恋は乗り越えられない試練を与えない。

 思い当たる節がない。だが特に拒否する理由もないのでついていく。タクシーで向かったのは、普段昊には縁のないような高級料亭だった。一室に一組ずつ通される造りになっている。
「お、よかった。俺らが一番乗りだな」
「俺ら?」
 土地勘がないから想像することもできずに、大地の隣で同席する人間を待った。
「ああ、待たせたね」
 五分遅れてやってきたのは、一目で素材がいいと分かるスーツを纏った初老の男性。
「ご無沙汰しています、工藤さん。俺の弟の昊です」
「……原田昊です」
 よく分からないが、大地に紹介されて頭を下げる。
「昊、こっちは工藤メディカルの社長の工藤さん」
「工藤メディカル?」
 医療・介護用品の大手だ。大地がそんな大手の社長と付き合いがあるなんて知らなかった。だがそれでも彼と昊を合わせる理由が分からない。
「女児用のヘルメット見せてもらいましたよ。とてもいいデザインで感心しました」
 昊相手にも丁寧に話す彼に言われて恐縮する。
「いえ。俺は雑談の中でアイディアを出しただけで、実際デザインしたのは後輩で」
「アイディアがでることが素晴らしいと思いますよ。自信を持ってください。その自信が次の商品に繋がりますから」
「……はい」
 何故か彼の言葉はスッと胸に入ってきた。牧田も褒めてくれた。もっと自信を持ってもよかったのかもしれない。
「お連れさまがいらっしゃいました」
 そこで仲居の声と共に障子が開かれる。
「遅くなりました。本日はお誘いいただきありがとうございます」
 丁寧に言いながら入ってきた男性に目を瞠る。
「安井さん……」
 何故かそこに彼がいた。テレビで観るよりずっと大柄な彼が、穏やかな表情で工藤の隣に座る。
「どうして……。本物?」
 突然の推しの登場に思考がパニックを起こして、大地に聞くことしかできなかった。
「当たり前だ。Cブルータスの本拠地が福岡だろ? 彼が以前怪我をしたとき、工藤さんが経営するリハビリ施設を使っていたんだ。今はオフの日に食事をする仲だって聞いていたから、一度同席させてもらえるようにお願いしたんだ」
「私も原田くんの弟に会ってみたかったし、原田くんに頼みごとをされるのが快感でね」
「借りを作ってしまいました。でも、まぁ、昊が安井投手の大ファンだったから」
 工藤と大地は昊が思うよりずっと親しい間柄らしい。それより安井だ。手術で苦しかったとき心の支えだった彼が目の前にいる。ああ、何故この一週間試合を観なかったのかと後悔する。昊がおどおどする間に仲居がお膳の準備を進めていく。
「ほら、昊、ずっと好きだったんだろ。何か話せよ」
 仲居が酒の支度を終えたところで大地が言った。安井は明日も試合があるらしく、酒ではなく香りのいいお茶を選んでいる。
「えっと」
 いざ憧れの存在を目すると何も言えないものだ。
「あの、安井さんは八回の神で、俺、何度も救われていて」
 いい大人がたどたどしすぎると、自分に突っ込みたくなる言い方だった。それでも安井は柔らかく微笑んで聞いてくれる。
「嬉しいな。好きな野球を頑張るだけで救われる人がいるなんて」
 テレビを通して観るままの人柄だった。
「明日試合があるのにこんな風に出てきてよかったんですか?」
 一言で感激してしまった昊の代わりに大地が聞いてくれる。
「うちは決められた練習時間以外は割と自由なんです。飲みに行くメンバーもいますし。工藤さんの会社は妻のリハビリでもお世話になったので、福岡に来たついでに会いたいと思っていて」
「お前のファンがいるから絶対に来いと無理を言ってしまった」
「いえ。工藤さんに会うとおいしいものが食べられるので、喜んで来たんですよ」
 工藤と安井もいい関係らしい。もしかしたら、彼が辛いときに助けになったのが工藤なのかもしれない。
「今日は工藤さんがご馳走してくれるって言うから、遠慮なく食べよう」
 大地が冗談めかして言って、和やかな食事会になった。部外者の昊までご馳走になっていいのかと思うが、工藤ほどの人物にそれを言うのも野暮だろう。そう思って綺麗に盛り付けられた食事を頂くことにする。
「ちょっと大人の話をしないといけないから、俺ら席を外すな」
 大方食事を終えたところで、大地と工藤が席を立ってしまった。
「え? 行っちゃうの?」
「悪いな。企業秘密の話だから部外者には聞かせられないんだ。十分で戻るから」
 嘘か本当か分からな言い方をして、工藤と部屋を出てしまう。安井と二人きりで十分もどうすればいいのだ。困惑する昊に対して安井の方は落ち着いていた。
「裏話をすると、工藤さんを通してお兄さんから頼まれたんだ。弟が死にそうに落ち込んでいるから、少し話をしてやってくれってね」
 そういうことかと思った。
「すみません。お忙しいのに俺なんかのために」
「ううん。僕も会ってみたいって思ったし、いい息抜きになるから」
 柔らかな言い方にまた救われる。
「十分しかくれないみたいだからストレートに聞くね。大病をしたんだって?」
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