恋は乗り越えられない試練を与えない。
短い言葉で別れて、珍しい体験をしたなと思った。彼の方は昊と話したことなどすぐ忘れるだろうが、それでいい。ああいう馬鹿みたいに綺麗な男は、年に一、二度話せるくらいがちょうどいいのだ。席に戻って、高揚感のままサクサク仕事を片付ける。
一度話したくらいで馴れ馴れしくするつもりはないし、それが彼の主義なら挨拶を無視されてもいい。そう何を期待するでもなく過ごそうと思った。だが意外なことに、その日以来、彼は昊の言葉に応えてくれるようになった。おはようと言えば、ああとかうんと返ってくる。定時を過ぎて仕事をしている昊に、時々お疲れと言ってくれる。他の社員には機械みたいなのに、昊にだけ人間味を見せてくれているようで嬉しい。だが自惚れるのはやめておこう。距離を詰めすぎれば去っていく。そもそも余計なことを考えるほど暇ではないのだ。仕事は相変わらず馬鹿みたいに忙しい。その馬鹿みたいな人員配置が更にズタボロになるのに時間は掛からなかった。
派遣社員が一人辞めた。急なことだが、派遣の採用は社員ほど時間が掛からない。すぐに手配してくれと課長に頼めば、無慈悲な言葉が返ってきた。
「人件費削減のために、派遣は一人体制にしようと思う」
普段仕事もしない上司にドヤ顔で言われて殺意が湧いた。じゃあ、お前が毎日残業しろよと言ってやりたい。だが社会人がそれをしてはいけないことくらい知っている。
「それなら課長にも通常業務に入ってもらわないと困ります」
「うん、大丈夫。分かってる」
そう言った彼は、子どもの熱を言い訳にその日から堂々と帰っていった。この会社は他社に比べてホワイトな会社だ。働いた分だけ残業代は貰えるし、コール部門以外は土日祝日しっかり休める。なのに昊だけ労働環境が劣悪なのは何故だろう。定時が五時なのに、何故自分は八時を過ぎて働いているのだろう。いっそ全部投げ出して転職しようか。そう思ったことは何度もあるが、平日は遅くまで残業、土日は溜まった家事と睡眠不足解消という生活には、転職活動の余裕すらなかった。結局、今日投げ出せば明日は更に酷い地獄だというマインドで、一人書類に向かう。
「……もう嫌だ」
だが流石に弱音は零れる。夜遅くまで社員のいるコール部門は上の階だから、シンとした執務室でデスクに突っ伏してしまう。もう七時を過ぎたが、あと二時間やらないと今日の分が終わらない。
「頭が痛い」
連日の残業に疲れて動けなくなっていたときだった。
「具合悪いの?」
突然降ってきた声に、疲れすぎて幻聴を聞いたのかと思った。
「……内村さん」
顔を上げてみればなんてことはない、そこに無表情の彼が立っている。
「具合悪いなら四階から誰か呼んでくるけど。俺、看病とかできないから」
彼らしい言葉にふっと肩の力が抜ける。四階はコール部門。彼が誰になんといって助けを求めるのか見てみたい。その想像で少しだけHPが回復する。
「平気。これを見て絶望していただけ」
残りの書類の束を指して言えば、彼の眉がぴくりと動いた。僅かな動きだが、哀れだと思ってくれたのが分かる。変人という噂のせいか、彼の人間らしい部分を見るとやけに嬉しい。
「内村さんは残業……ではないですよね。忘れ物ですか?」
「いや、営業先の担当の長話に付き合ってきた。定時までに戻る予定だったから私物を置いたままで」
それは結構な時間オーバー。営業は営業で大変だ。
「内村さんって、営業先では普通に話すんですか?」
失礼かなと思ったが、どうしても気になって聞いた。コミュ障を公言する彼が、営業先でどんな会話をしているのか。噂によると営業成績は悪くないらしいのだ。
「頭の中でスクリプトを作って、それ通りに話して帰ってくる」
淡々と彼は言った。そういえばスクリプト人間と言われていた。
「あなたの営業は暑苦しくないって言ってくれる人が結構いる」
「なるほど」
このご時世、熱血のテンションで営業に来られたら疲れてしまう。提案はするがダメならさっさと引く。そのくらいでちょうどよくて、内村はそのタイプなのだろう。
「あとはこの見た目でなんとかなる」
「……でしょうね」
見た目のよさは自覚していて、必要なら利用するということだ。まぁ、これだけ綺麗なら自覚しない方がおかしい。それより、彼と会話が続いていることに驚いている。
「手伝うことある?」
彼は更に驚くことを言い出した。
「手伝う? 内村さんが?」
一度話したくらいで馴れ馴れしくするつもりはないし、それが彼の主義なら挨拶を無視されてもいい。そう何を期待するでもなく過ごそうと思った。だが意外なことに、その日以来、彼は昊の言葉に応えてくれるようになった。おはようと言えば、ああとかうんと返ってくる。定時を過ぎて仕事をしている昊に、時々お疲れと言ってくれる。他の社員には機械みたいなのに、昊にだけ人間味を見せてくれているようで嬉しい。だが自惚れるのはやめておこう。距離を詰めすぎれば去っていく。そもそも余計なことを考えるほど暇ではないのだ。仕事は相変わらず馬鹿みたいに忙しい。その馬鹿みたいな人員配置が更にズタボロになるのに時間は掛からなかった。
派遣社員が一人辞めた。急なことだが、派遣の採用は社員ほど時間が掛からない。すぐに手配してくれと課長に頼めば、無慈悲な言葉が返ってきた。
「人件費削減のために、派遣は一人体制にしようと思う」
普段仕事もしない上司にドヤ顔で言われて殺意が湧いた。じゃあ、お前が毎日残業しろよと言ってやりたい。だが社会人がそれをしてはいけないことくらい知っている。
「それなら課長にも通常業務に入ってもらわないと困ります」
「うん、大丈夫。分かってる」
そう言った彼は、子どもの熱を言い訳にその日から堂々と帰っていった。この会社は他社に比べてホワイトな会社だ。働いた分だけ残業代は貰えるし、コール部門以外は土日祝日しっかり休める。なのに昊だけ労働環境が劣悪なのは何故だろう。定時が五時なのに、何故自分は八時を過ぎて働いているのだろう。いっそ全部投げ出して転職しようか。そう思ったことは何度もあるが、平日は遅くまで残業、土日は溜まった家事と睡眠不足解消という生活には、転職活動の余裕すらなかった。結局、今日投げ出せば明日は更に酷い地獄だというマインドで、一人書類に向かう。
「……もう嫌だ」
だが流石に弱音は零れる。夜遅くまで社員のいるコール部門は上の階だから、シンとした執務室でデスクに突っ伏してしまう。もう七時を過ぎたが、あと二時間やらないと今日の分が終わらない。
「頭が痛い」
連日の残業に疲れて動けなくなっていたときだった。
「具合悪いの?」
突然降ってきた声に、疲れすぎて幻聴を聞いたのかと思った。
「……内村さん」
顔を上げてみればなんてことはない、そこに無表情の彼が立っている。
「具合悪いなら四階から誰か呼んでくるけど。俺、看病とかできないから」
彼らしい言葉にふっと肩の力が抜ける。四階はコール部門。彼が誰になんといって助けを求めるのか見てみたい。その想像で少しだけHPが回復する。
「平気。これを見て絶望していただけ」
残りの書類の束を指して言えば、彼の眉がぴくりと動いた。僅かな動きだが、哀れだと思ってくれたのが分かる。変人という噂のせいか、彼の人間らしい部分を見るとやけに嬉しい。
「内村さんは残業……ではないですよね。忘れ物ですか?」
「いや、営業先の担当の長話に付き合ってきた。定時までに戻る予定だったから私物を置いたままで」
それは結構な時間オーバー。営業は営業で大変だ。
「内村さんって、営業先では普通に話すんですか?」
失礼かなと思ったが、どうしても気になって聞いた。コミュ障を公言する彼が、営業先でどんな会話をしているのか。噂によると営業成績は悪くないらしいのだ。
「頭の中でスクリプトを作って、それ通りに話して帰ってくる」
淡々と彼は言った。そういえばスクリプト人間と言われていた。
「あなたの営業は暑苦しくないって言ってくれる人が結構いる」
「なるほど」
このご時世、熱血のテンションで営業に来られたら疲れてしまう。提案はするがダメならさっさと引く。そのくらいでちょうどよくて、内村はそのタイプなのだろう。
「あとはこの見た目でなんとかなる」
「……でしょうね」
見た目のよさは自覚していて、必要なら利用するということだ。まぁ、これだけ綺麗なら自覚しない方がおかしい。それより、彼と会話が続いていることに驚いている。
「手伝うことある?」
彼は更に驚くことを言い出した。
「手伝う? 内村さんが?」