恋は乗り越えられない試練を与えない。

 内村との約束をすっぽかした翌週は、落ちる気分を振り払うように仕事をした。その後八月末から九月第一週を丸々休むことにする。
『土日も含めて九日間のお休み。兄さんに勧められて従うことにした。原田メディカルサプライには普通の有休の他に、給料は発生しないが五日間休んでいい季節休暇というものがあるらしい。世間一般の会社にはそんなありがたい休みがあるのかと驚いている。とにかくあと八日間は休み。部屋で静かにしていよう』
 休暇中の唯一のタスクの日記を書いて、あとはベッドに横になる。せっかくの休暇だというのに、何もしないまま一日を消費していた。最低限の家事をして、大地の食事を作って冷蔵庫に入れて、自分は何も食べずに転がっている。
 大地の会社に再就職して少し持ち直した気持ちが、また一気に落ちたような感覚だった。落ち込んでいない。手術後よりずっと自分を取り囲むものはよくなっている。そう思おうとしても、言葉にできない辛さが昊を深い沼に引きずり込んで、這い上がろうとする気力を奪っていく。
 あの日安井がスリーランを打たれてから、Kオリオンズは調子を崩して連敗していた。Cブルータスは勝ち続けているからゲーム差は開く一方。ネットニュースのコメント欄には安井を叩くコメントが増えて、色々と辛すぎて野球も観なくなった。ネットのニュース欄には学習機能があるから、二、三日スポーツニュースを拒否していたら、そのうち野球の結果も現れなくなる。
 ずっと連絡をくれていた内村も、一週間返さずにいれば連絡がやんだ。約束をすっぽかした挙句連絡無視なんて、今度こそ本気で嫌われてしまっただろう。それでいい。これが望んでいた結末だ。あの現実感がないほど綺麗な男に、いつか相応しい相手が現れるといい。もうコミュ障でもない。モテない訳がない。
「昊、一緒に夕飯にしないか? 食べていないんだろ?」
 その日、久しぶりに早く帰ってきた大地に言われた。
「……ごめん。パン食べちゃってお腹空いてなくて」
 忙しくしている自分の家で、休暇中の弟がごろごろしていたら目障りだろう。そう思うが、それでもベッドから起き上がれないまま応える。
「お前、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。来週からちゃんと仕事には戻れる」
 ヘッドボードに身体を起こして言ったのに、大地は眉を寄せるだけだ。
「そこはいいけど。じゃあ、ちょっと買い物にでも行かないか。ヘルメットが順調に売れているから、ご褒美になんでも買ってやる」
「ありがと。でもあれは牧田くんのデザインだから」
「お前のアイディアがあったからだろ? 何か欲しいものはないのか?」
「気持ちだけで充分」
 なんとか微笑みらしきものを浮かべてベッドに戻る。後遺症のない身体が欲しい。そんなことを言えば大地を哀しませてしまう。
「買い物じゃダメか」
「買い物じゃって、兄さんにはもう充分与えてもらっているよ。ここに住ませてもらっていることも、兄さんの会社で雇ってもらったことも感謝している」
「ふーん」
 納得して去っていくかと思ったのに、そこで何故か彼がにやりと笑う。
「見縊られたもんだな」
「別にそんなつもりは」
「まぁ、今日は寝ておけ。そのうちあっと驚かせてやる」
 不敵顔で言って彼は部屋を出ていった。何をするつもりなのだろう? 気にはなるが、弱った身体はそれよりも睡眠を欲してしまう。
『兄さんが何か企んでいるようだ』
 目が覚めたらそんな日記を書こう。思いながら眠りに落ちていく。
 まさかの展開になったのは木曜だった。
「俺も休みを取ったから、午後から福岡に行く」
 朝食の後片付けをしていた昊に向けられたのは、全く以て意味不明の言葉。
「必要なものがあれば買ってやるけど、とりあえず一泊できる支度をしておいてくれ」
「ちょと待って。福岡って、どうしてそんな遠くに」
「いいだろ? どうせベッドでいじけているだけなんだから」
「う……」
 そう言われると弱い。
「後悔はさせないからついてこい。寧ろ行かないと後悔する」
 そこまで言われれば、行かないと言い張るのもどうかと思う。国内ならそう身構えることもないかと、言われた通り支度をする。大地と一緒にタクシーで空港に向かって、夕方には福岡に着いた。先にホテルに案内されて、荷物を下ろしたところで、大地が策士の顔になる。
「これから、お世話になっている医療機器メーカーの社長に挨拶に行く」
「あ、仕事……」
 彼の言葉に拍子抜けした。
「仕事なら俺がついていっていいの? 俺、別に営業でも企画でもないし」
「ああ。お前に会わせたい人がいるんだ」
「会わせたい人?」
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