恋は乗り越えられない試練を与えない。
彼がリモコンを操作すれば、テレビに七回に入ったばかりの試合が映し出される。
「あ、ルーキー」
「……ほんと」
二番手で一年目の投手がコールされて、観客席は大盛り上がりだ。四点差があるから一軍登板が初めての投手に経験を積ませるということだ。
「おお、流石」
物怖じしない彼が七回を三人で抑える。野球を観ていれば内村と元の距離でいられるのがもどかしかった。話したいことを話して早く帰らなければならない。分かっているのに、この試合が終わるまでいたいと思ってしまう。
「これ、おいしい」
彼がケーキを食べ始めるから、昊もありがたく頂いた。彼の甘いもの好きは健在。それを微笑ましく眺める。本当はこんな些細な幸せを感じながら彼の傍にいたかった。想いに浸るうちにあっさりKオリオンズの攻撃が終わる。監督は八回もルーキーに投げさせる指令を出したらしい。調子の良し悪しを見て、どれだけ投げさせるか決めるつもりだったのだろう。
「透輝、あの」
「あ、まずい」
画面に顔を戻せば、ルーキーが立て続けにヒットを打たれていた。先発ピッチャーが守った四対一のスコアが一瞬で四対三に変わる。次の打者から三振は取ったが、猶も一アウト満塁というところで監督が動く。コーチがマウンドに向かって交代を告げる。𠮟咤という感じではなく、ここまでよくやったと言っているようだ。テキストでも『コーチ、マウンドに向かう』という情報は観られたが、些細な表情や空気を感じられるのは映像ならではだ。そんな機会を与えてくれた内村に感謝する。野球観戦が心の支えだった割に、ずっと部屋でテキスト観戦を続けてきた。大きな音にキレる自分が怖かったから。でも今日は大丈夫。テレビの音に気持ちがざわつくこともない。こんな時間を積み重ねて、普通に戻っていけないだろうかと、淡い期待を持ってしまう。
『ピッチャー交代、安井。背番号……』
場内アナウンスに我に返った。
「一アウト満塁で? しかも次は四番なのに」
このところホームラン数を伸ばしている外国人打者だ。一発出れば大逆転。ランナーを塁に出したのは前の投手だが、こういう場合ファンに責められるのは打たれた投手と決まっている。勝負に負ければコメント欄に酷い言葉が並ぶ。どうかそれだけは許してください。彼は罪のないことでずっと責められてきたんですと、目を閉じて誰にだか分からない祈りを捧げる。だが安井君人はそんな柔な男ではない。
「三振! ツーアウト!」
景気のいい実況の声に目を開ければ、一人抑えた彼が息を乱すことなく次の打者に向かっている。その静かな闘志に圧倒される。
「観ておいた方がいいよ。いい勝負だから」
つい目を逸らそうとした昊に内村が言った。前にもこんなことがあった。昊が観たところで結果は変わらない。それなら観ておいた方がいい。いい方の結果だったとき後悔しないように。
「あ……」
打たれたボールがふらふらと上がって味方の守備のグローブに収まる。
「やった」
『ショートフライ! 安井、ピンチを凌ぎました!』
実況はKオリオンズのファンらしい。興奮気味に伝える様子にふっと笑う。
「よかった。これで一安心」
「まだ八回だけどな。しかも一点差」
「安井さんは八回の神だから、彼が抑えた試合は勝つことになっている」
「前もこんなやりとりしたな」
ピンチを救った安井のお陰で、昊と内村の間にあったおかしな空気が消えた。
「試合を見るたびに同じやりとりをするんでしょうね」
「それはまた俺とこうしてくれるってこと?」
野球に浸っているかと思えばそんな質問をするから困る。
「ああ、ごめん。別に困らせたい訳じゃないんだ。ただ、それが俺の希望ってだけ。ほら、九回が始まったから最後まで観よう」
肩を叩かれてびくりとしてしまえば、彼がごめんと手を引く。妙な空気は消えても元通りという訳にはいかない。傷つけたい訳ではなのに上手くやれない自分がもどかしい。
『三振! Kオリオンズ勝利! 一点差を守りきりました!』
最早Kオリオンズファンを隠しもしない実況が、解説者を放って盛り上がる様子に二人で小さく笑った。今日の勝利に一番貢献したのは安井だが、ヒーローインタビューに呼ばれるのは先発投手とルーキーだ。安井ファンにとっては納得いかないが仕方ない。運がよければ、地道にKオリオンズの取材をしている記者が帰りがけの安井に取材して、後日ネット記事を上げてくれる。それに期待だ。とにかく打たれなくてよかった。満足したところで、ここに来た目的を思い出す。
「何度もお世話になってお金だけっていうのも申し訳ないんですけど、とにかくタクシー代は返したくて」
鞄から財布を取り出そうとして、彼に手のひらを見せるようにして止められる。
「お金はいらない。好きな相手のために使って、それを返される辛さって相当」
「そんなつもりは」
「昊が悪いんじゃない。俺がそんな器じゃないってだけ。でも昊が頼れるような男になるから」
「だから」
何を言っても話がそこに戻ってしまう。だが今度は彼がそれを分かっていた。
「恋人に戻るのが嫌なら、一度友達をやろう」
攻め方を変えられた。
「それは難しいかと」
「無理ではないでしょう? 恋人が無理ならまず友達になろう」
まずってなんだ。
「友達なら連絡を無視しようと、みっともないところを見せようと、恋人よりは気楽でしょう? 恋人みたいに全部知らなくてもいいし、逆に友達の方が話しやすいって言うなら、昊が俺にまだ言えていないことを話してくれてもいい」
いつのまに彼はこんなに淀みなく話すようになったのだろう。これも昊のため? そう思うのは自惚れが過ぎるだろうか。
「俺にお礼がしたいって言うなら、その代わりに友達になって。期間はリーグ優勝が決まるまで。その頃、やっぱり恋人には戻れないって言うなら諦める」
期限を区切られると頼みごとのハードルは下がる。恋人に戻るつもりはないが、彼への恩返しになるのではないかと思ってしまう。今は七月。長くてもあと三ヵ月。
「分かりました」
「ほんと?」
綺麗な顔がぱっと華やいで、つい俯いてしまった。直視はマズいと分かっているから。
「一位が独走で、九月頭に優勝が決まってしまう可能性もありますが」
「そんな酷いことを言うとKオリオンズのファンに怒られるよ。今二位なんだから」
そうだ。万年最下位だったチームが今年も頑張っているのだ。一位のCブルータスと三ゲーム差。充分逆転を狙える位置だ。そこで内村と完全に終わりでも、そのときKオリオンズが優勝していれば吹っ切れる。
「今日、デイゲームでよかった。試合に安井が出ていてよかった。そのお陰で昊が友達になってくれたから」
素直に思ったことを言う彼が好ましい。
もう少しだけ。友達として、悔いが残らないように傍にいよう。連絡先を復活させながらそう思った。
「あ、ルーキー」
「……ほんと」
二番手で一年目の投手がコールされて、観客席は大盛り上がりだ。四点差があるから一軍登板が初めての投手に経験を積ませるということだ。
「おお、流石」
物怖じしない彼が七回を三人で抑える。野球を観ていれば内村と元の距離でいられるのがもどかしかった。話したいことを話して早く帰らなければならない。分かっているのに、この試合が終わるまでいたいと思ってしまう。
「これ、おいしい」
彼がケーキを食べ始めるから、昊もありがたく頂いた。彼の甘いもの好きは健在。それを微笑ましく眺める。本当はこんな些細な幸せを感じながら彼の傍にいたかった。想いに浸るうちにあっさりKオリオンズの攻撃が終わる。監督は八回もルーキーに投げさせる指令を出したらしい。調子の良し悪しを見て、どれだけ投げさせるか決めるつもりだったのだろう。
「透輝、あの」
「あ、まずい」
画面に顔を戻せば、ルーキーが立て続けにヒットを打たれていた。先発ピッチャーが守った四対一のスコアが一瞬で四対三に変わる。次の打者から三振は取ったが、猶も一アウト満塁というところで監督が動く。コーチがマウンドに向かって交代を告げる。𠮟咤という感じではなく、ここまでよくやったと言っているようだ。テキストでも『コーチ、マウンドに向かう』という情報は観られたが、些細な表情や空気を感じられるのは映像ならではだ。そんな機会を与えてくれた内村に感謝する。野球観戦が心の支えだった割に、ずっと部屋でテキスト観戦を続けてきた。大きな音にキレる自分が怖かったから。でも今日は大丈夫。テレビの音に気持ちがざわつくこともない。こんな時間を積み重ねて、普通に戻っていけないだろうかと、淡い期待を持ってしまう。
『ピッチャー交代、安井。背番号……』
場内アナウンスに我に返った。
「一アウト満塁で? しかも次は四番なのに」
このところホームラン数を伸ばしている外国人打者だ。一発出れば大逆転。ランナーを塁に出したのは前の投手だが、こういう場合ファンに責められるのは打たれた投手と決まっている。勝負に負ければコメント欄に酷い言葉が並ぶ。どうかそれだけは許してください。彼は罪のないことでずっと責められてきたんですと、目を閉じて誰にだか分からない祈りを捧げる。だが安井君人はそんな柔な男ではない。
「三振! ツーアウト!」
景気のいい実況の声に目を開ければ、一人抑えた彼が息を乱すことなく次の打者に向かっている。その静かな闘志に圧倒される。
「観ておいた方がいいよ。いい勝負だから」
つい目を逸らそうとした昊に内村が言った。前にもこんなことがあった。昊が観たところで結果は変わらない。それなら観ておいた方がいい。いい方の結果だったとき後悔しないように。
「あ……」
打たれたボールがふらふらと上がって味方の守備のグローブに収まる。
「やった」
『ショートフライ! 安井、ピンチを凌ぎました!』
実況はKオリオンズのファンらしい。興奮気味に伝える様子にふっと笑う。
「よかった。これで一安心」
「まだ八回だけどな。しかも一点差」
「安井さんは八回の神だから、彼が抑えた試合は勝つことになっている」
「前もこんなやりとりしたな」
ピンチを救った安井のお陰で、昊と内村の間にあったおかしな空気が消えた。
「試合を見るたびに同じやりとりをするんでしょうね」
「それはまた俺とこうしてくれるってこと?」
野球に浸っているかと思えばそんな質問をするから困る。
「ああ、ごめん。別に困らせたい訳じゃないんだ。ただ、それが俺の希望ってだけ。ほら、九回が始まったから最後まで観よう」
肩を叩かれてびくりとしてしまえば、彼がごめんと手を引く。妙な空気は消えても元通りという訳にはいかない。傷つけたい訳ではなのに上手くやれない自分がもどかしい。
『三振! Kオリオンズ勝利! 一点差を守りきりました!』
最早Kオリオンズファンを隠しもしない実況が、解説者を放って盛り上がる様子に二人で小さく笑った。今日の勝利に一番貢献したのは安井だが、ヒーローインタビューに呼ばれるのは先発投手とルーキーだ。安井ファンにとっては納得いかないが仕方ない。運がよければ、地道にKオリオンズの取材をしている記者が帰りがけの安井に取材して、後日ネット記事を上げてくれる。それに期待だ。とにかく打たれなくてよかった。満足したところで、ここに来た目的を思い出す。
「何度もお世話になってお金だけっていうのも申し訳ないんですけど、とにかくタクシー代は返したくて」
鞄から財布を取り出そうとして、彼に手のひらを見せるようにして止められる。
「お金はいらない。好きな相手のために使って、それを返される辛さって相当」
「そんなつもりは」
「昊が悪いんじゃない。俺がそんな器じゃないってだけ。でも昊が頼れるような男になるから」
「だから」
何を言っても話がそこに戻ってしまう。だが今度は彼がそれを分かっていた。
「恋人に戻るのが嫌なら、一度友達をやろう」
攻め方を変えられた。
「それは難しいかと」
「無理ではないでしょう? 恋人が無理ならまず友達になろう」
まずってなんだ。
「友達なら連絡を無視しようと、みっともないところを見せようと、恋人よりは気楽でしょう? 恋人みたいに全部知らなくてもいいし、逆に友達の方が話しやすいって言うなら、昊が俺にまだ言えていないことを話してくれてもいい」
いつのまに彼はこんなに淀みなく話すようになったのだろう。これも昊のため? そう思うのは自惚れが過ぎるだろうか。
「俺にお礼がしたいって言うなら、その代わりに友達になって。期間はリーグ優勝が決まるまで。その頃、やっぱり恋人には戻れないって言うなら諦める」
期限を区切られると頼みごとのハードルは下がる。恋人に戻るつもりはないが、彼への恩返しになるのではないかと思ってしまう。今は七月。長くてもあと三ヵ月。
「分かりました」
「ほんと?」
綺麗な顔がぱっと華やいで、つい俯いてしまった。直視はマズいと分かっているから。
「一位が独走で、九月頭に優勝が決まってしまう可能性もありますが」
「そんな酷いことを言うとKオリオンズのファンに怒られるよ。今二位なんだから」
そうだ。万年最下位だったチームが今年も頑張っているのだ。一位のCブルータスと三ゲーム差。充分逆転を狙える位置だ。そこで内村と完全に終わりでも、そのときKオリオンズが優勝していれば吹っ切れる。
「今日、デイゲームでよかった。試合に安井が出ていてよかった。そのお陰で昊が友達になってくれたから」
素直に思ったことを言う彼が好ましい。
もう少しだけ。友達として、悔いが残らないように傍にいよう。連絡先を復活させながらそう思った。