恋は乗り越えられない試練を与えない。

「お待ちのお客様どうぞ」
 二つ後ろから声を上げようとしたところで、気づいた店員が有人レジを開けてくれた。ほっとして前にいた客の次に会計を済ませて、店を出てしまおうと思う。けれど店を出る前、またその母親の声が聞こえた。
「あと三つかな。ピッしてね」
 あーとかだーとかしか言わない子ども相手に、母親の買い物ごっこは続いている。そこで何かがぷつんと切れた。
 女性の悲鳴と子どもの泣き声に我に返ったときには、買ったばかりのペットボトルが床に転がっている。べコリと凹んでいるから、床に投げつけられたのだろう。犯人は自分しかいない。
「ここは家じゃない。邪魔なんだよ、お前。お前みたいな人間がいるから、まともな子連れが酷い目に遭うのが分からないのか」
 多分、まだ言っていないと思ったから言ってやった。悪者から子を護るように抱きしめる彼女の様子に怒りが募る。
「謝れ。悪いのはお前だ。謝れ!」
「お客様!」
 そこにレジを抜けてきた店員が割って入る。
「お怪我はありませんか、お客様」
 店員が昊ではなく女性の方を庇うのが意味不明だった。女性はまだオロオロしていて、まるで被害者のように店員に身体を寄せる。
「消えろ! お前みたいな女目障りだ!」
 見るもの全てが癇に障って、床に転がっていたペットボトルを蹴り上げて店を出た。飛んだペットボトルがどこかにぶつかって音を立てるが、昊の知ったことではない。会計済みなら文句ないだろう。苛立ちのままホームに繋がる蒸し暑い構内を歩く。
 平静に戻ったのは三分後だ。乗り換えのホームに向かわず、涼しさを求めて当てもなく駅ビルを歩いていれば、二七年間付き合ってきた素の自分が戻ってきた。途端に絶望する。またやってしまった。公共の場で物を投げるなんて、レジを占領していた女性よりずっと非常識だ。店員が会計をしてくれたのだから、それでよしとしなければならなかった。以前の自分なら当たり前にできたことが何故できない? 店内には防犯カメラもあった筈だ。特定されて家に警察が来るだろうか。あれは商売の妨害行為。寧ろ一度捕まった方がいいのかもしれない。だが経営者である大地に迷惑をかけたらどうすればいい?
 考えすぎて訳が分からなくなって、気がつけば駅を出ていた。息が詰まるような構内にいたくない。建物を出た途端に強烈な暑さに襲われるが、半端にホームと繋がって暑いのか寒いのか分からない構内よりマシだと思う。
「品川……、いえ、大井町まで」
 駅前にいたタクシーに乗り込んで告げれば、一瞬怪訝そうな顔をされた。駅からたった数百円で帰れる場所に、何故昼間からタクシーで行くのだという気持ちが伝わってくる。だが構っていられない。
「大井町駅でいいですか?」
「お願いします」
 そこはプロで、平坦な顔に戻った彼は余計なことを言わずに進んでくれた。車の運転をしない昊だが、なんとなく最短ルートを選んでくれているのが分かって、ありがたいと思う。そんな小さな幸運で救われないほど酷い気持ちは、一体どうするのが正解だろう。
『ごめん。行けなくなりました』
 何も言わなければ彼が何時間でも待っていそうで、短くラインのメッセージを打った。体調が悪くなったと言えばそれに縋ってしまいそうで、理由は書かない。だって本当に体調が悪い訳ではなかった。悪くないのにコンビニで暴れてしまった。それを彼にどう言えばいい?
「昊? どうした。随分早くないか?」
 家に帰り着けば、玄関が開くのに気づいた大地が出てきた。
「ちょっと疲れちゃって」
 それしか言えず洗面台に向かう昊に、大地は聡く察したようだった。本当は疲れることなど何もなかった。いい運転手だったから駅を過ぎてマンション前まで送ってもらった。そんな贅沢までしている。
「体調が悪いなら病院に行くか?」
 手を洗ってリビングに戻れば、待っていた彼が事情も聞かずに言ってくれる。
「平気。ごめん。少し寝る」
 もうそれしか現実から逃げる方法がない気がした。
「俺にできることは?」
「警察が来たらごめん」
「茶菓子でもてなしてやるよ」
 恐ろしい台詞にも動じない彼の態度がありがたかった。
「昊」
 微かに笑って部屋に入ろうとするのを呼び止められる。
「俺は今日も明日も家にいるから、話したくなったら話せ」
「ありがと」
 自分は誰より恵まれている。またそれを思いながら部屋に入ってベッドに倒れ込む。恵まれているのに上手くいかないなら、もうどうしようもないじゃないか。そんな風に思えて泣けてくる。記憶が飛んで感情が制御できなくなる。今は長くて一分だが、記憶が飛ぶ時間が長くなっていったらどうすればいい? 自分が自分でなくなっていく。そんな恐怖を誰が理解してくれる? だって昊は、手足にも顔面にも、味覚にも嗅覚にも後遺症が出なかった幸運な患者なのだ。
「透輝……」
 彼が暑い中で待っていないといい。昊の代わりに急遽呼んだ友人と試合を楽しんでいればいい。試合はKオリオンズが快勝するといい。そのまま昊のことを忘れてくれないだろうか。けれど神様はそんな細やかな希望も叶えてくれない。
『八月二二日 Kオリオンズ二対三で敗れる。二対〇で迎えた八回、安井がスリーランを打たれる』
 それ以上書く気もせず日記を閉じる。暗くなった部屋で、もう自分の人生にいいことなどないのだと思った。
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