恋は乗り越えられない試練を与えない。

 ケーキの理由を理解する。織江は昊と内村の関係を聞いて、現地解散しないように富澤と策を練ったのだ。内村は昊が思うよりずっと多くのことを富澤に話していた。それを織江も聞いていた。感謝しきれないという台詞は、昊と内村の話を口実に彼女と会っていたから。ともあれ、ここで頑なに拒否するのも大人げない。
「分かりました。一度部屋に行きます」
 緊急事態だと思っていたから、財布に現金も多めに用意してある。彼にお金を返すのにもちょうどいい。
「初めてだね、俺の部屋来るの」
「……付き合い始めにバタバタしてしまったから」
「責めたい訳じゃない」
 後部座席に重めの沈黙が降りる。
「なんか俺、昊を困らせてばかり」
「そんなこと、ないですけど」
「ならよかった」
 彼がとても大人びて見えた。大人にその表現は違うのかもしれないが、コミュ障を自称していた彼の言葉の節々に気遣いが見える。自分のために変わろうとしてくれた。そう自惚れそうになってしまう。
「ここ」
 タクシーを降りて向かったのは、新駅から五分ほど歩いた場所にある単身者向けマンションだった。黒い外装の七階建てのマンションが、生活感とは無縁に建っている。
「いいマンション」
「うん。俺は気に入っているけど、結構築年数は経っているんだ。新駅ができる前に建った物件だから家賃も普通だし」
 言いながら内村が四階の部屋に案内してくれる。
「どうぞ」
「あの、俺、タクシー代を返したいと思って来ただけだから。ずっと、迷惑をかけた分を返したいと思っていて」
 部屋に入れば後戻りできなくなりそうで、玄関で足を止めて鞄を探った。
「心配しなくても襲ったりしない」
「別にそんな」
「昊が嫌がることはしないから中に入って」
 腕を引かれて振り払えなかった。片方の手にケーキの箱を抱えた彼に、痛くはないのに逃げられない強さで手を引かれていく。逃げようと思えば逃げられる力加減は厄介だ。
「ケーキ半分にするから、そこに座って待っていて」
「あ、うん」
 高価なケーキとはいえ、半分貰うほど執着していなかった。それなら何故ここに来てしまったのだろう。あれだけ二度と会わないと誓ったのに。それが彼のためだと思っていたのに。
「はい、紅茶」
 いつのまにお湯を沸かしたのか、目の前にカップが差し出された。
「昊、紅茶好きでしょ」
 紅茶と一緒に切り分けられたケーキが出てきて驚く。
「綺麗に切れたから半分は持って帰って。俺の分は昊と一緒に食べたいと思って。食べられなかったら俺があとで食べるから」
 降るように与えられる気遣いに苦しくなって、その顔を見つめてしまう。
「料理、全くしないんじゃなかったですか? 家に包丁もないって」
「昊と離れてからやり出した。まともにならないと昊が戻ってきてくれないって思ったから」
「内村さん」
 不満げに眉を寄せられて、せめてこの時間は譲歩しようと思う。
「透輝、ごめん。俺、酷いこと言って」
 漸く詫びることができた。ここで詫ればあの日の決意が揺らぐ。けれどそうせずにいられなかった。ずっと彼を傷つけた後悔を抱えてきたから。
「透輝は魅力的で、前のままでいい。もし俺の言葉に縛られているのなら、解放されて自由に生きてほしい」
「どうして離れる方向で言う?」
「……っ」
 膝の上で手を掴まれて震える。引き抜こうとするのを彼が許してくれない。
「俺は諦めない。昊が傍に戻ってくれるまで努力する。一度は俺でいいと言ってくれた。可能性はゼロじゃない」
「透輝は俺なんかと一緒にいる人間じゃない」
「どうしてそんな言い方をするようになった? 何を悩んでいる? それを話してほしい」
 真摯な彼に応えられず俯く。
「職場で起こしたことが原因なら俺は気にしていない。まだ体調がよくないなら俺が護る。口先だけじゃない。昊が不安だと思うところは全部直す。それでもダメ?」
「ダメだよ。だって」
 時々感情を爆発させて人を攻撃してしまう。そんな人間が何故好きな相手といられるのだろう。もう分かっている。自分はまた彼が好きだ。多分彼が想うよりずっと。だからこそ醜い部分を見せたくない。制御できない感情が病のせいなんて、そんな都合のいい話を誰が信じるだろう。信じてくれたとしても、何度も暴走を見れば嫌になる。そうなる前に離れておきたい。
「……ごめん」
 ぽつりと呟くことしかできなかった。いくらでも責められるつもりだったが、そこで彼が手を離してくれる。
「また体調が悪くなるといけないから。今日はこれくらいにする」
「今日はって」
「テレビでも観よ。俺、十二球団全試合が見られるチャンネルを契約したんだ。そうだ、今日Kオリオンズ戦がある。もっと早く気づけばよかった」
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