恋は乗り越えられない試練を与えない。

 失態のように言われて、そんなことはないと背中を撫でてやる。隣の打席に駆けてきた女性たちがこちらを見ている。なるほど、内村に声を掛けるために、ファールのフリでわざとボールを投げたのか。褒められた行為ではないが、素人の女性の球ならぶつかってもたいしたことはない。
「ごめん。手術をした人を連れてくる場所じゃなかった」
「……手術?」
「何が危ないかもっと考えればよかった。ほんとごめん」
「いえ。俺は楽しかったですよ」
 彼を宥めながら、不穏な空気を察しておろおろする女性たちに、ごめんと謝る仕種を見せてやった。聡い二人のようで、ぺこりと頭を下げて去っていく。諦めのいいタイプでよかった。二人だけになった空間で身を寄せたまま、彼が落ち着くのを待つ。
「昊に当たらなくてよかった」
 身体を離したところで言われて参った。女性たちの視線に気づきもせず、一心に昊だけを想ってくれた。そんな彼の様子に平静でいられる訳がない。
「……帰りましょう。湿布を買って帰りますか?」
「平気。昊が無事ならそれでいい」
 落ち込んだままの彼と駅までを歩いた。駅に近づくにつれて混雑が酷くなる。飲み会帰りの人間が多くなる時間。
「昊」
 凹んでいると思ったら、前からやってきた飲み会集団から腕を引いて護られた。
「……すみません」
「いや、今のはちょっと酔いすぎだった」
 肩を抱かれてまた鼓動が速くなる。いつのまにそんなことができるようになったのだろう。さりげない動きに気持ちを引かれる。深みに嵌って逃げられなくなりそうだ。
 リーグ優勝が決まったタイミングで関係を断つ。だが残りの時間は目一杯楽しんでしまおうか。切ないなりに前向きな気持ちでそう思う。このところ感情の発作も起きていない。友達期間中は穏やかな自分でいられたらいい。せめていい印象を残して別れたい。願いながら、慣れた地上駅のホームに上がっていく。だが神は時々無情だ。
「電車、随分混んでいますね」
 混雑路線とはいえ、夜は一人分のスペースを確保できる程度の混雑が普通だった。だが今日は車両から人が溢れそうで、酷い混雑に一本見送ることになる。
「諦めてタクシーにしようか」
 不安げな顔をしてしまっていたのかもしれない。彼に言われて我に返る。
「平気です。たった十五分ですから。透輝は十分でしょう?」
「昊の駅まで送る。前もそうしていたから」
 そこに電車が到着して、後ろの乗客に押されるように乗り込む。
「……思ったより凄い」
 朝の通勤ラッシュを避けて出勤しているからだが、こんな混雑に巻き込まれるのは久しぶりだった。
「途中の駅で人身だったみたいだな」
 デジタルサイネージに目を向けた彼が昊の腰に手を回す。
「ごめん。転ぶのが心配だから。十五分だけこのままでいて」
 片手で吊革を掴んで器用に昊の身体を支えてくれた。目の前の吊革を別の腕に奪われた昊は身を任せるしかない。駅に止まるたびに吐き出される人間より乗り込む人間が多くて、車内の混雑が増していく。内村に護られた穏やかな心も、次第に乱されていく。
「昊、平気?」
「……大丈夫」
 短いやりとりだけでじっと暗い窓の外を見ていた。気づかれないように、深く息を吸って吐く。
「ちょっとマシになった」
 昊が降りる一つ前の駅でどっと乗客が降りていった。それでも酷い混雑であることに変わりはなくて、ざわざわと騒ぎ出す胸を鎮めるように押さえる。あと三分。三分で外に出られる。そう自分に言い聞かせる。だが降車のタイミングで怖れていたことが起きた。混雑から絞り出されるように降りたところで内村の身体が離れる。その瞬間、後ろから凄い勢いでぶつかられた。振り向けばスマホに夢中な男が、よろめいた昊に頓着することもなく離れていく。つい彼が憎くなって、マズいと思ったところでフッと意識が飛ぶ。
「──昊!」
 内村に腕を引かれて我に返った。ハッとしたのはすぐ前で尻餅をつく男性を見たとき。何故ホームで転んでいる? そう思う昊の周りから人々が去って、混雑しているのにそこだけぽっかり空間が空く。
「大丈夫ですか?」
 昊から手を離した内村が目の前の男に手を差し伸べる。
「……っ」
 その手を振り払って、男は内村ではなく昊に不満げな目を向けて去っていった。
「……逆上するタイプじゃなくてよかった。俺らより若くて力も強そうだったから」
 静かに言って、昊の肩を抱いて人混みに紛れるように歩いてくれる。そんな内村の様子に血の気が引いていく。
「俺、何をした?」
「何もしていない」
「嘘。ねぇ、透輝は何を見た?」
 足を止めて聞けば、邪魔にならないように奥の階段に昊を促しながら彼が言う。
「真顔で彼に向かっていった。でも殴る前に自分で手を止めた。振り向いた彼が驚いて転んだ。それだけだ」
「嘘」
「嘘じゃない。俺も後ろから腕を掴んだから、本当に昊は何もしていない」
 そう言われれば、右腕に強く掴まれた感触が甦る。
「……記憶が飛んでいた」
「うん。でも俺は嘘を言っていない」
「一歩間違えば殴っていたかもしれない。そんなの普通の大人じゃない」
「後遺症なんだから仕方ないだろ?」
 言われて足が止まった。じっと彼を見上げる。
「……後遺症って?」
 問えば観念したように彼が言う。
「脳腫瘍で手術をして後遺症が残ったんだろ? お兄さんから聞いた」
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