた。見た目も好みだが、彼の性格に惚れこんでいる。もちろんそれは内村に対するのとは別の気持ちだ。
「それで?」
甘いものが好きなのは内村と同じ。羊羹を二口で食べてしまった彼に聞かれて、青色の綺麗な羊羹を眺めていた昊は首を傾げる。
「それでとは?」
「後遺症について悩んでいるようだけど、聞いたところ今は仕事にも生活にも困っていない。頼りになるお兄さんもいる。本当に悩んでいるのはどんなこと?」
「えっと、そこまで聞いてもらう訳には」
「ううん。しっかり聞いてやってくれって工藤さんに頼まれたんだ。工藤さんは僕のリハビリでお世話になっただけでなく、妻のことでもお世話になった人だから」
工藤のせいにして話しやすくしてくれるのがありがたかった。元妻ではなく妻と言う様子に彼の秘めた想いを知る。こちらも隠しごとをするつもりはないと言われたようで、気持ちが解けていく。
「すみません。明日も試合なのに」
「出番があるかどうか分からないから平気」
それが逆に酷なのだろうと思うが、彼の顔を見れば余裕そのものだった。誤解していた。スリーランを打たれて一週間は落ち込むだろうと思っていたが、落ち込んでいたのは昊だけで、本人は一度や二度の失敗でめげたりしない。
「二人が戻ってくるまであと三分。さ、なんでも話して。俺、こう見えてチームのメンバーの相談役なんだ」
本当にそんな気がした。こんなチャンスは二度とない。だから彼の意見を聞いてみたい。
「恋人がいました」
「うん。そこだろうと思ったよ」
彼の言葉に安堵する。
「後遺症のことを話しても、彼は傍にいたいと言ってくれました。でも、返事をしようと思った日、彼に会う前にコンビニで派手にキレてしまって。自信をなくして家に帰って、それきりです」
「そう」
彼がほうじ茶の湯飲みを持ち上げる。けれど何故か飲まずにふふと笑い出す。
「何か?」
なかなか笑いが収まらないから、大ファンの投手というのも忘れて訝ってしまう。ごめんごめんと言いながら、彼は猶も笑い続ける。
「しょぼんとして家に帰ってきたのに、まだその人のことを想っている。それが答えじゃない? 僕が答えるまでもない」
あっさりした答えだった。
「もう彼に会えないと思って帰ってきた。でもまた会いたいと思っている。それが君の気持ちでしょう?」
「……そう、ですけど」
会いたいが、会っていいのかと悩んでいるのだ。傍にいればきっと彼の人生の足を引っ張ってしまう。
「羨ましいな」
彼がぽつりと言って、一瞬だけ鋭く昊を見た。
「僕が妻に傍にいたいと言われたら、迷わず飛んでいくよ。それこそ、もう一度試合をお休みしてでもね」
彼はすぐに柔らかく微笑んだけれど、その言葉に頭を引っ叩かれた気分だった。彼は今でも元妻の女性を愛している。世間の批判から護り切れずに別れたことを死ぬほど後悔している。昊は馬鹿なことをしてしまったが、結果的に誰にも責められることはなかった。だが彼は理不尽な理由で責められ続けた。それでも、妻のためならもう一度試合を休んでもいいと言う。自分もその強さが欲しい。
「強いですね、安井さんは。野球だけじゃない」
「強くならないと理不尽には勝てないから」
「もう安井さんの周りに理不尽なことが起こらないといいって思います」